自分のことだが、かなりにアバウトだと思っている。そのくせに、神経質だ。細かいことにこ
だわり、気を使う。これって、ダイバー的性格だと思う。
そういう性格だから、それでも生き残れる方策を考える。すなわち、複雑精緻で完全が要求されるものはだめだ。シンプルで、まちがいは二つくらいは許される道具でないと危ない。我田引水的に言い分になるが、完璧でないと危ないのと、いい加減で大丈夫と、どちらが安全だろうか。僕が今、生きていられるのは、半分は運だけど、半分はアバウトでも大丈夫を追求したからである。
しかし、徹底的にアバウトな奴は、危ない。そのあたり、かなり難しい。
現在、起こっていることは、すべて、過去の行動の結果である。これを因果という。自分のやろうとする潜水も同様で、過去のヒヤリハット、あるいは、起きてしまった失敗、の上に乗っている。 そこで、それらのことを書いているのだが、要約すると、「死亡事故例の90%は、命綱があれば助かっている。命綱があっても防がなかった事故のさらに90%は、物理的な圧死、切断死などで、これは自分も含めたチームの失敗であろう。命綱にこだわっていたから、アバウトでも生き残っている。
だから、安全管理は命綱なしでは確実ではない。スクーバは、命綱を拒否したことから始まっている。だから、拒否したものの自己責任である。そのことを基調において、管理者は、スクーバで、命綱があるのと同じような状況を命綱なしで、作りだそうとする。学生の活動とか、自分のやっている潜水はそれである。できる限り、ラインを曳いて潜ったりする。ラインの無いときは、アンカーロープに見えるところ、あるいは、信頼できるガイドのおせわになる。
このごろ、いつも出かけている波左間などは、施設的にそんな環境を作り出そうとしている。潜降索の多用である。それでも、ガイドロープの読み間違いがある。命綱ではないからだ。
昔、スクーバダイバーは、空気がなくなると、あるいは、空気がなくなりかけるとどこからでも、とにかく浮上した。水面を泳いでもどってくる。今でも、大瀬崎の湾内あたりは、そうしているのかもしれない。陸からのエントリーで、どこからでも陸に上がれるからだ。僕は、そういうところでないと潜らない。
言うまでもなく命綱を使うことは、技術が必要であるが、その運用技術について、ほとんど、研究、研鑽は行われていない。命綱が、使われていないからだ。
今後も、大局的には、命綱は使われないと思われる。賠償責任保険で対応した方が管理者にとっては、安全だからである。保険が、管理者にとっての命綱である。
ぼくも、命綱も付けず、バディもなく、完全に自己責任のソロダイビングが好きだし、幸せだ。ただし、そろで戻れるような手段は尽くす。自分だけに許される幸せだ。
なお、チームはバディを基調にしているが、二人が組のバディシステムそのものではない。別のルールが必要で、これもほとんど議論されていない。
何らかのかたちで、船、もしくは浮上地点と、直接的なコンタクトがなければ、安全管理はできない。これは、僕のフィロソフィーでありそれを基調にして、ダイビングについて書いている。他の人とかなり、ベクトルが違っていると思うが、それが、過去の出来事との因果である。コンタクトがなかったために、原因不明、たぶん突然死で社員を失っている。
インストラクターでも、ガイドダイバーでも、水中でコンタクトを失って、フォロアーを死なせて、責任感の強い人ならば、僕と同様な考えを持つようになると思う。
サーフェスコンタクトという言葉が、ダイビング全体にこのように使われているかどうか、知らない。命綱は、もっとも確実なサーフェスこんタクトであるが、命綱だけではない。何らかの形で、水面、陸上、船上と連絡が途切れなくしておくことを言う。
だわり、気を使う。これって、ダイバー的性格だと思う。
そういう性格だから、それでも生き残れる方策を考える。すなわち、複雑精緻で完全が要求されるものはだめだ。シンプルで、まちがいは二つくらいは許される道具でないと危ない。我田引水的に言い分になるが、完璧でないと危ないのと、いい加減で大丈夫と、どちらが安全だろうか。僕が今、生きていられるのは、半分は運だけど、半分はアバウトでも大丈夫を追求したからである。
しかし、徹底的にアバウトな奴は、危ない。そのあたり、かなり難しい。
現在、起こっていることは、すべて、過去の行動の結果である。これを因果という。自分のやろうとする潜水も同様で、過去のヒヤリハット、あるいは、起きてしまった失敗、の上に乗っている。 そこで、それらのことを書いているのだが、要約すると、「死亡事故例の90%は、命綱があれば助かっている。命綱があっても防がなかった事故のさらに90%は、物理的な圧死、切断死などで、これは自分も含めたチームの失敗であろう。命綱にこだわっていたから、アバウトでも生き残っている。
だから、安全管理は命綱なしでは確実ではない。スクーバは、命綱を拒否したことから始まっている。だから、拒否したものの自己責任である。そのことを基調において、管理者は、スクーバで、命綱があるのと同じような状況を命綱なしで、作りだそうとする。学生の活動とか、自分のやっている潜水はそれである。できる限り、ラインを曳いて潜ったりする。ラインの無いときは、アンカーロープに見えるところ、あるいは、信頼できるガイドのおせわになる。
このごろ、いつも出かけている波左間などは、施設的にそんな環境を作り出そうとしている。潜降索の多用である。それでも、ガイドロープの読み間違いがある。命綱ではないからだ。
昔、スクーバダイバーは、空気がなくなると、あるいは、空気がなくなりかけるとどこからでも、とにかく浮上した。水面を泳いでもどってくる。今でも、大瀬崎の湾内あたりは、そうしているのかもしれない。陸からのエントリーで、どこからでも陸に上がれるからだ。僕は、そういうところでないと潜らない。
言うまでもなく命綱を使うことは、技術が必要であるが、その運用技術について、ほとんど、研究、研鑽は行われていない。命綱が、使われていないからだ。
今後も、大局的には、命綱は使われないと思われる。賠償責任保険で対応した方が管理者にとっては、安全だからである。保険が、管理者にとっての命綱である。
ぼくも、命綱も付けず、バディもなく、完全に自己責任のソロダイビングが好きだし、幸せだ。ただし、そろで戻れるような手段は尽くす。自分だけに許される幸せだ。
なお、チームはバディを基調にしているが、二人が組のバディシステムそのものではない。別のルールが必要で、これもほとんど議論されていない。
何らかのかたちで、船、もしくは浮上地点と、直接的なコンタクトがなければ、安全管理はできない。これは、僕のフィロソフィーでありそれを基調にして、ダイビングについて書いている。他の人とかなり、ベクトルが違っていると思うが、それが、過去の出来事との因果である。コンタクトがなかったために、原因不明、たぶん突然死で社員を失っている。
インストラクターでも、ガイドダイバーでも、水中でコンタクトを失って、フォロアーを死なせて、責任感の強い人ならば、僕と同様な考えを持つようになると思う。
サーフェスコンタクトという言葉が、ダイビング全体にこのように使われているかどうか、知らない。命綱は、もっとも確実なサーフェスこんタクトであるが、命綱だけではない。何らかの形で、水面、陸上、船上と連絡が途切れなくしておくことを言う。