何か書いていると、自動的に事故とか、安全の話になってしまう。だから、「安全」という字が嫌いだ。
事故は、予期しないところで、予期しない形でおこる。ならば、いつでも予期していれば事故は起こらない、と考えることは、論理的に正しいのだろうか。
予期するとか、予期しないとか、言うことはソフトのことである。ソフトとは、形のないものだから、目に見えない。ハードは目に見える。触ることもできる。ハードとソフトの絡み合いが運用である。そして、ソフトとは人間、ハードは人間でないもの。コンピューターは、道具だからハードである。人間のすることは、ソフトだろう。
なんだかわからなくなってしまった。わからないのは人間がわからなくなるのだから、ソフトだろう。
「エアバスの真実:加藤寛一郎」ブックオフで拾ってきた本だから、1999年の単行本、2002年の文庫だ。東大名誉教授だから、基本的には好きではない。だけど、書いていることはおもしろい。
絶対の安全が求められる旅客飛行機が、次々と墜ちる。その中で、オートパイロットと人間パイロットとの相克、その相克についてのボーイングとエアバスの姿勢の違いを論じたもので、著者はエアバスの提灯をもっている。
いくらもらったんだ、エアバスから、といいたくなるのだけれど、おもしろかったし、安全とハードに対する姿勢について考えさせられた。
エアバスはオートパイロットについて、先進であり絶対の自信をもっている。ボーイングの方は、最後の最後は人間だと言う思想、フィロソフィーソフィーを持っているらしい。100人単位で人が死ぬフィールドである。
ダイビング、リブリーザについて、全自動化がよいのか、手動が良いのかという問題とつながる。ダイビングについては、自分の命である。手動が良いと僕は思ってしまうのだが、さらに、安全について、自動か手動かを論じないで済むシンプルを求めるべきだと僕は思ってしまうのだが。
もちろん、個のダイビングと衆の航空機とは次元のちがう事ではある。
ダイビングでは、自分の命は自分で手にしていたいという願望が僕にはある。自己責任というフィロソフィーに帰着するのだが、危険と考えられる水中という環境で、自分が判断しなくて良いのか。
レスキューする側は、最大の努力をしなければならないことは、言うまでもないとして、人間である。最大の努力をいつでも、どこでも継続できるのだろうか。
全自動、すべて機械が、コンピューターがやってくれるというと、人間は何もしなくても良いと思ってしまう。ところが全自動を扱うのは絶対的な訓練が必要であり、そして全自動のハードと、そのハードを作った人の思想を理解しなければいけない。
「エアバスの真実」はエアバスのフィロソフィーに同調している。ボーイングの側のフィロソフィーの肩を持つ論理も聞いてみたい。
でも、自分のオートが絶対だと思うエアバスがヨーロッパで、ボーイングがアメリカだというところも面白い。
もう一つ、この著者は学振に携わっていて、どの分野の科学が盛んなのか、人気があるのかを論じている章も面白かった。学振から見た日本の学術の中心は、ゲノム、材料、情報、サイエンスの宇宙、エネルギー、食料、環境の順だという。
事故は、予期しないところで、予期しない形でおこる。ならば、いつでも予期していれば事故は起こらない、と考えることは、論理的に正しいのだろうか。
予期するとか、予期しないとか、言うことはソフトのことである。ソフトとは、形のないものだから、目に見えない。ハードは目に見える。触ることもできる。ハードとソフトの絡み合いが運用である。そして、ソフトとは人間、ハードは人間でないもの。コンピューターは、道具だからハードである。人間のすることは、ソフトだろう。
なんだかわからなくなってしまった。わからないのは人間がわからなくなるのだから、ソフトだろう。
「エアバスの真実:加藤寛一郎」ブックオフで拾ってきた本だから、1999年の単行本、2002年の文庫だ。東大名誉教授だから、基本的には好きではない。だけど、書いていることはおもしろい。
絶対の安全が求められる旅客飛行機が、次々と墜ちる。その中で、オートパイロットと人間パイロットとの相克、その相克についてのボーイングとエアバスの姿勢の違いを論じたもので、著者はエアバスの提灯をもっている。
いくらもらったんだ、エアバスから、といいたくなるのだけれど、おもしろかったし、安全とハードに対する姿勢について考えさせられた。
エアバスはオートパイロットについて、先進であり絶対の自信をもっている。ボーイングの方は、最後の最後は人間だと言う思想、フィロソフィーソフィーを持っているらしい。100人単位で人が死ぬフィールドである。
ダイビング、リブリーザについて、全自動化がよいのか、手動が良いのかという問題とつながる。ダイビングについては、自分の命である。手動が良いと僕は思ってしまうのだが、さらに、安全について、自動か手動かを論じないで済むシンプルを求めるべきだと僕は思ってしまうのだが。
もちろん、個のダイビングと衆の航空機とは次元のちがう事ではある。
ダイビングでは、自分の命は自分で手にしていたいという願望が僕にはある。自己責任というフィロソフィーに帰着するのだが、危険と考えられる水中という環境で、自分が判断しなくて良いのか。
レスキューする側は、最大の努力をしなければならないことは、言うまでもないとして、人間である。最大の努力をいつでも、どこでも継続できるのだろうか。
全自動、すべて機械が、コンピューターがやってくれるというと、人間は何もしなくても良いと思ってしまう。ところが全自動を扱うのは絶対的な訓練が必要であり、そして全自動のハードと、そのハードを作った人の思想を理解しなければいけない。
「エアバスの真実」はエアバスのフィロソフィーに同調している。ボーイングの側のフィロソフィーの肩を持つ論理も聞いてみたい。
でも、自分のオートが絶対だと思うエアバスがヨーロッパで、ボーイングがアメリカだというところも面白い。
もう一つ、この著者は学振に携わっていて、どの分野の科学が盛んなのか、人気があるのかを論じている章も面白かった。学振から見た日本の学術の中心は、ゲノム、材料、情報、サイエンスの宇宙、エネルギー、食料、環境の順だという。