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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1113 後藤道夫

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 後藤道夫のこと、今は、知っている人も少なくなっただろう。2013年12月、亡くなった。僕の生涯の親友の一人で、「ニッポン潜水グラフィテイには、ずいぶん出てきてもらった。今度のシンポジウムで、その出演、撮影した、「マチャアキ、海を行く」を上映する。
 後藤道夫メモリー
 1959年、日本で最初のダイビング・サービスを真鶴ではじめて、セントラル・ダイビングセンターと名付けた。それまでは、本当に、どこにもダイビングサービス、空気を充填してくれるところはなかったのだ。
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      後藤道夫と彼の作ったマスク

 ウエットスーツは、1960年に製作が始まったが、後藤道夫の作ったパターン、型紙がベストだった。みんなこの型紙をまねした。現在でも後藤道夫の弟の勇毅さんのお店、UGOが、その伝統を受け継いでいて、オーダースーツとして、日本で一番を誇っている。フリーダイバーの岡本美鈴もここのスーツを着ている。
カメラハウジングも作った。キヤノンAE-1のハウジングは、日本初の量産ハウジングだった。ストロボも日本初の量産型、トスマリーンをつくった。撮影も、日本初の巣一中テレビ番組「マチャアキ海を行く」は彼がカメラマンで始めた。今度のシンポジウムで映写するのは、それだ。彼は何でも作れれるし、作ってきた。最後は海洋研究開発機構などの深海撮影機器を作っていて、最後の仕事は僕が産業技術総合研究所と一緒にやろうとしていった、放射性物質の探査をする水中スペクトルメーターで、これを2013年の夏につくり、その年の12月に亡くなった。最後の仕事を一緒にできたが、実はそれが、二人でやった最初で最後だった。二人と言っても、僕はこういうものを作ってくれと言うアイデアとコンセプトで、彼が形にしてくれる。
 器用とというのでは失礼だ、もの作りの天才だった。今書いている目標はマスクのことだ。
 彼が設計制作したマスク、それは1960年代だったが、そのころのマスクの最高であり、今でももしあれば、これが最高と僕は言うだろう。このマスクを持って鬼怒川パシフィックの顧問になり、このマスクを鬼怒川でつくろうとしたのだが、型がすり減ってしまっていて、つくれない。新たな型をという段階で、今のダイブウエイズ社長の武田さんと協力することになり、武田さんもマスク設計の天才であり、僕もその開発チームに入って、マンティスができた。
マンティスは世界を制覇したマスクだが、それでも僕は後藤道夫が最初に作ったマスクが好きだ。マスクの視界を広くするのは、マスクのガラスをめにできるだけ近づけることで達成される。これが大原則である。後藤マスクはガラスを思いきって目に近づけていて、鼻に当たる。当たってもよいと割り切っている。外国人には付けられないだろう。
 このマスクがおわってしまってからだいぶ後に、鬼怒川の子供用のマスクでこれに近いものを見つけた。子供用だから2千円ぐらいだったのか
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    子供用マスク モンテゴ

、具合が良いから、3個買いだめをしていた。ところが浦安海豚倶楽部の さんがあうマスクがないという。これを使わせたら、ぴったり合う。それをずいぶん長く使ったが、だめになった。新たに買おうとしたらもうカタログにない。仕方がないから、僕の最後の一つをあげてしまった。このマスクはモンテゴという名前だった。どう意味かわからない。いまは、ダイブウエイズのスーパーワイドを使っている。少し違うが、このマスクの系列だ。これももう製造中止だという。今、二個持っているから、死ぬまでこれで持つだろう。
  
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        スーパーワイド


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