窒素酔い 書き溜めていたブログが少し有るのだけれど、それより前に、テクニカルダイビングについて書いた流れに乗って行くと、窒素酔いについて書くことになる。 僕は、プロの深海ダイバー、窒素酔いジャンキーになったダイバーを除けば、日本有数の窒素酔い体験者だと思う。 窒素酔いの体験について、時系列で、窒素酔いとはどんなことかと述べて行きたい。 まず、深く潜ることが好きなダイバーが多い。深く潜る必要はなく、浅い海でこそダイビングが楽しめる、と人が多いが、言うだけだ。深く潜ることが、好きでなければ、何が悲しくて、高いお金を使って、生命までも危険にさらして、テクニカルダイビングなどやることはない。テクニカルダイビングがレクリエーション主体であることは間違いないと思うのだが、殆どのテクニカルダイバーは、目的もなく深く潜っている。洞窟、沈船などの意味があるという人が居るだろうが、沈船は宝探しという目的もあるが、洞窟については、レクリエーションだろう。レクリエーションといった時、馬鹿にしたように聞こえるかもしれないが、それは生きる目標、それなしでは生きられない目標の一つでもある。 僕も深く潜ることが好きだ。僕の場合はプロという意識があるから、仕事として収入がある形で深く潜っていたが、嫌いだったらそんなに危ないことはやらなくても生きていかれる。ある意味で、レクリエーションだった。 90m空気潜水 1963年8月に、舘石昭氏と、僕はデマンドバルブ付きのフルフェイスマスクのテストの目的で、ホースからの空気、送気で100mを目指して、90mでギブアップした。この潜水が、いろいろな意味で僕の潜水の原点になった。フルフェイスマスクでの船上との通話が、後のニュース・ステーションの水中レポートになったし、窒素酔いについての自分なりの結論を掴んだ。
その時の装備:報告書から
1963年8月6日、まず40mに潜った。その日二回目の潜水で70mに潜った。二回目に深く、それも70mとは減圧症についてルール違反だが、日程の関係でどうしても、第一回は機材テスト、一日目で70mをやりたかった。70mで非常に不快であり、とても潜水を続けられなかった。これは、窒素酔いと同時に送気量が足りなくて、炭酸ガス中毒を併発していたのだろう。 8月7日、60mに潜ったが、潜水になれたのか、それほど不快ではなく、60mまでは問題ないと感じた。 8月8日 80m、ホースからの送気量が足りずに意識がもうろうとなった。 8月9日、100mを目指したが90mで引き返した。須賀は送気量が十分であったため、90mでも、有線通話方式で船上とクリアーな交信を続けたが、90mで舘石さんが意識が途絶えたらしく、落下したので浮上した。落下しても命綱があるから、問題ないが、浮上した。舘石さん本人は自分の意識が途絶えた事を知覚していない。居眠り運転と同様だ、意識が途切れて、落下したのだと想定した。 空気で90mは、酸素中毒であった可能性もある。 アシスタントは、救助のために60mまで潜って来たが正常だった。自分たちも60mに戻って、これで生きたと思った。そこで、60mという数字が頭に刷り込まれた。 結論として、次第に深度を深くしていくのではなくて、突然深く潜るのは危険である。潜水を重ねる事によって、窒素酔いに慣れる事ができる。空気で60mまでならば、撮影などの軽い仕事ならばできると考えた。 その後、スガ・マリンメカニックという会社を設立して、撮影調査の仕事もしたが、人工魚礁の撮影が多かった。人工魚礁は、次第に沈設深度が深くなり、70-80mになった。80mの底までは行かなかったが、55-60mは通常の仕事として潜水していた。ただ、1年ぶり程度の間を置いて、60mに潜るようなときは、遺書を書いたりした。
1960年代、深く潜っていることを、出版された書籍の上で書いているものとして、伊豆海洋公園の益田一さんと畑正憲 が書いた「日本の海洋動物、水深90mまで:学習研究社1969」がある。
窒素酔いについて畑正憲が書いている。「水深70メートル 神秘的なざわめきが聞こえてくる。初めてもぐったときは耳を疑った。思わずあたりを見まわした。潮騒のように密林の奥でなるドラムのように、ざわめきの中にトントンと皮を打つ音が響いてくる。わたしたちはこれを、70mの音楽とよんでいる。 音楽は深くなるにつてて変わる。血管を流れる血液の音に心臓の鼓動が交じるのだ。音楽の旋律によって私たちは深さを知る。 90メートルの音楽が聞こえ始めると、本格的な窒素酔が始まった。けだるくものうい。四肢から力が抜けていった。中略 1m上に上がっただけで、意識が清明に澄んでくるのだ。」 水深87m
益田一さんは、僕にとって仲の良い特別な友人だった。 彼らはその深さに興味深い生物がいたから潜ったというが、そんな生物に興味を持たなくても、浅い海の方が興味深い生物が多いのだから、生き物がいたからという必然性はない。 続く
1963年8月6日、まず40mに潜った。その日二回目の潜水で70mに潜った。二回目に深く、それも70mとは減圧症についてルール違反だが、日程の関係でどうしても、第一回は機材テスト、一日目で70mをやりたかった。70mで非常に不快であり、とても潜水を続けられなかった。これは、窒素酔いと同時に送気量が足りなくて、炭酸ガス中毒を併発していたのだろう。 8月7日、60mに潜ったが、潜水になれたのか、それほど不快ではなく、60mまでは問題ないと感じた。 8月8日 80m、ホースからの送気量が足りずに意識がもうろうとなった。 8月9日、100mを目指したが90mで引き返した。須賀は送気量が十分であったため、90mでも、有線通話方式で船上とクリアーな交信を続けたが、90mで舘石さんが意識が途絶えたらしく、落下したので浮上した。落下しても命綱があるから、問題ないが、浮上した。舘石さん本人は自分の意識が途絶えた事を知覚していない。居眠り運転と同様だ、意識が途切れて、落下したのだと想定した。 空気で90mは、酸素中毒であった可能性もある。 アシスタントは、救助のために60mまで潜って来たが正常だった。自分たちも60mに戻って、これで生きたと思った。そこで、60mという数字が頭に刷り込まれた。 結論として、次第に深度を深くしていくのではなくて、突然深く潜るのは危険である。潜水を重ねる事によって、窒素酔いに慣れる事ができる。空気で60mまでならば、撮影などの軽い仕事ならばできると考えた。 その後、スガ・マリンメカニックという会社を設立して、撮影調査の仕事もしたが、人工魚礁の撮影が多かった。人工魚礁は、次第に沈設深度が深くなり、70-80mになった。80mの底までは行かなかったが、55-60mは通常の仕事として潜水していた。ただ、1年ぶり程度の間を置いて、60mに潜るようなときは、遺書を書いたりした。
1960年代、深く潜っていることを、出版された書籍の上で書いているものとして、伊豆海洋公園の益田一さんと畑正憲 が書いた「日本の海洋動物、水深90mまで:学習研究社1969」がある。
益田一さんは、僕にとって仲の良い特別な友人だった。 彼らはその深さに興味深い生物がいたから潜ったというが、そんな生物に興味を持たなくても、浅い海の方が興味深い生物が多いのだから、生き物がいたからという必然性はない。 続く