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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1022 東京港水中生物研究会ができるまで

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 大変なショック。という程でもないが、東京湾大感謝祭にお台場の撮影について、出展するので、お台場に僕達が潜るようになったその発端からの話を書いて置いたものがきえてしまった。テキストで書いて、ハードディスク代わりのポメラに入れておいたのだが、消えてしまった。およそ、1時間探したが、どこにもない。
泣いても始まらない。もう一度書きなおすのだが、風邪を引いて寝ている時に、およそ一日掛けて書いたものだから、とても復元はできない。
 さて、お台場の東京港水中生物研究会の沿革について、
まず、僕と風呂田先生、との出会いからはじまる。
それは1985年、ニュース・ステーションの水中レポートが始まった時だ。
始まったばかりのニュース・ステーションは、視聴率が悪く、7%とか8%だった。10%にしなければ、という梃入れで、水中撮影を中心にする10分程度の自然紹介コーナーを設ける企画がでた。これは、日本での水中番組の元祖ともいうべき、「まちゃあき海を行く」を制作していた田島昭氏の提案した企画で、それが通り、田島さんと一緒に仕事をしたことのある数名のカメラマンが知恵をかしてくれたとたのまれた。僕は、すでに水中レポートの中継番組まで手がけていたので、水中レポートによる東京湾の撮影を企画した。
他に幾つかの企画もでていたらしいが、水中レポートということで、僕がとった。
心づもりでは須賀潮美をレポーターにと思っていたのだが、すでに女性アナウンサーのレポーターが決まっていて、潮美はことわられ、その代わりに誰か男性のレポーターを探すことになった。
風呂田先生は、もちろんまだ若くて、(39)東邦大学の講師だった。同時にNAUIの理事長をやっていた。当時のNAUIは、若い学者の風呂田君が理事長をやるような団体だったのだ。僕が知り合うのは、当時の海中開発技術協会の行事でNAUIとの話し合いがあった時だったと思う。弁舌が爽やかで、ルックスが悪くない。そして、その頃から、東京湾と言えばダイバーの間では、風呂田君が第一人者だった。彼ならば撮影テーマから撮影場所まですべてやってくれる。
実はその時、どこで潜って撮影したのかはっきりとした記憶がない。とにかく、大変に好評で、視聴率が10%を上回った。
すぐに続編をということになり、北海道知床の流氷がテーマになった。再び風呂田君をという話もでたが、僕は須賀潮美を連れて行った。これで北海道知床の流氷の下から、立松和平さんとの掛け合いの水中レポートが撮影され、ブレイクして、須賀潮美の水中レポートは、20年近く姿かたちは変わったが続くことになった。
中村征夫君とは元から親しくて、東京湾のニュース・ステーション番組が放映されたとき、「須賀さん、ぼくも東京湾にこだわっていて、今本をかいているのです。」と電話をもらった。これが、風呂田君も主人公の一人のように出てくる、「全東京湾」で、1987年に出版され、東京湾をテーマにした、素晴らしいノンフィクションで、中村征夫がその後に出した本も含めて、これ以上の水中カメラレポートは無いと僕は思っている。
その後も風呂田先生(ここから先生に変わる)とは、親しい付き合いが続き、三番瀬の埋め立て反対運動とか、幾つかの番組を一緒にやらせてもらった。

そして、1990年代に入ってからだと思う。環境映像の仕事を一緒にさせてもらっていた、電通映画社の神領プロデューサーが、2000年を前にして、東京湾の環境をテーマにした仕事をしようと思うので、東京湾岸で活動している人たちを全員集合させようという企画が持ち出された。全員、一匹狼なのだから、集めても疲れるだけだ、と僕は半ば反対したが、電通の某有力プロデューサーがお金は出すという。お金が出れば、人も集まる。電通が事務局になり、みんなに声をかけた。もちろん風呂田先生、三番瀬の小埜尾さん、横須賀で後に市会議員になる一柳さん、そして現在の「海を守る会」は、横浜市役所に勤務の塩井さんと言う方がやっていた。集まってもらって、「東京湾海洋研究会」と言う名称で、事務局長を三番瀬の小埜尾さんにお願いした。一年か二年か続いたが、一年と言う約束だった小埜尾さんが三番瀬の活動でいそがしくなり、事務局長を辞めて、横須賀が中心になって何回か行事をやったが、自然消滅した。電通から、予想通りのお金が出てこなかったからかもしれない。

 そのまま消えるのはもったいないと僕は思い、風呂田先生を隊長にして、須賀潮美を副隊長にして、「東京湾潜水探検隊」と言うのをでっち上げた。東京湾各所を次々と潜り歩こうという計画だ。記憶に残っているのは富津岬で潜り、三番瀬で夜の海の24時間継続観察をしたこと。24時間観察は、船を浮かべて、定点として、一時間おきの潜水して、1時間おきにプランクトンネットを引いた。印象に残ったのは、プランクトンネットに入るプランクトンが時間によって種類ががらりと変わることだった。夜中の2時頃はヤムシが多く、3時頃にはハゼの稚魚が多くなるとか、これは電通がお金をだしてくれた。
もう一つ、そのころ千葉港で使われなくなったドックに水を入れて、ダイビングポイントとした。ビッグドックと言う名をつけて、生簀のようにして魚を離したり、潜水艇を持って来たり、面白い企画だった。そのビッグドックに行ったのが、潜水探検隊の終わりごろだった。
そのビッグドッグに行った時、テレビ朝日ニュース・ステーションの番組で駿河湾の深海サメの企画があり、深海サメが採集できずに奮闘努力したディレクターの増子さんが、ビッグドッグのチーフダイバーになっていたことだ。現在はタオ島のダイビングステーションのオーナーになっている。そのいきさつをそのうちに訊こうと思っているがまだ果たしていない。

そして東京湾潜水探検隊はお台場にやってくる。
1996年6月、僕は東京海上保安部の警備救難課長の宮野さんと「東京ベイクリーンアップ大作戦」を始める。宮野さんが特殊救難隊の隊長をされている時に取材して親しくなっていた縁だった。僕はこの功績を称えられて?海上保安部から表彰されている。表彰状がどこかにあったはずだ。探してみよう。

1996年6月、東京ベイクリーンアップ大作戦は、このお台場に潜って、人体に悪影響がないものだろうか、まず特殊救難隊隊員が潜る人体実験からはじまった。もちろん僕はその前にも、マハゼの巣穴の調査で何度も潜っているので大丈夫としっているので、一緒に潜水した。
 
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    そのときお台場には、ライブ用の大きなステージが海上にあり、そのステージで開会式をやった。
    特殊救難隊が開会式でも活躍した。ヘリコプターも来て吊り降ろしをやろうかという話もあったが、高層建築があるからダメだった。
  
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 その、1996年、12月、第一回の潜水をする。この時は東京湾潜水探検隊としての潜水であり、今でもお台場潜水のメンバーに、東京湾潜水探検隊隊員が残っている。
風呂田隊長はそのまま中心人物となっているが、副隊長の須賀潮美は、たしか、一回だけ来ているはずだ。
 第1回  1996  12月23日
 第2回  1997   4月 6日
 第3回  1997   5月18日
 第4回  1998   3月 8日
 第5回  1998   9月15日
 第6回  1998  12月13日
 第7回  1999   4月24日
 第8回  2000   2月19日
 第9回  2000   9月10日
 第10回 2002   6月30日
第10回を機として、風呂田先生、船の科学館の小堀課長、そして須賀で東京港水中生物研究会が発足する。

ようやく、東京港水中生物研究会が発足するまでの道のりをたどることができた。


  10月25日の東京湾大感謝祭で、日本水中科学協会・東京港水中生物研究会のタイトルで、いうもお台場で、大きい一眼レフを振り回して、一番長い時間潜っている清水まみ の写真展をやることになった。

「東京港お台場潜水撮影調査 写真展 清水まみ」
まみは写真展ではないと言いますが、立派な写真展です。なぜかと言えば、彼女の主張があり、想いがあるからです。僕は画質の悪い小さな画しか見ていないので、全体の効果は当日でなければ見られません。ただ、キャプションを見た時、ハゼがあえいでいるとか頑張っているとかいう表現が気になりました。僕は東京水産大学で生物の生態学を専攻しました。生き物を擬人化しては、いけないという教育をうけています。だから、ちがうとおもったのです。
しかし、まみが主張、コンセプトを変えませんから、考え直しました。それほどまでにお台場という劣悪な環境で生きる小さな魚やカニたちへの想いがあるならば、その熱い心が写真を通して伝わるならば、見に来ていただいた人たちに、その思いが伝わるならば、素晴らしいことです。ぜひ見に来てください。」


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