ダイビングでなにをするのか、と言えば、まず水中撮影だろう。現在、この世の中では、撮影されていない、画像になっていないものは、存在していないもののようだ。撮影をしないで文章だけで表現したいと思う。しかし、画像が使えるならば使った方が良い。スマートフォン端末でカメラ機能のないものはない。端末は誰でも持っている。だから、どこででも何でも撮影してしまう。自分で自分の記念写真を撮ってしまう。10年前には、そのような機運はあったと思うが、ここまでにはなっていなかった。だから水中撮影も変革した。自分たちのことを言えば、マスクマウントなど、何にでも載せてしまうウエアラブルカメラを多用するようになった。昔のことをよく書いているのだが、あのとき、今のようにカメラを多用していて、どこにでもカメラがあって撮っていたらよかったのにと思うことが多い。たとえば、この前テレビに出演して、大島の大噴火のときに水中に潜って、水中に降り注ぐ噴石を撮影した。一つの伝説を作った映像を紹介したが、その時、僕の撮影を受けている船の上にカメラがなかった。噴石は当然、船の上にも降り注ぎ、船のガラスは全部割れた。その映像がないのだ。ディレクターが悔しがったが、今ならば、4台ぐらいのカメラがあり、すごい映像が撮れただろう。脱線からスタートしてしまったが、とにかく撮影する、画像を制作することについて書こう。
ダイフェアで、地球の海フォトコンテスト2016が大きいスペースを取っている。スペースがもったいない、無駄だなどと書いたりしたが、撮影こそがダイビングのすべて、であるとすれば、これが妥当なのかもしれない。日曜のように満員だったならば、このくらいのスペースがないとゆったりと見られない。とにかく下手でもなんでも飾ってあげようというのは、大きなサービスだ。 自分の視点から作品を見て、どうにもならない写真もあるが、平均的にそれぞれ上手だし、先日見に行った、「海で逢いたい」写真展と比べても、入選した作品については、それほど見劣りはしない。それでも、なにをどういう形で撮ったのか(被写体)、なぜ撮ったのか(表現の意図は)、とか考えると、なんだかわからない作品が多い。水中撮影は、瞬間的な判断であり、感性の勝負であるが、だからこそ、コンセプトを整理しておかなければならない。 まとめて言うと、意図、被写体、切り取りかた、撮影技術(機材も含めて)、そして感性であるが、プロのカメラマンは、これらについて生活をかけている。 僕も生涯の一時期、大学時代かな、スチルにかけたときがあった。しかし、東亜潜水機で、ものつくりの仕事をしていて、次は指導の仕事をして、安全だとか、危険だとか、資格だとかいろいろあって、ブランクになり、自分の会社で撮影の仕事を始めた時には、調査の仕事が主となり、そのあとはテレビ番組撮影、最後は太画面展示映像の撮影と歩いてきて、プロのスチルのカメラマンとは、ジャンルが違ってしまって、スチルで肩を並べようと意図することにはならなかった。 そして、テレビや映画の監督は、カメラマンが現場でスチルを取るのを嫌う。特に水中とか自然相手の場合、ベストショットがスチルだったら、そのカメラマンとは二度と組みたくは無いだろう。テレビの仕事はチームプレイであり、カメラマンはチームの中心でもある。水中撮影でも動画の仕事はチームプレイであり、スチルの撮影は個人プレイだった。 それでも、大型展示映像を撮るようになった時には、シャッターを押すまでは観察したり考えたりする時間がある。フイルムで撮る事が多かったので、僕はニコノスⅤを露出計代わりに使って、少しはスチルが撮れた。たった一冊出した写真集は、人工魚礁の写真集だった。これは産業写真の分野になる。 村上コレクションで、吉野スージーと話した。ユースケは、いろいろ誘いの話はあったけど、ビデオカメラで動画は撮らなかった。それが良かったのだと僕が言うと、隣の芝生は緑で、両刀使いで稼いでいる人が羨ましかったらしい。 しかし、スチルで名前が出てくると、名前を買って、その人に動画も回させたくなる。動画のカメラマンとしては、それを見ていい気持ちはしない。うちの中川も、水産大学潜水部の後輩である古島もスチルは遊びでしか撮っていないはずだ。そして、動画のカメラマンとしては、スチルのカメラマンのように名前が上がった人は殆どいない。例えば、ダイビングフェアでトーkショーをやったりすることはない。 しかし、この頃は、動画から切り出したスチルでも、スチルとして勝負できるようになった。カメラマンも動画と静止画の区別はなくなるはずだ。それにしても、やはり、テレビなどの動画のカメラマンは職人としての位置づけが強く、スチルのカメラマンは芸術のような顔をする。 さて、アマチュアの地球の海コンテストだが、やはり意図があるように見える作品、意図を後から説明づけることができるような作品が選ばれるのだろう。選ばれた作品は、選者の感性と、好き嫌いで選ぶのだが、大体は的を得ている。被写体と光、自然光の使い方と思いつきの良さで決められているように見える。グランプリのトップ、環境大臣賞は、ジンベイが上を向いて光とともに餌を食べている絵だが、勿論悪くは無い写真だが、だからなんだという答えがでてこない。そもそも環境部門というのがどういう基準なのかわからない。環境問題を提起するのか、なんとなく環境を考える。環境つぽいとか。ガラスに反射してしまうので、綺麗に写らなかったので、写真の良さが分からないが、もしかして、撮影禁止なのかもしれない。きれいに撮れていなくて者sンに可哀想なので、ここには出さない。
準グランプリのクラゲ
エルニーニョで白化したイソギンチャクとクマノミは、きれいな写真だが、温暖化という着想から3位になったのだろう。環境というリテラシーで考えると、エルニーニョでイソギンチャクが白化しても、クマノミは元気、という意図なのか、やがてはイソギンチャクは死んでゆくだろうと心配している意図なのかわからない。説明は意図的に読まなかった。読んでなるほどと納得するのでは、まずい。
入選した作品では、一緒に歩いていた倉田君の友達が撮ったものがあり、倉田君も同じところを撮ったとスマホで見せてくれた。倉田の方がよかった。エビがどっちをむいているかの差だったけれど。 とにかく、アマチュアが一生懸命に撮った作品が並んでいて、水中撮影を盛んにする、すなわちダイビングを盛んにするという役割を具体的に果たしている。 いろいろ言うことを言うけれどマリンダイビングフェアはコンセプトがきっちりとわかりやすい。まず撮影作品展、次に撮影機材、次にダイバー予備軍が多く集まる場所柄で、C-カード講習、遊びにゆく日本のダイビングスポット、海と島の旅、トークショウ、アトラクション、セミナーがあり、階を上がって、世界のダイビングリゾートと並んでいる。優れた企画であり、優れた催しであり、だから続いているのだとおもう。 このコンセプトから外れたものとして、村上君の展示がある。僕にとっては、これがあったことが、今回のダイビングフェアに三日も通う気になり、通うことができた。と言って、これをフェアの中に含めてしまうと旧ダイビングフェスティバルになってしまう。とにかく、別のところで、ゆっくりと話しあったり、見たりすることはとても良かった。機材方面は、ダイブビズショウがその役割を果たしていると言っても、勿論機材もでているけれど機材だけではなく、吉野スージーのように写真もでているし、ジュリアも出ている。僕はフリーゾーンという言葉がこれに当てはまると思うのだが、主催した村上くんは、楽市楽座だという。フェアとの関わりもあるので、難しいかも知れないが、もし僕が、ハイブリッドに成功したら、飾って見てもらうところは、ダイビングフェアでは、コンセプトが合わないし、ビズショウでもない。フリーゾーンが欲しい。
また脱線している。今日は撮影について書くつもりだった。長くなるのでここで一旦切ろう。