ダイビングは所詮はマイナーである。そのマイナーな中でも、昭和10年、1935年のダイビング事情など、マイナーにさらにマニアックであろう。それを延々と書いているのだから、だれも興味を持ってくれないのではないかとおもう。
しかし、自分にとっては、明治生まれの大先輩が、減圧症とどのように闘い、そして倒れて行ったのを知ることは、とても重要なことだ。僕は、今のダイビング、減圧停止が出ただけで、そのまま減圧症になるのかと問いたくなるほど、騒ぐ。80,90mに空気で潜って、急浮上、短い潜水、急浮上、減圧停止の代わりに、ふかし療法をやる。
僕は2つの世界の真ん中辺りに居る。僕の同年輩の仲間のダイバーは、何人も減圧症にたおれて、半身不随になるか、それに近い症状でリハビリに励む。そんな場所に立っている。読者が減るな、と思うけれど、もう少し我慢しよう。
42 潜水病症状の大体
1.脳神経径に発生する場合。
2, 腰部以下半身不随
3 目の充血
4 排尿、排便の自由
5 発汗の不均衡による不快
6 手足先など局部に発生する場合。
7 めまい
と例があげたれているが、そのうちで、
1.脳神経系に発生する場合
「潜水病により即死するか、または即時発生してその日のうちか翌朝までに死亡するようなときは、およそこの場合と見ることが出来る。これは、普通潜水病に強いというような人、よほどの無理をやっても、一度も潜水病にかからなかったというような人に多いのである。小生がこれまでの生涯で見聞きしたところでは、およそ、全罹病者の三割弱はこの即死の場合がある。これら即死の場合といえども船側に浮上した後に、または直後に死亡するので、二、三語話す余裕がある。海底で潜水病で死亡して浮上したということはないのである。後略」
2.腰部以下半身不随の場合
「この場合、潜水病の発生は前者よりも遅く、上船語20分位より、最も遅きは十時間語、夜中安眠中に来ることあり、この種の場合も普通潜水病に強いと言われる人である。多くの場合、半身不随とはいうが全身不随も同様で寝返りさえもできない場合が多い。但し、頭と療法の手が自由であるのみ。潜水病としてはこの類が一番多く六割をしめている。小生の場合もこの類である。一度この病気に罹ったら、少なくとも三ヶ月は床上に横たわり、専らフカシ療法を施す。
第四の、排尿、排便の自由 も悲惨である。
これが昭和10年、僕が生まれた時のダイビングマニュアルである。
急速潜降、深い潜水の場合には潜水時間が5分、10分と短いので、次々と何人ものダイバーがタッグマッチのように潜水を繰り返す。
減圧症に罹患。 三浦先輩の場合。
「小生は2回罹病しましたが、やはりいずれも9月であった。いずれも1年中の悲哀身に迫る淋しい時期!半身不随の儘就床して耐えざる痙攣と針で刺すような局部の刺激に仮眠から覚めて虫の音を聴くとき、何と心細い深夜ぞ!
中略
潜水梯子に載せられて担ぎ出され、同情深い、友の手によるとは言え、再圧療法のため白波の下に沈み行く身!」
「小生愛弟子の内でも深海潜水の部に入る人々は、約2割がこのために逝っております。」
こうして、マニュアルに書いてあるのだから、わかっている、知っているはずである。それなのに何故、と思う。
自分がこの時代にダイバーになったら、どうだろう。
このマニュアルを読んでも、ダイバーになったことだろう。なってしまえば、潜水病を絶対的に防ぐなどということはできない時代である。
三浦先輩は1961年没だから、僕が東亜潜水に入社した1958年には、まだご存命だったが、潜水病の後遺症か、東京まででてくることはなく、こちらは、なにしろ、日曜休日もない会社だったから、見舞いにも行かれず、ついにお目にかかってお話を聞くこともできなかった。三沢社長に見舞いに行きたいと申し出れば、喜んで、もしかしたら、同行してくれたかもしれない。
僕が入社した当時の東亜潜水機 こういう時代だったのだ。
潜水の友、に引き続き山下弥三左衛門の潜水読本、定置網漁業と人工魚礁の本も読んで行きたいのだが、その定置網の本の序論で、三浦先輩のことに、山下先輩は触れている。
「三浦先生は、潜水研究に着想され、定置漁業を自然条件のもとに観察され、定置界に新しい、指導標を建設された先駆者である。
三浦先生の身命を賭とした業績を想い、潜水病苦に堪えて達筆を後進者に残された寄与は、高く評価せずにはいられないものがある。」
これが、なぜ、そんなにしてまでの答えである。今風に考えれば、命を失うような道への定置網潜水講習などするべきではない、というかもしれない。しかし、海は、水の中はフロンティアだった。だったではなくて、今もフロンティアであるが、そこへ突撃していく以上、そのとき、其の時点での最前の防護策が万全でないとしても、命を賭けなければならないと思う時代である。
三浦先輩は一緒に突撃して、2回も減圧症になりその後遺症に苦しんでいる。命令して、自分の宝さがしのために、若い命を危険にさらして成功した片岡弓八とちがうとおもうのは、その点である。
戦争を肯定することがないのと同様に、潜水病に罹患する可能性を知っていて突撃することを肯定することは、今の自分達には考えられない。しかし、昭和10年である。明治の日露戦争では、日本兵は死の突撃を繰り返して勝利する。昭和11年には、2.26事件が起こり、やがて日本は戦争に突入する。
その時代に生きていれば、自分は三浦さんと同様なことは、しなかっただろうか。多分したと思う。
三浦先輩に会えなかったといえば、今、伏龍特攻隊のいきのこりであり、海洋科学技術センター(JAMSTEC)で深海潜水の指導をされ、後に尾道海技学院でおしえておられ、社会スポーツセンターでも講座を持っていただいていた、三宅玄造先輩にもう一度あって話を聞いておきたい。尾道では、若い生徒たちに「ゲンゾウ」と呼ばれて、親しまれていた。最後に会ったときは、江田島を案内していただいた。が、今の僕の視点で潜水についてお話をしたことがない。この夏、広島、呉に行ったとき、連絡させていただいたのだが、返事が戻ってこなかった。お元気だろうか。僕が80なのだから、たぶん90を越えられたか。
しかし、自分にとっては、明治生まれの大先輩が、減圧症とどのように闘い、そして倒れて行ったのを知ることは、とても重要なことだ。僕は、今のダイビング、減圧停止が出ただけで、そのまま減圧症になるのかと問いたくなるほど、騒ぐ。80,90mに空気で潜って、急浮上、短い潜水、急浮上、減圧停止の代わりに、ふかし療法をやる。
僕は2つの世界の真ん中辺りに居る。僕の同年輩の仲間のダイバーは、何人も減圧症にたおれて、半身不随になるか、それに近い症状でリハビリに励む。そんな場所に立っている。読者が減るな、と思うけれど、もう少し我慢しよう。
42 潜水病症状の大体
1.脳神経径に発生する場合。
2, 腰部以下半身不随
3 目の充血
4 排尿、排便の自由
5 発汗の不均衡による不快
6 手足先など局部に発生する場合。
7 めまい
と例があげたれているが、そのうちで、
1.脳神経系に発生する場合
「潜水病により即死するか、または即時発生してその日のうちか翌朝までに死亡するようなときは、およそこの場合と見ることが出来る。これは、普通潜水病に強いというような人、よほどの無理をやっても、一度も潜水病にかからなかったというような人に多いのである。小生がこれまでの生涯で見聞きしたところでは、およそ、全罹病者の三割弱はこの即死の場合がある。これら即死の場合といえども船側に浮上した後に、または直後に死亡するので、二、三語話す余裕がある。海底で潜水病で死亡して浮上したということはないのである。後略」
2.腰部以下半身不随の場合
「この場合、潜水病の発生は前者よりも遅く、上船語20分位より、最も遅きは十時間語、夜中安眠中に来ることあり、この種の場合も普通潜水病に強いと言われる人である。多くの場合、半身不随とはいうが全身不随も同様で寝返りさえもできない場合が多い。但し、頭と療法の手が自由であるのみ。潜水病としてはこの類が一番多く六割をしめている。小生の場合もこの類である。一度この病気に罹ったら、少なくとも三ヶ月は床上に横たわり、専らフカシ療法を施す。
第四の、排尿、排便の自由 も悲惨である。
これが昭和10年、僕が生まれた時のダイビングマニュアルである。
急速潜降、深い潜水の場合には潜水時間が5分、10分と短いので、次々と何人ものダイバーがタッグマッチのように潜水を繰り返す。
減圧症に罹患。 三浦先輩の場合。
「小生は2回罹病しましたが、やはりいずれも9月であった。いずれも1年中の悲哀身に迫る淋しい時期!半身不随の儘就床して耐えざる痙攣と針で刺すような局部の刺激に仮眠から覚めて虫の音を聴くとき、何と心細い深夜ぞ!
中略
潜水梯子に載せられて担ぎ出され、同情深い、友の手によるとは言え、再圧療法のため白波の下に沈み行く身!」
「小生愛弟子の内でも深海潜水の部に入る人々は、約2割がこのために逝っております。」
こうして、マニュアルに書いてあるのだから、わかっている、知っているはずである。それなのに何故、と思う。
自分がこの時代にダイバーになったら、どうだろう。
このマニュアルを読んでも、ダイバーになったことだろう。なってしまえば、潜水病を絶対的に防ぐなどということはできない時代である。
三浦先輩は1961年没だから、僕が東亜潜水に入社した1958年には、まだご存命だったが、潜水病の後遺症か、東京まででてくることはなく、こちらは、なにしろ、日曜休日もない会社だったから、見舞いにも行かれず、ついにお目にかかってお話を聞くこともできなかった。三沢社長に見舞いに行きたいと申し出れば、喜んで、もしかしたら、同行してくれたかもしれない。
僕が入社した当時の東亜潜水機 こういう時代だったのだ。
潜水の友、に引き続き山下弥三左衛門の潜水読本、定置網漁業と人工魚礁の本も読んで行きたいのだが、その定置網の本の序論で、三浦先輩のことに、山下先輩は触れている。
「三浦先生は、潜水研究に着想され、定置漁業を自然条件のもとに観察され、定置界に新しい、指導標を建設された先駆者である。
三浦先生の身命を賭とした業績を想い、潜水病苦に堪えて達筆を後進者に残された寄与は、高く評価せずにはいられないものがある。」
これが、なぜ、そんなにしてまでの答えである。今風に考えれば、命を失うような道への定置網潜水講習などするべきではない、というかもしれない。しかし、海は、水の中はフロンティアだった。だったではなくて、今もフロンティアであるが、そこへ突撃していく以上、そのとき、其の時点での最前の防護策が万全でないとしても、命を賭けなければならないと思う時代である。
三浦先輩は一緒に突撃して、2回も減圧症になりその後遺症に苦しんでいる。命令して、自分の宝さがしのために、若い命を危険にさらして成功した片岡弓八とちがうとおもうのは、その点である。
戦争を肯定することがないのと同様に、潜水病に罹患する可能性を知っていて突撃することを肯定することは、今の自分達には考えられない。しかし、昭和10年である。明治の日露戦争では、日本兵は死の突撃を繰り返して勝利する。昭和11年には、2.26事件が起こり、やがて日本は戦争に突入する。
その時代に生きていれば、自分は三浦さんと同様なことは、しなかっただろうか。多分したと思う。
三浦先輩に会えなかったといえば、今、伏龍特攻隊のいきのこりであり、海洋科学技術センター(JAMSTEC)で深海潜水の指導をされ、後に尾道海技学院でおしえておられ、社会スポーツセンターでも講座を持っていただいていた、三宅玄造先輩にもう一度あって話を聞いておきたい。尾道では、若い生徒たちに「ゲンゾウ」と呼ばれて、親しまれていた。最後に会ったときは、江田島を案内していただいた。が、今の僕の視点で潜水についてお話をしたことがない。この夏、広島、呉に行ったとき、連絡させていただいたのだが、返事が戻ってこなかった。お元気だろうか。僕が80なのだから、たぶん90を越えられたか。