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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1222 自己責任

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  この前に自己責任について書くなどと言ってしまったが、そのことに嫌気がさしている。ダイビングとは、もっとおおらかで楽しいものだ。何かがあってすぐに責任を論じるようなのは、スポーツらしくない。どうせ、人間が生きていけない海の中に飛び込んでいくのだから、危ないのは当たり前、生きるのも死ぬのもその人の勝手だ、と言いたくなる。これがつまり自己責任だ。
ずっと昔、僕がダイビングを始めたころは、そんな風だった。
 
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 しかし、バディ等と言って、ダイビングを一緒にしていると、彼、そのころは、だいたいは男だったので、彼だが、彼の奥さんとも知り合う。子供とも仲良くなったりする。そんな彼が、朝、元気よく、行ってまいります。と出かける。その頃は魚突き全盛だから、魚のお土産を期待しているのだろう。
そんな彼が、ふとしたことで事故を起こし、冷たくなった身体を戸板に乗せて、戸板に乗せるという表現は若い人には通用しないだろうが、昔の家は雨戸があって、それにちょうど人間が乗るので、それに乗せて担いでくる。そう、時代劇で斬られて死ぬと戸板に乗せて帰ってくる。
戸板に乗せて、朝元気よく送り出した妻子のもとに冷たくなっ彼を戸板に乗せて運んでいく。僕の神経はそれには耐えられない。
なんでも、みんなでやれば怖くない。みんなで集まって、「日本潜水会」をつくり、技能認定カードをだし、指導者の資格を作った。それで、内規、すなわちローカルルールを決めておけば、そのルールの通りにやっていれば、事故が起こっても、団体責任でみんながかばってくれるだろう。
ある時まで、1980年ごろまではそれでうまくいった。事故で友人が亡くなれば、故人はいい人だった。悲しい、という追悼の文集かなにかだして、みんなで悲しめばよかった。遺族も、「死んだりして、ご迷惑をかけました。」と頭を下げてくれる。たしかに迷惑だった、捜索をしなければならない。むろん、勤労奉仕だった。遺族が捜索のプロダイバーを頼むと、プロには日当を払う。友達は、ありがとうございます、とネクタイ一本ぐらいで終わりだ。それでは、仕事を休んだりして、やっていられない。捜索費用、自分たちの日当になるお金を積み立てた。これが安全対策費だった。もしも、捜索しなくてもいい死に方をしてくれれば、このお金は遺族への香典になる。
たぶん、今の人は、こんなことだったといっても信じられないだろうが、本当だった。

そして、海の向こうから保険がやってきた。
この保険にさえ入っていれば、指導者は、遺族に頭を下げる必要もない。なにもない。ただ弁護士に任せておけば、解決してくれる。遺族も納得ができる保険金の支払いを受けられる。すばらしいことだ。これが今の状況だ。捜索費用として積み立てたお金も不要になったので、取り崩して使ってしまった。
しかし、ここで、スクーバは自己責任という考え方が薄くなった。訴えれば、賠償してもらえる。でも、考えてみると、殆どの場合訴え出るのは家族であり、本人あ冷たくなってしまっている。自分の安全、自分の命については、依然として自己責任なのだ。怪我をした場合の責任というのもある。大方のスポーツは殆ど怪我についての責任だ。そして、定まったルールがあるから、あまり、自己責任は問題にならない。責任ははっきりする。
しかし、ダイビングの場合は死亡事故が問題になる場合が多い。死んでしまっているので、本人に事情を聞くことができない。遺族、家族としては事情が知りたい。誰が悪いのだ。もう、本人を責めるわけにはいかない。誰の責任なのかはっきりさせる、客観的に真相を追求するのは、訴訟しか無い。責任があれば、賠償が行われる。万事お金で解決できるし、解決される。
今、死亡事故が起こると、大抵の場合、8000万から1億の請求で訴訟が始まる。そして、示談の相場は3000万から5000万だ。本当に本人の責任が90%だとしても、10%は、インストラクターなりガイドダイバーの責任になる。1000万としても、保険がなければ、夜逃げすることになる。インドネシアあたりに逃げて、宝探しでもやる。宝があたれば、賠償が払えるから帰国できる。流れ者ダイバーになる。フィリピンあたりで結婚して、石油掘削のダイバーになるのも悪く無い。家族が居なければ、悪い話ではない。
守るべきものがあるから、保険をかける。
安全についての自己責任と経済的な補填の意味での賠償責任とは異なるものだ。
賠償責任の度合を決めるために管理責任が計られる。管理するとは、管理する、管理されるかんけいになって、管理する側に発生する責任である。有料、お金を払って、管理をしてもらうレクリエーショナルダイビングでは、事故が起これば必ず訴訟の対象になる責任だ。
事故の責任を100%として、自己責任が何%、管理責任が何%というような考え方をする。僕は法律家ではないから、これでよいのかどうかわからないが、少なくとも自分が関わった訴訟では、そのような考え方をした。僕が関わった幾つかの訴訟は、原告側、つまり、遺族側に立っての証人だった。なんとかして管理責任を80%、せめて60%ぐらいに持って行きたいと、遺族側の弁護士は考える。
スクーバは自己責任といっても、管理を依頼した場合には必ず管理責任が発生する。
ソロダイビングだけが完全な自己責任になる。業務潜水の場合はソロは事業者(業務を命令する者)の責任になるから、これはまた別に論じなければならない。ここでは、業務潜水以外のダイビングについて考えている。
セルフダイビングという考え方がある。これは、管理責任は発生しないだろうか?セルフを認めたという管理責任があるかもしれない。セルフと呼ばないで、このごろではバディ潜水と呼んでいる。ソロは認めないということだろう。バディの間に管理責任は発生しないだろうか。僕にはわからない。そこで話は振り出しに戻ってくる。昔は、すべてが、互いに責任の無い、もちろん救急と捜索の義務はあるが、命の責任は問われない?本当だろうか、バディの一人が上級者だったら、ましてはその上級者がダイブマスターだとか、アマチュアのプロダイバーだったりしたら、どうだろうか。
幾つかの本を読んでみると、訴えられる可能性がとても高い。ガイド料金をもらっていなくても、バディがインストラクターであったりしたら、まず訴訟が起こると思う。

 訴訟では、自己責任と管理責任は拮抗的に扱われるが、自己責任と管理責任は別の責任であるとおもう。スクーバは自己責任であるから、安全管理責任はない、というようなことではなく、同時進行的に別々に存在している。平行して存在して、事故を防止しているのであるが、する責任であり、事故の場合、自己責任の多い分だけ、管理責任が減ると考えられる。合算して100%とすれば、%の争いになる。
 その割合を判定する場合、ローカルルールの存在が大きな意味がある。指導団体の基準(プログラム)その区域、そのグループ、そのダイビングスタイルによるルール、などがローカルルールである。
 事故の責任を論じる時、自己責任、管理責任、規則で定められた責任、ローカルルールの存在とその適否、がそれぞれ物差しとなって、測られると今の僕は考えている。
 なお僕は法律家ではないし、弁護士でもないが、ダイバーとして長い月日を過ごしている。
  

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