事故以来、学連では負荷をかけた立泳ぎが禁止されたが、禁止されるようなエキササイズを考えだして、やらせた僕たちにも責任がある。練習方法を考えたのも、その雰囲気、空気を作ったのは、僕たちだ。そんな責任感があったのだが、その時点では、それ以上自分が突っ込んで行かれる時間も無いし、そのような立場もなかった。 そして、学生のダイビングからは、離れた。 学生のダイビングから離れても、鉛を持った立泳ぎが、本当に悪い練習方法なのだろうか、考え続けている。 もう一度、ここで、立泳ぎ練習、そして、このような空気が生まれてきた過程を振り返ってみよう。 伊豆海洋公園ができた。 1964年頃、スピアフィッシング全盛時代であったが、海洋公園で死亡事故が連続した。ある日、益田さんと会食した。どうしたら事故を減らせるのだろうね。という話題になった。 僕は答えた。泳ぎの練習をさせる他ないとおもう。水泳ではなくて、タンクを背負っての泳ぎだ。それとレスキューのための泳力が必要だ。 その頃のスクーバダイビングでは、まだ、泳力が大事だとして練習をしたことはなかった。 そもそも、泳力トレーニングという思想がなかった。 そして、 1967年、その頃の仲間を結集して、日本潜水会ができて、その第一回の研修が伊豆海洋公園で行われた。その頃の海洋公園は、夏は50mプールが、周辺別荘地帯の海水浴場として芋洗いの状況だったが、冬は、閑古鳥が鳴いていた。
日本潜水会1967年
この日本潜水会の第一回研修が契機となって、海洋公園はトレーニングのメッカになる。他にトレーニング出来るプールなどないのだ。海洋公園が計画された時、ヒョウタンのような形のリゾートプールが設計されていたが、益田さんが断固として、50mの長水路競泳プールに変更させた。彼の慧眼だった。 長水路の横には、深さ3mの、たしか縦横5mぐらいの小さいプールが併設されていた。ここで水中脱着などの練習をする。
3mプール
この二つのプールで、僕たちは考えられるさまざまな練習方法を試した。そのころの自分たちの考えでは、まさかプールで人が死ぬとは思っていない。ブラックアウトすれば、 30秒以内に引き上げれば、息を吹き返すと思っている。30秒で引き上げれば、人は死なない。 30秒以内で人が死ぬのであれば、海でのダイビングなど恐ろしくてできない。 みんなで考え、やってみて、自分たちが出来るギリギリ限界点を、練習項目、基準とした。僕たちの考えついた練習種目は、その後、一緒に日本潜水会を作った、 NHKカメラマン、河野、竹内らによって、 NHKの研修にも引き継がれた。河野は優しそうに見える男だが、 NHKでは、鬼と呼ばれたらしい。鬼が司る練習だから、すべての種目は地獄である。 3mプールでの、鉛を持った立泳ぎは、地獄釜と名付けられた。地獄で釜茹でになっているつもりだろう。50m長水路プールで、フィン、マスク、スノーケルを着けないで、タンク、ウエイトを付けて、泳ぎ、周回する。時間差をつけてスタートするのだが、3周するうちに、後発に抜かれると、一周プラスされる。これは、座頭市地獄旅と名付けられた。実は、別にスーパーマンではない自分たちが出来る限界だから、大したことはないのだが、NHKカメラマンたちらしい、半ば洒落のような発想でのネーミングだった。しかし、こういうネーミングは一人歩きする。経験した者が半ば得意になって、地獄の練習を耐えたという。 BCがない時代である。浮力調整はない。すべて泳力である。地獄とは別に、泳力の増強は、競泳で鍛えるのが、王道であると考えた。フィン、マスク、スノーケルで水面を泳ぐ競泳、フリッパーレースは、1968年、目黒区の日大プールで第一回を開催した。この第一回は学生連盟と合同だったが、その次のロレックスをスポンサーとした全国大会が伊豆海洋公園で行われたときは、全日本潜水連盟が全国に各支部をつくるために、地区対抗で行われたため学生は関東のチームのメンバーとして参加した。 そして学生は学生だという自立心が強く、学生は別の自分たちの大会を行うようになり、現在に至っている。 フリッパー競泳は立泳ぎには直接関係はないが、スポーツ大会の競技種目に水中重量挙げという種目があり、これは、水深5mからウエイトを引き揚げてくる重さを競う競技であり、泳ぎ方については、立泳ぎである。 全て、自分でやってみて、出来ることを基準にした。自分は仲間の中ではどちらかと言えば虚弱であり、自分を標準にすれば、学生も、誰も難なくできると思った。立泳ぎは中性浮力に加えて、5キロのウエイトを持ち、10分間が僕の限界であったため、練習種目は5キロを持って10分間立ち泳ぎできれば合格とした。そして、当初、東亜で作っていたチャンピオンという短い小さいフィンを履いていた。それで、5キロ10分が限界だった。だれかにクレッシいのロンディンを借りて使ってみたら、楽々と10分泳げる。20分でも30分でも続けられそうだった。 フィンの違いがこれほどまでに、大きいのかと驚き、立ち泳ぎはフィンの性能を試すのに絶好の手段だと思った。 果たして、このように負荷をかける練習、負荷を増やしていくことはやるべきではない練習なのだろうか。どこまで負荷をかけて良いのか。
続く
この日本潜水会の第一回研修が契機となって、海洋公園はトレーニングのメッカになる。他にトレーニング出来るプールなどないのだ。海洋公園が計画された時、ヒョウタンのような形のリゾートプールが設計されていたが、益田さんが断固として、50mの長水路競泳プールに変更させた。彼の慧眼だった。 長水路の横には、深さ3mの、たしか縦横5mぐらいの小さいプールが併設されていた。ここで水中脱着などの練習をする。
この二つのプールで、僕たちは考えられるさまざまな練習方法を試した。そのころの自分たちの考えでは、まさかプールで人が死ぬとは思っていない。ブラックアウトすれば、 30秒以内に引き上げれば、息を吹き返すと思っている。30秒で引き上げれば、人は死なない。 30秒以内で人が死ぬのであれば、海でのダイビングなど恐ろしくてできない。 みんなで考え、やってみて、自分たちが出来るギリギリ限界点を、練習項目、基準とした。僕たちの考えついた練習種目は、その後、一緒に日本潜水会を作った、 NHKカメラマン、河野、竹内らによって、 NHKの研修にも引き継がれた。河野は優しそうに見える男だが、 NHKでは、鬼と呼ばれたらしい。鬼が司る練習だから、すべての種目は地獄である。 3mプールでの、鉛を持った立泳ぎは、地獄釜と名付けられた。地獄で釜茹でになっているつもりだろう。50m長水路プールで、フィン、マスク、スノーケルを着けないで、タンク、ウエイトを付けて、泳ぎ、周回する。時間差をつけてスタートするのだが、3周するうちに、後発に抜かれると、一周プラスされる。これは、座頭市地獄旅と名付けられた。実は、別にスーパーマンではない自分たちが出来る限界だから、大したことはないのだが、NHKカメラマンたちらしい、半ば洒落のような発想でのネーミングだった。しかし、こういうネーミングは一人歩きする。経験した者が半ば得意になって、地獄の練習を耐えたという。 BCがない時代である。浮力調整はない。すべて泳力である。地獄とは別に、泳力の増強は、競泳で鍛えるのが、王道であると考えた。フィン、マスク、スノーケルで水面を泳ぐ競泳、フリッパーレースは、1968年、目黒区の日大プールで第一回を開催した。この第一回は学生連盟と合同だったが、その次のロレックスをスポンサーとした全国大会が伊豆海洋公園で行われたときは、全日本潜水連盟が全国に各支部をつくるために、地区対抗で行われたため学生は関東のチームのメンバーとして参加した。 そして学生は学生だという自立心が強く、学生は別の自分たちの大会を行うようになり、現在に至っている。 フリッパー競泳は立泳ぎには直接関係はないが、スポーツ大会の競技種目に水中重量挙げという種目があり、これは、水深5mからウエイトを引き揚げてくる重さを競う競技であり、泳ぎ方については、立泳ぎである。 全て、自分でやってみて、出来ることを基準にした。自分は仲間の中ではどちらかと言えば虚弱であり、自分を標準にすれば、学生も、誰も難なくできると思った。立泳ぎは中性浮力に加えて、5キロのウエイトを持ち、10分間が僕の限界であったため、練習種目は5キロを持って10分間立ち泳ぎできれば合格とした。そして、当初、東亜で作っていたチャンピオンという短い小さいフィンを履いていた。それで、5キロ10分が限界だった。だれかにクレッシいのロンディンを借りて使ってみたら、楽々と10分泳げる。20分でも30分でも続けられそうだった。 フィンの違いがこれほどまでに、大きいのかと驚き、立ち泳ぎはフィンの性能を試すのに絶好の手段だと思った。 果たして、このように負荷をかける練習、負荷を増やしていくことはやるべきではない練習なのだろうか。どこまで負荷をかけて良いのか。
続く