2008年、関東学生潜水連盟40周年を記念した集まりが新宿の住友三角ビルで行われた。新宿の住友三角ビルは、1970年代のレジャーダイビングのメッカともいうべき、ドウ・スポーツのダイビングプールがあった。 この深さ10mのプールが埋められたことは、ダイビングの一つの時代の終幕だったと振り返るのだが、2008年には、残されたスポーツクラブも終わろうとしていた。ドウ・スポーツは新宿から撤退して豊洲に戻って行った。 ずいぶん利用して、思いでの詰まっていた地下の商店街はシャッター街になっていた。 学連の40周年記念の会は、学連にはOB会があるわけではないので、現役執行部が主宰したものだった。 この集まりで、僕は学連の真ん中辺、20期前後のOBと初めて直接の繋がり、知己を得ることができた。母校の海洋大学についてもこれがきっかけでOB会を50周年に向けて作ろうという気持ちになり、呼びかけて作ることができた。母校でもOBは、僕が教えていた15期あたりまで、そして16ー40期あたり、40ー現在 の三層に分かれている。三層のつながりがないのは、OB会が無いからだろうと思っていた。このような世代間の隔離は、周年行事でOBが一堂に集まることで解消の方向に向かう。海洋大学の場合は、50周年に向けてOB会を始めて作ったのであるから、その第一歩であった。 中央大学もこの40周年 学連OB会で親しくなることができ、中央の40周年の会で、講演をさせて頂き、名誉顧問にもしていただいた。中央は、三層がうまく連携しているようだった。
人間、身一つである。一人の人間は一カ所にしか存在できない。学連についても、海洋大、ちょうどそのころ母校の水産大学が、海洋大になってしまう移り変わりのときだったのだが、母校にかかわりあっているとSAIからは、目がはなれてしまう。 現役と監督コーチとの遊離をなんとかしたい。そのアプローチは現役SAIからでは、とどかなかった。 現役執行部というのは、はかない。1年、長くて2年つきあうと卒業、さようならになり、また、次の人間関係をつくらなければならない。今後しばらくは、窓口を監督・コーチにして、つきあいを継続的にしたいとかんがえた。 学連は全日本水中スポーツ室内選手権大会の実行には欠かせない運営の下働きの役割を果たしてもらっている。SAIには、社会スポーツセンターの遠矢君にきてもらい、学連執行部の兄貴役を果たしてもらえれば、どちらにとっても有意義であろうと、一部バトンタッチした。 個人的には、これはまた、別の話になるのだが、全日本潜水連盟の理事長職を退くことになり、日本水中科学協会の設立に全力をあげていた。自分が全日本潜水連盟の理事長である限りSAIを資格にするならば、それは全日本潜水連盟の資格にしなければいけない。一方で大学の監督、コーチはNAUI、PADI、さまざまである。作ろうとしていた日本水中科学協会は指導団体ではないので、SAIもくくりやすいと考えた。 日本水中科学協会が発足して最初の行事であったシンポジウムに学習院大学の宮崎監督に学習院のクラブの実態についての講演、発表をしていただいた。これが2010年の12月であり、そのシンポジウムでは学連の現役がほとんどの大学から参加してくれて、会場をうめてくれた。これはSAIの成果であろうと喜んだ。
発表していただいた学習院、そして、法政、中央、辰巳プールで知り合った芝浦工業大学の足立顧問、芝浦工大は、僕がお世話になっていた東亜潜水機の佐野社長が、ダイビングクラブの創始者の一人であり、その佐野社長は、僕が東亜を去るときに小学校6年生だったという縁があった。そしてできたばかりの海洋大学OBの5大学で働きはじめようと、第一回の集まりを予定したのが3月18日だった。3月11日の震災で、東京はどうなるか、日本はどうなるか、その集まりは流してしまった。また、その年のSAIも日本水中科学協会のシンポジウムも行うことができなかった。 しかし、流れた5大学の集まりでの内意は、SAIで資格をまとめることは賛成ではなく、監督コーチの話し合いの場を作ろうという方向だった。 SAIが新しい集まりのために発展的に解消することは吝かではないとその時に考えていたが、それがさらにSAIを減速させることになった。実はこれが誤りであったことが、やがて明らかになる。
人間、身一つである。一人の人間は一カ所にしか存在できない。学連についても、海洋大、ちょうどそのころ母校の水産大学が、海洋大になってしまう移り変わりのときだったのだが、母校にかかわりあっているとSAIからは、目がはなれてしまう。 現役と監督コーチとの遊離をなんとかしたい。そのアプローチは現役SAIからでは、とどかなかった。 現役執行部というのは、はかない。1年、長くて2年つきあうと卒業、さようならになり、また、次の人間関係をつくらなければならない。今後しばらくは、窓口を監督・コーチにして、つきあいを継続的にしたいとかんがえた。 学連は全日本水中スポーツ室内選手権大会の実行には欠かせない運営の下働きの役割を果たしてもらっている。SAIには、社会スポーツセンターの遠矢君にきてもらい、学連執行部の兄貴役を果たしてもらえれば、どちらにとっても有意義であろうと、一部バトンタッチした。 個人的には、これはまた、別の話になるのだが、全日本潜水連盟の理事長職を退くことになり、日本水中科学協会の設立に全力をあげていた。自分が全日本潜水連盟の理事長である限りSAIを資格にするならば、それは全日本潜水連盟の資格にしなければいけない。一方で大学の監督、コーチはNAUI、PADI、さまざまである。作ろうとしていた日本水中科学協会は指導団体ではないので、SAIもくくりやすいと考えた。 日本水中科学協会が発足して最初の行事であったシンポジウムに学習院大学の宮崎監督に学習院のクラブの実態についての講演、発表をしていただいた。これが2010年の12月であり、そのシンポジウムでは学連の現役がほとんどの大学から参加してくれて、会場をうめてくれた。これはSAIの成果であろうと喜んだ。