3日 ひどい下痢でたおれた。幸い熱が出なかったので、ノロビールスでは無いと思われるが、とにかくつらかった。今日5日から13日のシンポジウムまで、ぎっしりと予定がつまっている。今日はこれから、習志野のプールに明日の撮影器材を運んで準備する。明日は全日本水中スポーツ室内選手権大会だ。50mのフリッパーレースにでるよていだったが、でられるかどうか微妙だ。
さて、田島雅彦だが、60歳の100m潜水で一緒に潜ってくれた。
彼は、若くして癌で亡くなってしまった。
蒲田の子で、海が好きで大島の水産高校に入った。大島には、船長免状をとる専攻科がないので、茨城県那珂湊の水産高校専攻科に進んだ。専攻科は二年修了なのでその二年間を下宿して、その下宿先が、茨城で僕たちが仕事をするときの定宿の万年屋だった。そんな縁で、彼は船長にはならないで、スガマリンメカニックにきた。それは、1980年釜石湾口防波堤工事のときで、釜石が彼の初仕事だった。身体能力にすぐれていて、腹ばいになって後ろ手に回した手で、両足首をつかみ腹筋ではねることができた。これができるのを見たのはボクシングチャンピオンのグシケンだった。
JAMSTECでのトレーニング
潜水も上手になり、深海潜水に向いているということで、JAMSTEC、当時の海洋科学研究センターの深海ダイバー養成コースにスガマリンメカニックからの派遣で入学した。卒業後、対馬で行われているナヒモフ号の宝探し飽和潜水に派遣した。飽和潜水は一ヶ月に一度潜水する。たしか、深度90mで、二日だか、かけて飽和状態になる。飽和状態で10日間ぐらい作業をして、一週間ぐらいかけて減圧して、タンクからでてくる。一ヶ月に一度の潜水である。
対馬でのナヒモフの引き上げ飽和潜水
スガマリンメカニックに入ってくるギャラが、150万で、たしか、100万の給料を払っていた。
ナヒモフが終わって、会社に戻ってきたのは、30になっていたはず。飽和潜水に出向したのが23歳だったか、だから、浦島太郎で、会社には彼のポジションがない。カメラマンとして、良いセンスがあったのだが、カメラマンは中川になってしまっていた。僕がカメラをやらないで、その分の仕事を田島にやらせれば良いのだが、僕が、カメラを離さない。アシスタントとしてつれていった仕事でカメラを持たせると須賀の絵よりも良いといわれる。
それでも、会社の中心ダイバーとして、働いてくれた。沖の鳥島の長い出張から戻ってきた。その出張は、事故で亡くした脇水とバディだった。そして、「脇ぼう(みんなにかわいがられて、ぼうとよばれていた)なにかおかしいですよ、ダイバーやめさせたほうが、良いと思います。」多分、バディでなにかヒヤリがあったのだと思う。やめさせなかった。飽和潜水は精神的に安定していないと持たない。そこで養われたカンのようなものが、あったのかもしれない。そして、事故が起こり若者を亡くしてしまう。
僕にとって、田島は一番信頼できるダイバーだった。やはり、会社にはポジションがなく、僕の100mが、退社する前の、最後の仕事だと言っていた。
スガマリンメカニックを辞めて、フリーのダイバーになった。ギャラは良かったのだろうが、少し無理な仕事で、減圧症に二回かかった。二回目の時に、健康診断でおかしいと言われ、検査して大腸癌が発見された。だいぶ進行していて、手術したが、ダイビングは止められない。他に生きる道はないのだ。人にいえない苦労をして、ダイバーにどうやら復帰して、スガマリンメカニックの仕事もやっていたが、転移があり、手術をまたすることになった。それも復活したが、だめだった。癌になったダイバーは、必ず一度は復帰するが、二度目も復帰するが、三度目がない。
さて、田島雅彦だが、60歳の100m潜水で一緒に潜ってくれた。
彼は、若くして癌で亡くなってしまった。
蒲田の子で、海が好きで大島の水産高校に入った。大島には、船長免状をとる専攻科がないので、茨城県那珂湊の水産高校専攻科に進んだ。専攻科は二年修了なのでその二年間を下宿して、その下宿先が、茨城で僕たちが仕事をするときの定宿の万年屋だった。そんな縁で、彼は船長にはならないで、スガマリンメカニックにきた。それは、1980年釜石湾口防波堤工事のときで、釜石が彼の初仕事だった。身体能力にすぐれていて、腹ばいになって後ろ手に回した手で、両足首をつかみ腹筋ではねることができた。これができるのを見たのはボクシングチャンピオンのグシケンだった。
JAMSTECでのトレーニング
潜水も上手になり、深海潜水に向いているということで、JAMSTEC、当時の海洋科学研究センターの深海ダイバー養成コースにスガマリンメカニックからの派遣で入学した。卒業後、対馬で行われているナヒモフ号の宝探し飽和潜水に派遣した。飽和潜水は一ヶ月に一度潜水する。たしか、深度90mで、二日だか、かけて飽和状態になる。飽和状態で10日間ぐらい作業をして、一週間ぐらいかけて減圧して、タンクからでてくる。一ヶ月に一度の潜水である。
対馬でのナヒモフの引き上げ飽和潜水
スガマリンメカニックに入ってくるギャラが、150万で、たしか、100万の給料を払っていた。
ナヒモフが終わって、会社に戻ってきたのは、30になっていたはず。飽和潜水に出向したのが23歳だったか、だから、浦島太郎で、会社には彼のポジションがない。カメラマンとして、良いセンスがあったのだが、カメラマンは中川になってしまっていた。僕がカメラをやらないで、その分の仕事を田島にやらせれば良いのだが、僕が、カメラを離さない。アシスタントとしてつれていった仕事でカメラを持たせると須賀の絵よりも良いといわれる。
それでも、会社の中心ダイバーとして、働いてくれた。沖の鳥島の長い出張から戻ってきた。その出張は、事故で亡くした脇水とバディだった。そして、「脇ぼう(みんなにかわいがられて、ぼうとよばれていた)なにかおかしいですよ、ダイバーやめさせたほうが、良いと思います。」多分、バディでなにかヒヤリがあったのだと思う。やめさせなかった。飽和潜水は精神的に安定していないと持たない。そこで養われたカンのようなものが、あったのかもしれない。そして、事故が起こり若者を亡くしてしまう。
僕にとって、田島は一番信頼できるダイバーだった。やはり、会社にはポジションがなく、僕の100mが、退社する前の、最後の仕事だと言っていた。
スガマリンメカニックを辞めて、フリーのダイバーになった。ギャラは良かったのだろうが、少し無理な仕事で、減圧症に二回かかった。二回目の時に、健康診断でおかしいと言われ、検査して大腸癌が発見された。だいぶ進行していて、手術したが、ダイビングは止められない。他に生きる道はないのだ。人にいえない苦労をして、ダイバーにどうやら復帰して、スガマリンメカニックの仕事もやっていたが、転移があり、手術をまたすることになった。それも復活したが、だめだった。癌になったダイバーは、必ず一度は復帰するが、二度目も復帰するが、三度目がない。