リブリーザとは、ジュールベルヌの海底2万マイルのように、海底を歩く潜水機ではないだろうか。普通の作業ダイバーがフィンを脱いで、海底を歩いて作業するように歩けば、バランスを失って吹き上げられる心配もない。
もちろん現行のテクニカルダイビングもリブリーザも否定するものではない。水深80mで浮いていることに、絶対的な自信が持てないのだ。下手だ下手だと言っても、水平姿勢にならないかぎり中性浮力は大丈夫だ。しかし、テクニカルダイビングのスタイルには、自信がない。自信がなくて、できるほど大深度のテクニカルダイビングは生やさしいものではない。
また、CCRは、炭酸ガス吸収機構、酸素分圧の測定とコントロールに基本的に脆弱なものがあり、それを電子的ハイテクと、サイドに吊るしたベイルアウトタンク「予備の緊急脱出用のタンク」で解決している。電子的ハイテクというのは、僕は、おそろしい。
インスピレーション
71歳だったか、リブリーザーの独習をしていたころ、大瀬崎の先端に行って、一人で50ー60mに潜り、歩きはしなかったが潜る練習をしていた。カメラで真鯛を追っていた。先端に居る若い真鯛は美しい。年を経た、大鯛になるとくすんだ黒になってきて、美しくなくなるが、30cmほどの若い、天然の真鯛は本当に美しい。撮影していて、ちょっと躓いて、30cmほど浮いた。自分で30cmと感じていたのだが、横から見ていたら、1mぐらいかもしれない。とにかく浮いた。浮いたら口から吸って鼻から出して、カウンターラングの中のガスを抜いて浮力を減らす。同時にBCの空気も抜く。両方同時にやらなければならないのだが、タイミングが少しずれた。更に浮き上がる。浮き上がれば膨張して浮く方向に行き足が付く。同時にドライスーツの浮力も膨張で増える。カメラを手にしているから、手は一本しか使えない。浮きだしたら、そのまま水面まで、止まらない。水面で、すぐに全部の浮力を抜いて、30mほどまで急降下した。未だ、どこも痛いところはなかった。減圧を長めに取って浮上して何事もなかった。60mと言っても、タッチアンドゴーで浮上を初めて、浮上しながらの撮影だったから、助かったのだろう。
下手だからこんなことになったとは思う。しかし、上手になったとしても、間違いと言うのは誰にもある。失敗もある。自信が持てない。命がけは嫌いではないけど、自信が無くて、命を賭けるのは、冒険ではなくて無謀だろう。
もう一度は、3リットルのディリューエントガスがなくなって呼吸できなくなった。深い水深で、身体が浮いたので、ガスを抜き、降りて、また浮いてということを何回かやった。何回だかよく覚えていないけれど、BCの空気を出し入れして、中性浮力をとっていた。こんなことをしていたら、3リットルのガスは、深い水深ではあっという間に無くなる。ベイルアウトタンクで浮上したが、減圧停止が不足した。減圧症には、ならなかったが、危なかった。
もう一度は、手動で、酸素分圧を濃くして、エントリーで歩くのを楽にしたまま潜降して、自動に戻すのを忘れ、アラームが鳴るのに気づかなかった。新しい型では、アラームは音ではなくて光に代わったが、これは、同じようなニヤミスが多発したからだろう。毎日のようにリブリーザの練習ができるわけではないので、メンテナンスも心配だった。何とか2年は練習し、酸素センサーの寿命が疑われるところで、インスピレーションは、あきらめることにした。もう72歳になっていて、35キロのインスピレーションを背負ってエントリー、エキジットを一人でやるのは無理になってきた。全然上達はしなかったが、リブリーザがどういうものかは、わかった。極めたとおもった。
インスピレーションは40万で売り払った。酸素センサーの換え時でもあった。もしも、仕事があれば、新しい型を買って、オーバーウエイトで、潜降索と命綱で潜れば良いということがわかった。気泡が出ないということを売りにして、人工魚礁調査の見積もりを方々にだした。もしも、仕事が取れたら、親しくしていたリブリーザーの達人、田中さんにでも一緒に潜ってもらおうと、見積もりももらった。まあ、リーズナブルだった。
しかし、人工魚礁の調査で、気泡が出ないことだけでは、売りにはならない。カメラを設置すれば済むことなのだ。カメラは気泡をださない。新型を買うことはなかった。
80歳で80m潜ろうという段になり、リブリーザを使って、誰かに手を引いてもらえば、簡単に潜れる。中川も、後輩の古島もリブリーザを使える。他にも、協力してくれる人も居る。しかし、おんぶにだっこで、80m潜っても、あっけないだけで何にもならない。
考えた。
1963年の100m潜水では、デマンドバルブを着けた、フルフェイスマスクを提案した。今では、この方式が作業潜水の定番になっているが、その頃は、これで送気式で潜水する方式は日本では見られなかった。
現在のスタイルのテクニカルダイビングもCCRも、僕には無理だ。
では80m潜るのをやめるか?別にやめても良い。特別に強制されているわけのものでもない。
しかし、なんとか別のスタイル、別の方式でできる方法を考える。
1963年、何のために100m潜るのか、と問われれば、新しいダイビングの方法、器材を作り出すため、と答えていた。
今度もそうしよう。
① 複雑な電子制御をしない。
②体力的に弱いので、重いものは背負わない。
③サーフェスコンタクト、命綱をつける。
三つの条件を考えたとき、1963年の90m潜水の後、1964年に考えたコンセプトシートを思い出した。
これで100mを越そうと考えたものだった。
ヘリウム混合ガスを使うとして、ヘリウムは高価だから捨てたくない。現在のリブリーザのような電子的なコントロールは、僕には考え出せない。コンプレッサーを水中に持ち込んで循環させてしまおう。僕の勤務していた東亜潜水機は、コンプレッサーメーカーだ。佐野専務(現在の佐野社長のお父さん)に相談すれば、なんとかしてくれるだろう。1963年の100M潜水で、船の上にコンプレッサーを置いて送気していてホースのトラブル出九死に一生の思いをした。水中に持ち込んでしまった方が安心だ。
とにかくこの方式で特許をとってしまった。
しかし、つくるとなって作れない。20年早かったのだ。もしも、無理に作って実験していたら、生きていなかっただろう。
幸か不幸か、申し訳ないことに、僕は東亜を辞めてしまう。
このコンセプトシートのような潜水機を作ればいい。コンプレッサーを持ち込むのは無理だから、タンクを束ねて、水中に持ち込もう。
現在の方法,、船上にカードルを置き、船上に再圧タンクを置くバウンス潜水、リブリーザーを使うテクニカルダイビングに反対するわけのものではない。しかし、違う方式を考えよう、試してみようとするところから、技術は進歩するのだ。第三の選択肢を見せることができれば、僕の潜水に意義がでてくる。
もちろん現行のテクニカルダイビングもリブリーザも否定するものではない。水深80mで浮いていることに、絶対的な自信が持てないのだ。下手だ下手だと言っても、水平姿勢にならないかぎり中性浮力は大丈夫だ。しかし、テクニカルダイビングのスタイルには、自信がない。自信がなくて、できるほど大深度のテクニカルダイビングは生やさしいものではない。
また、CCRは、炭酸ガス吸収機構、酸素分圧の測定とコントロールに基本的に脆弱なものがあり、それを電子的ハイテクと、サイドに吊るしたベイルアウトタンク「予備の緊急脱出用のタンク」で解決している。電子的ハイテクというのは、僕は、おそろしい。
インスピレーション
71歳だったか、リブリーザーの独習をしていたころ、大瀬崎の先端に行って、一人で50ー60mに潜り、歩きはしなかったが潜る練習をしていた。カメラで真鯛を追っていた。先端に居る若い真鯛は美しい。年を経た、大鯛になるとくすんだ黒になってきて、美しくなくなるが、30cmほどの若い、天然の真鯛は本当に美しい。撮影していて、ちょっと躓いて、30cmほど浮いた。自分で30cmと感じていたのだが、横から見ていたら、1mぐらいかもしれない。とにかく浮いた。浮いたら口から吸って鼻から出して、カウンターラングの中のガスを抜いて浮力を減らす。同時にBCの空気も抜く。両方同時にやらなければならないのだが、タイミングが少しずれた。更に浮き上がる。浮き上がれば膨張して浮く方向に行き足が付く。同時にドライスーツの浮力も膨張で増える。カメラを手にしているから、手は一本しか使えない。浮きだしたら、そのまま水面まで、止まらない。水面で、すぐに全部の浮力を抜いて、30mほどまで急降下した。未だ、どこも痛いところはなかった。減圧を長めに取って浮上して何事もなかった。60mと言っても、タッチアンドゴーで浮上を初めて、浮上しながらの撮影だったから、助かったのだろう。
下手だからこんなことになったとは思う。しかし、上手になったとしても、間違いと言うのは誰にもある。失敗もある。自信が持てない。命がけは嫌いではないけど、自信が無くて、命を賭けるのは、冒険ではなくて無謀だろう。
もう一度は、3リットルのディリューエントガスがなくなって呼吸できなくなった。深い水深で、身体が浮いたので、ガスを抜き、降りて、また浮いてということを何回かやった。何回だかよく覚えていないけれど、BCの空気を出し入れして、中性浮力をとっていた。こんなことをしていたら、3リットルのガスは、深い水深ではあっという間に無くなる。ベイルアウトタンクで浮上したが、減圧停止が不足した。減圧症には、ならなかったが、危なかった。
もう一度は、手動で、酸素分圧を濃くして、エントリーで歩くのを楽にしたまま潜降して、自動に戻すのを忘れ、アラームが鳴るのに気づかなかった。新しい型では、アラームは音ではなくて光に代わったが、これは、同じようなニヤミスが多発したからだろう。毎日のようにリブリーザの練習ができるわけではないので、メンテナンスも心配だった。何とか2年は練習し、酸素センサーの寿命が疑われるところで、インスピレーションは、あきらめることにした。もう72歳になっていて、35キロのインスピレーションを背負ってエントリー、エキジットを一人でやるのは無理になってきた。全然上達はしなかったが、リブリーザがどういうものかは、わかった。極めたとおもった。
インスピレーションは40万で売り払った。酸素センサーの換え時でもあった。もしも、仕事があれば、新しい型を買って、オーバーウエイトで、潜降索と命綱で潜れば良いということがわかった。気泡が出ないということを売りにして、人工魚礁調査の見積もりを方々にだした。もしも、仕事が取れたら、親しくしていたリブリーザーの達人、田中さんにでも一緒に潜ってもらおうと、見積もりももらった。まあ、リーズナブルだった。
しかし、人工魚礁の調査で、気泡が出ないことだけでは、売りにはならない。カメラを設置すれば済むことなのだ。カメラは気泡をださない。新型を買うことはなかった。
80歳で80m潜ろうという段になり、リブリーザを使って、誰かに手を引いてもらえば、簡単に潜れる。中川も、後輩の古島もリブリーザを使える。他にも、協力してくれる人も居る。しかし、おんぶにだっこで、80m潜っても、あっけないだけで何にもならない。
考えた。
1963年の100m潜水では、デマンドバルブを着けた、フルフェイスマスクを提案した。今では、この方式が作業潜水の定番になっているが、その頃は、これで送気式で潜水する方式は日本では見られなかった。
現在のスタイルのテクニカルダイビングもCCRも、僕には無理だ。
では80m潜るのをやめるか?別にやめても良い。特別に強制されているわけのものでもない。
しかし、なんとか別のスタイル、別の方式でできる方法を考える。
1963年、何のために100m潜るのか、と問われれば、新しいダイビングの方法、器材を作り出すため、と答えていた。
今度もそうしよう。
① 複雑な電子制御をしない。
②体力的に弱いので、重いものは背負わない。
③サーフェスコンタクト、命綱をつける。
三つの条件を考えたとき、1963年の90m潜水の後、1964年に考えたコンセプトシートを思い出した。
これで100mを越そうと考えたものだった。
ヘリウム混合ガスを使うとして、ヘリウムは高価だから捨てたくない。現在のリブリーザのような電子的なコントロールは、僕には考え出せない。コンプレッサーを水中に持ち込んで循環させてしまおう。僕の勤務していた東亜潜水機は、コンプレッサーメーカーだ。佐野専務(現在の佐野社長のお父さん)に相談すれば、なんとかしてくれるだろう。1963年の100M潜水で、船の上にコンプレッサーを置いて送気していてホースのトラブル出九死に一生の思いをした。水中に持ち込んでしまった方が安心だ。
とにかくこの方式で特許をとってしまった。
しかし、つくるとなって作れない。20年早かったのだ。もしも、無理に作って実験していたら、生きていなかっただろう。
幸か不幸か、申し訳ないことに、僕は東亜を辞めてしまう。
このコンセプトシートのような潜水機を作ればいい。コンプレッサーを持ち込むのは無理だから、タンクを束ねて、水中に持ち込もう。
現在の方法,、船上にカードルを置き、船上に再圧タンクを置くバウンス潜水、リブリーザーを使うテクニカルダイビングに反対するわけのものではない。しかし、違う方式を考えよう、試してみようとするところから、技術は進歩するのだ。第三の選択肢を見せることができれば、僕の潜水に意義がでてくる。