学連の話がおきざりになってしまっている。
書き出していたのだが、2014年に10回にわたって、書いている。同じことを繰り返して書いても、2014年と、2016年の今では、自分も変わっているし、状況も、監督、コーチの集いができたりして、変わっているのだから、何回ダブってもよいとも思う。これまでも繰り返して書いてきて、その繰り返しを自分で再読してみると、その変わりかたが考えさせられるのだが、
今度は年表から拾ってみよう。
東京水産大学潜水部のできたのが一番古くて1957年に須賀が作ったのだが、これは、今の潜水部の形はしていない。とにかく集まって練習を開始して、大学祭に出展した。
その後、紆余曲折して今の形になったが、関東学生潜水連盟ができる1968年には、今の形になっていた。
1964年、法政アクアクラブ、獨協大学体育会ダイビング部創設
1965年、日本大学スキン&スキューバクラブ創設、資料が手もとにないので?だが、1967年、学習院大学ダイビング部創設、芝浦工大アクアラング部創設、早稲田大学水中クラブ創設
1968年 中央大学海洋研究開発機構部創設、立正大学体育会スキンダイビング部創設、
日本初の潜水指導組織だった日本潜水会ができたのが1967年だから、学生のダイビングクラブの方が早く作られていたことになる。
そして、
1968年、法政、独協大学、東京水産、中央、そして東京商船大学の5校があつまって関東学生潜水連盟が結成された。
東京商船大学は、西伊豆の中木で合宿中、昼休みにスキンダイビングでサザエ採り?をやっていた部員が岩の下からでられずに死亡して、廃部になった。詳しいことは、僕でもわからない。
東海大学の海洋探検部も1965年頃、できていて、東亜潜水機の僕のところに挨拶二来たのだが、地理的な条件、意見が合わずに学連にはかめいしなかった。この海洋探検部も1980年代?に伊豆海洋公園でドラム缶を使った海底居住実験をやって2名が死亡して、廃部になった。詳しいことは、中川にでも聞けばわかるのだが、資料はない。海洋探検部は、シゴキのクラブとして名が通っていた。
立っているのが法政アクアの加藤くん 日本潜水会の学生会員第一号だった
68年から69年にかけて、全国の大学を中心とする学園紛争が燃え盛った。紛争は、60年代の半ばから始まり(64年の慶応大学、65年の早稲田大学、66年の中央大学の各学費値上げ反対闘争など)、ピーク時には、全国の大学の約8割に当たる165校がストライキを含む紛争状態に入り、その4割以上の70校でバリケード封鎖が行われた。東京水産大学では、今考えるとびっくりなのだが、産学協同に反対して紛争が起こっていた。産の支配を学が受けてはいけない。学の独立であった。
学連は大学紛争のさなか、その副産物として生まれたと言えなくもない。大学は休講が続き、時間があった。学生のムード、流れは、大人(教授などを含む)への反抗だった
だから、時を同じくしてできた日本潜水会への反抗とまでは言わないが、学生は学生という考え方が強かった。
法政アクアの、創立者の一人、加藤芳雅君は日本潜水会の会員であり、学連の会長であった銭本君らは、日本潜水会の一級検定を受けに来てくれたが、日本潜水会とは別の道を歩むことに決めていた。つまり、気分としては同格であり、直接の指導は受けない。
学連の各クラブが、監督、コーチが不在であるところが多いのは、この成立、創部の時以来の伝統があるのかもしれない。OB 会が創立時からあり、あるいはすぐに作られて、OB会が監督を決めた部は、監督、コーチが居る。この場合もまず、監督ありきではなくて、OB会が監督を作った。
法政アクアも今現在でも監督という呼称はない。OB会の会長が監督的な働きをしているのだろうか、OBに業界の人が多いので、間接的な指導は会ったが、責任のある監督はいなかった。このことが、後の事故に関係してくる。
東京水産大学は、OB会ができたのが、50周年に僕が音頭取りで作った。だから、部活とOB会がかなり遊離していて、監督という呼称もコーチという呼称もない。
このような歴史があるから、今回の監督、コーチの集いに4大学だけしか集まらなかった遠因になっていると思う。
ついでだから、もう少し、年表を続けよう。
1969年、全日本潜水連盟主催で、第一回ロレックス杯水中スポーツ全国大会が開催され、これが、現在も続いている社会スポーツセンターの 水中スポーツ室内選手権大会につながっている。
1970年、日本のNAUI指導員講習が発足した。
1970年 慶応大学スキンダイビングクラブ発足
1972年 PADI潜水指導協会発足これは現在のPADIに繋がるが、別の組織である。
1973年 沖縄海洋博で、ロレックス杯全国水中スポーツ大会が行われた。
これで、全日本潜水連盟は全国、北海道から沖縄まで、の支部ができ全国組織となった。
1974年 明治大学スキンダイビングクラブ発足
同じ1974年 新宿に海ができた。DOスポーツクラブであり、法政アクアのOBである、青木、丸山、松田らが、そのコーチ陣の中心になった。
1978年 東京女子体育大学 アクアダイビング部創設
1980年 真鶴半島潜水禁止(一時的なものだったが、その解除に学連の代表も社会人の潜水指導者と協力してあたった。)
1982年 PADI潜水指導協会が無くなり、PADIJAPANができた。
これがダイビング指導のC-カード元年といえる。
現在のダイビング史としては、これ以前の経緯は別のものと考えられている。
学連がC-カードとは別の歩みをしてきたのも当然のことであった。
続く