アランのジープは、海辺のジープである。スズキのジムニーは、僕も乗っていたが、スズキではないらしい。が同じような小さいジープだ。床は錆びて抜け落ちていてフレームに痕跡が残っているような床に気をつけて足を乗せる。日本でも九十九里に行くとこんなジープが砂浜を走っている。
今朝、彼の奥さんが隣町のホテルまで僕たちの道案内できてくれたが、プジョーの車で、砂利道をぶっ飛ばして走る。奥さんはベトナム人でかなりの美人だ。
アランの家は海辺に在ると思っていたのだが、ちょっとした山のような丘のうえにある。ジープで10分ぐらいだろうか。
プールがある。
家は、石造りで、古い羊飼いの家をかってリフオームしたものだ。そして、プールまである。海の近くなのになぜプールがあるのだと聞くと、奥さんと二人でトライアスロンにでるので彼女が泳ぐためだという。珊瑚採りはかなりの収入になるみたいだ。想像だが、今日採ったような小枝ではなく、大枝がとれると数百万になるのかもしれない。アランいわく、この漁場もいい珊瑚はとりつくしたので、別の漁場を探しているそうだ。
アランの家での、遅めのランチは、奥さんの手料理で、ベトナム風というか、中華だった。おいしかったが、箸で食べる。アランの箸つかいは、当然だが上手だった。
食事が終わってから、インタビュー(通訳つき)で、僕が60歳を記念して100mに潜る計画を進めているとはなすと、真顔になって、「何のために潜ろうというのだ。」そして、「100m潜るということは、毎日のように70mとか80mに潜っていて、その上で、何かターゲットがあって、潜ろうとするものだ。」と、すこしたしなめる、忠告調でいわれた。僕は、1963年に100mを目指して、90mで引き返したので、のこりの10mを潜り詰めようとしているのだ、と説明すると。「そうか、わかった。冒険なんだ。ならば手伝ってあげよう。去年だったか、テレビ記者が潜りたいというので、ここで潜らせてあげて、放送した。」と写真をみせてくれた。」彼のぼー
との再圧チャンバーに二人で入っている写真だった。
日本の高知県、沖の島に珊瑚の採集に行った時のことも話した。そのときに、カメラを貸した。100mで使えるカメラが日本にはほかになかった。せっかく貸したのだけれど、凹んで戻ってきた。僕のカメラハウジングも100mは無理だったのだ。
「あのときは、本当に冒険だった。自分のボートも持っていけなかったし、」
アランは言う。飛行機代と、ホテルだけ持ってくれれば、ギャラはいらない、日本に行ってあげるよ。
この後、僕は東伊豆で103mに潜るのだが、400トンの母船を使い、波が高くてステージを下ろすことができず、時間切れになりそうになったとき、沖縄のケラマでアランを呼んで潜水することを本気で考えた。
再会を約して、日本にもどった。
「地中海ブルーに深紅の宝石珊瑚」というテーマでテレビ番組の企画を書いた。一緒に潜って100mの絶壁で宝石珊瑚のポリぷを撮影したい。絶対の企画だと思った。通りそうな局が一つだけあったが、だめだった。
その後、クリスマスカードを一度だけ送った。
あれから、20年だ。アランは66歳になっている。コルシカにまだいるだろうか。
ここで言いたかったのは、最もシンプルなオープンサーキットで潜るにしても、再圧タンクを備えたボートが必要であり、ボートの上からの着実なアシストがなければ、潜水を続けれうことができないということ。そのことが言いたかった。
今朝、彼の奥さんが隣町のホテルまで僕たちの道案内できてくれたが、プジョーの車で、砂利道をぶっ飛ばして走る。奥さんはベトナム人でかなりの美人だ。
アランの家は海辺に在ると思っていたのだが、ちょっとした山のような丘のうえにある。ジープで10分ぐらいだろうか。
プールがある。
家は、石造りで、古い羊飼いの家をかってリフオームしたものだ。そして、プールまである。海の近くなのになぜプールがあるのだと聞くと、奥さんと二人でトライアスロンにでるので彼女が泳ぐためだという。珊瑚採りはかなりの収入になるみたいだ。想像だが、今日採ったような小枝ではなく、大枝がとれると数百万になるのかもしれない。アランいわく、この漁場もいい珊瑚はとりつくしたので、別の漁場を探しているそうだ。
アランの家での、遅めのランチは、奥さんの手料理で、ベトナム風というか、中華だった。おいしかったが、箸で食べる。アランの箸つかいは、当然だが上手だった。
食事が終わってから、インタビュー(通訳つき)で、僕が60歳を記念して100mに潜る計画を進めているとはなすと、真顔になって、「何のために潜ろうというのだ。」そして、「100m潜るということは、毎日のように70mとか80mに潜っていて、その上で、何かターゲットがあって、潜ろうとするものだ。」と、すこしたしなめる、忠告調でいわれた。僕は、1963年に100mを目指して、90mで引き返したので、のこりの10mを潜り詰めようとしているのだ、と説明すると。「そうか、わかった。冒険なんだ。ならば手伝ってあげよう。去年だったか、テレビ記者が潜りたいというので、ここで潜らせてあげて、放送した。」と写真をみせてくれた。」彼のぼー
との再圧チャンバーに二人で入っている写真だった。
日本の高知県、沖の島に珊瑚の採集に行った時のことも話した。そのときに、カメラを貸した。100mで使えるカメラが日本にはほかになかった。せっかく貸したのだけれど、凹んで戻ってきた。僕のカメラハウジングも100mは無理だったのだ。
「あのときは、本当に冒険だった。自分のボートも持っていけなかったし、」
アランは言う。飛行機代と、ホテルだけ持ってくれれば、ギャラはいらない、日本に行ってあげるよ。
この後、僕は東伊豆で103mに潜るのだが、400トンの母船を使い、波が高くてステージを下ろすことができず、時間切れになりそうになったとき、沖縄のケラマでアランを呼んで潜水することを本気で考えた。
再会を約して、日本にもどった。
「地中海ブルーに深紅の宝石珊瑚」というテーマでテレビ番組の企画を書いた。一緒に潜って100mの絶壁で宝石珊瑚のポリぷを撮影したい。絶対の企画だと思った。通りそうな局が一つだけあったが、だめだった。
その後、クリスマスカードを一度だけ送った。
あれから、20年だ。アランは66歳になっている。コルシカにまだいるだろうか。
ここで言いたかったのは、最もシンプルなオープンサーキットで潜るにしても、再圧タンクを備えたボートが必要であり、ボートの上からの着実なアシストがなければ、潜水を続けれうことができないということ。そのことが言いたかった。