学生のダイビングを考える時、キーになっているのは、自分の娘の同級生に起こった事故だ。二度と同じような事故は起こさないと誓ったことなのだから、何時も思い出して論じて良いのだ。書けば際限もないが、僕の目からは、亡くなった本人はもちろん、現場にいた3年生もOBも誰も責められない事故だった。
何が原因か、といえば、空気が大きかったと思う。
ダイビングの事故の原因は、病気、へたくそ、そして思い上がりだと言い続けてきたが、思い上がりが一番恐ろしく、そしてわかりにくい。その場の空気とは、思い上がりのうちではあるが、ちょっとちがう。思い上がりは、個人個人それぞれだが、空気とは、全体的な、雰囲気の内での思いあがりだ。具体的に説明できる時とできないときがある。法政の事故の原因は立ち泳ぎだが、掛け声をかけて健気に頑張る子供たちをみて、微笑ましいもののように受け止めている、そんな雰囲気があった。
それは僕の空気でもあり、責任でもあった。泳力至上は、市民権をもっている競泳のスタイルで行うべきで、鉛を持った立泳ぎについては、研究が十分ではなかった。そのウエイトをもっての立泳ぎを日本潜水会ではじめさせた自分の責任のように感じた僕は、亡くなった子のお父さん、お母さんに何度もお便りした。なんらかのケアになるかも知れないと思ったのだが、迷惑な逆効果だったかもしれない。それでも、お父さんは、きちんとした礼状をくれた。お母さんは、決してあきらめないだろうとも書かれていた。
空気が事故の原因として大きいと知りながら、自分の会社でその空気で事故をおこしてしまう。スガマリンサーカスと呼ばれて、喜んでいるような雰囲気である。
そのころ、東海大学卒業でプロのダイバーになった子の2年目が危ないというジンクスがあった。そういうことをおろそかにしてはいけない。それをケアしなかった僕は、東海大学卒2年目の脇水を殺してしまう。この事故は僕のダイビング人生を変えてしまった。
学連の空気に、僕は関係しているOBとして、責任があると思ったが、自分の仕事としてのダイビングに忙しかった。何もできなかった。そしてその空気は学連で、そして母校の水産大学でもいくつかのニヤミスを起こす。水産大学については、50周年でOB会を作ろうとして、ブランクだった過ぎてきた日々のことをOBたちに聞いて愕然とした。助かっていただけというアクシデントがいくつもある。その内で、ヘリコプターで搬送された事故もあった。
助からなかった例も学連ではあった。三宅島での事故だった。それは、僕のホームページに幻の事故というタイトルで載せている。
監督、コーチがその場にいたとして、例えば僕がその場にいたとして。あの事故が防げたかどうかわからない。が、現場で指導していた上級生の心の負担がどれほどのものだったろう。しかし、それも彼らのダイビングを続行したいという願いと、チームワークで乗り切って現在の法政アクアがあり、自分の娘も、そして、上級生だった娘婿もそこには、いる。
人間50年、夢幻だというコンセプトが好きだから、50年生きたら、後は癌で死ぬよりは海で死んだ方が良いなどと言っている。しかし、50年未満は死んではいけない。世に絶対ということは無いが、学生のダイビングの安管理は絶対に近いものであってほしい。自分として絶対と思えるのがケーブルダイビングシステムだ。これは、前述した自分の会社の事故と関係がある。命綱兼用の有線通話機を脇水輝之が着けていれば、この事故はおこらなかった。一人で潜るときには、必ず水面と直接のコンタクトを着ける。
このケーブルシステムの弱点はチームでなければ運用できないことだが、学生クラブはチームである。
しかし、このシステムはスクーバダイビングには当てはめられない。自分が学生の時、ひも付きになることをいやがった。ひも、コンタクトをつけられるくらいなら死んだ方が良いとおもう。それがスクーバダイバーだ。だから事故は防げない。
脱線してしまったが、最善は尽くさなくてはいけない。ケーブルダイビングシステムの普及に最善は尽くしたが、事故を起こしたスガマリンメカニックでさえ、ケーブルを使わなくなって、あきらめた。いや、部分的にはまだ、あきらめていない。自分の80mはこの方式でやる。
学生とのつながりは、スポーツ大会、フリッパー競技会を通してあり、およそ、スポーツと名がつけば、学生が中心になってやるものでなければ、栄えない。僕たちのロレックス杯競技会は、法政が常勝で副賞のロレックスをさらっていった。その思い上がりがなかったとはいえない。
このスポーツ大会が、自分が常務理事を務める、社会スポーツセンターが主催で行うようになり、学連を大事にしなければ、スポーツ大会はできないし、学生にとっても、社会人と向き合う、良い機会だと考えてそのように動いた。
第40,41代の子たちと潜りに行った記念写真。土肥だった。
やがて、60周年を迎える海洋大学、水産大学の潜水部、第40代、41代のときだから、1994年だ。水産大学の潜水部から、OBの集まりがあると連絡がきた。まだ、その時はOB会はないのだから、現役の学生が企画した集まりだった。40周年のつもりだったと思う。学生とのコンタクトの機会は、大事だと感じていたころでもあったので、出席した。僕が、水産大学潜水部のコーチをやめたのが、1969年だから、これが水産大学潜水部との25年の間を置いたコンタクトだった。40代の中心だった東隆二君が、僕と一緒に仕事をしていて縁の深い、仲間の息子で、水産大学に入ったことも、潜水部に入ったことも、その時に知った。41代の吉村くん、43代の小坂くん、鈴木さん45代の今泉くん、井口さんとは、自分の子供のように親しくなり、41代の吉村くんとは、潜水部の有志にカメラを持たせ、撮影を教えて、ビデオクリップを作った。45代の今泉くん、井口さんなどを仲介して、50周年を期して、OB会を発足させた。OB会を作らなかったのは、自分の責任のように思っていたから、これで、責任を果たす事ができた。
そのような流れの中で、関東学生潜水連盟の状況、彼らの練習の有様を知ることができた。何時事故がおこってもおかしくない空気を感じた。
何が原因か、といえば、空気が大きかったと思う。
ダイビングの事故の原因は、病気、へたくそ、そして思い上がりだと言い続けてきたが、思い上がりが一番恐ろしく、そしてわかりにくい。その場の空気とは、思い上がりのうちではあるが、ちょっとちがう。思い上がりは、個人個人それぞれだが、空気とは、全体的な、雰囲気の内での思いあがりだ。具体的に説明できる時とできないときがある。法政の事故の原因は立ち泳ぎだが、掛け声をかけて健気に頑張る子供たちをみて、微笑ましいもののように受け止めている、そんな雰囲気があった。
それは僕の空気でもあり、責任でもあった。泳力至上は、市民権をもっている競泳のスタイルで行うべきで、鉛を持った立泳ぎについては、研究が十分ではなかった。そのウエイトをもっての立泳ぎを日本潜水会ではじめさせた自分の責任のように感じた僕は、亡くなった子のお父さん、お母さんに何度もお便りした。なんらかのケアになるかも知れないと思ったのだが、迷惑な逆効果だったかもしれない。それでも、お父さんは、きちんとした礼状をくれた。お母さんは、決してあきらめないだろうとも書かれていた。
空気が事故の原因として大きいと知りながら、自分の会社でその空気で事故をおこしてしまう。スガマリンサーカスと呼ばれて、喜んでいるような雰囲気である。
そのころ、東海大学卒業でプロのダイバーになった子の2年目が危ないというジンクスがあった。そういうことをおろそかにしてはいけない。それをケアしなかった僕は、東海大学卒2年目の脇水を殺してしまう。この事故は僕のダイビング人生を変えてしまった。
学連の空気に、僕は関係しているOBとして、責任があると思ったが、自分の仕事としてのダイビングに忙しかった。何もできなかった。そしてその空気は学連で、そして母校の水産大学でもいくつかのニヤミスを起こす。水産大学については、50周年でOB会を作ろうとして、ブランクだった過ぎてきた日々のことをOBたちに聞いて愕然とした。助かっていただけというアクシデントがいくつもある。その内で、ヘリコプターで搬送された事故もあった。
助からなかった例も学連ではあった。三宅島での事故だった。それは、僕のホームページに幻の事故というタイトルで載せている。
監督、コーチがその場にいたとして、例えば僕がその場にいたとして。あの事故が防げたかどうかわからない。が、現場で指導していた上級生の心の負担がどれほどのものだったろう。しかし、それも彼らのダイビングを続行したいという願いと、チームワークで乗り切って現在の法政アクアがあり、自分の娘も、そして、上級生だった娘婿もそこには、いる。
人間50年、夢幻だというコンセプトが好きだから、50年生きたら、後は癌で死ぬよりは海で死んだ方が良いなどと言っている。しかし、50年未満は死んではいけない。世に絶対ということは無いが、学生のダイビングの安管理は絶対に近いものであってほしい。自分として絶対と思えるのがケーブルダイビングシステムだ。これは、前述した自分の会社の事故と関係がある。命綱兼用の有線通話機を脇水輝之が着けていれば、この事故はおこらなかった。一人で潜るときには、必ず水面と直接のコンタクトを着ける。
このケーブルシステムの弱点はチームでなければ運用できないことだが、学生クラブはチームである。
しかし、このシステムはスクーバダイビングには当てはめられない。自分が学生の時、ひも付きになることをいやがった。ひも、コンタクトをつけられるくらいなら死んだ方が良いとおもう。それがスクーバダイバーだ。だから事故は防げない。
脱線してしまったが、最善は尽くさなくてはいけない。ケーブルダイビングシステムの普及に最善は尽くしたが、事故を起こしたスガマリンメカニックでさえ、ケーブルを使わなくなって、あきらめた。いや、部分的にはまだ、あきらめていない。自分の80mはこの方式でやる。
学生とのつながりは、スポーツ大会、フリッパー競技会を通してあり、およそ、スポーツと名がつけば、学生が中心になってやるものでなければ、栄えない。僕たちのロレックス杯競技会は、法政が常勝で副賞のロレックスをさらっていった。その思い上がりがなかったとはいえない。
このスポーツ大会が、自分が常務理事を務める、社会スポーツセンターが主催で行うようになり、学連を大事にしなければ、スポーツ大会はできないし、学生にとっても、社会人と向き合う、良い機会だと考えてそのように動いた。
第40,41代の子たちと潜りに行った記念写真。土肥だった。
やがて、60周年を迎える海洋大学、水産大学の潜水部、第40代、41代のときだから、1994年だ。水産大学の潜水部から、OBの集まりがあると連絡がきた。まだ、その時はOB会はないのだから、現役の学生が企画した集まりだった。40周年のつもりだったと思う。学生とのコンタクトの機会は、大事だと感じていたころでもあったので、出席した。僕が、水産大学潜水部のコーチをやめたのが、1969年だから、これが水産大学潜水部との25年の間を置いたコンタクトだった。40代の中心だった東隆二君が、僕と一緒に仕事をしていて縁の深い、仲間の息子で、水産大学に入ったことも、潜水部に入ったことも、その時に知った。41代の吉村くん、43代の小坂くん、鈴木さん45代の今泉くん、井口さんとは、自分の子供のように親しくなり、41代の吉村くんとは、潜水部の有志にカメラを持たせ、撮影を教えて、ビデオクリップを作った。45代の今泉くん、井口さんなどを仲介して、50周年を期して、OB会を発足させた。OB会を作らなかったのは、自分の責任のように思っていたから、これで、責任を果たす事ができた。
そのような流れの中で、関東学生潜水連盟の状況、彼らの練習の有様を知ることができた。何時事故がおこってもおかしくない空気を感じた。