向こう2年間の自分のやろうとしていること、目標の座標軸を決めた。
8080潜水に関連づけて、マスク式潜水、サーフェスサプライとスクーバの間柄、プロのダイビングとレクリエーションダイビング、を書くノンフィクションを書く。
もう一つはお台場の潜水を通して、海の環境、都市の環境、オリンピックの問題などを書く。ノンフィクションと言うのか、自分の行動を通して、海と社会を書いて行く。
この二本が本になれば、僕の生涯はそこまでだ。でも、若い頃から、本を書こうとすると、生涯はそこまでのように見通してやってきた。その先はわからない。いつも。
だから、もう一つ人工魚礁調査から沿岸漁業のことを書きたいが、三つは無理かも知れない。
座標軸が決まってしまえば後は運だけか?
あと、二年の間のことだ。
まず、マスク式潜水を軸にして、日本の潜水の歴史を追って行く。
多分、延々と続くと思うけれど、なんとか目標まで行き着きたい。
なお、ブログでで書いているのは、下書きのつもりであり、下調べも不十分であるし、推測も底が浅い。何度か書きなおして、目標に到達したい。
フルフェイスマスクと軽便マスク式のちがいは、日本の高気圧作業安全衛生規則(高圧則)では、デマンドバルブがついているかいないかで分ける。
軽便マスク式は、潜水士テキストから消えて、デマンドバルブ付き全面マスクだけになった。工藤和由君と共著の「潜水士試験 完全攻略テキスト」では、規則改訂による、ある程度の書き直しを行ったが、僕は軽便マスク式は消去してしまおうという意見だったが、工藤君はまだまだ、数は少ないが沿岸漁業での海産物採集や、追い込み網漁業では使われていて、潜水士テキストから完全に消去したのは間違いだ、という意見で、残すことにした。潜水士テキストよりも、この問題集のほうが良いとまでは言わないが、優れたものにしたいという矜持はある。
ここから述べる、大串式マスクは、日本のマスク式潜水の元祖ともいうべきもので、日本独特の潜水器であり、世界で初、デマンドバルブの潜水機としての成功例だ。
ここでは、山田道幸 海底の黄金、講談社、1985を参考にした。
何分にも古いことなので、整合性に問題があるし、創作の部分もあるが、そして、その内容にもダイバーの眼からすれば、??のところもあるが、 第一次大戦で、エジプト沖でドイツの潜水艦に沈められた八坂丸から10万ポンドの金塊を、片岡弓八という船長が大串式マスクを使って引き上げた話で、小説として面白いし、手に入れることの出来るテキストとしては、もっかのところこれしか無い。マリンダイビングに、片岡弓八の手記が連載されていたのだが、今、手元にない。こんなことになるとは考えていなかったので、水中造形センターに就職した、潜水部の後輩に持っていたバックナンバーをさしあげてしまった。
八坂丸 12000トン
著者の山田さんは歯医者さんなのに、このマリンダイビングの手記を見て、なぜかこのストーリーにはまりこみ、この本を書いた。だから、マリンダイビングの記事のエッセンスはここに、含まれているだろう。山田さんは、潜水もなさるみたいだけれど、C-カードの無い時代の、C-カード程度のようだ。
大串式を作ったのは渡辺理一という人で、東京水産大学の前身である水産講習場の卒業生だから、僕の大先輩である。これから書く、マスク式潜水というと、水産講習所卒業生のオンパレードだ。その末席を僕が汚しているのだが、本当に汚してしまっている。が、がんばった。そのことも書いて行くので、長期戦になる。
大串式を作った渡辺先輩は、卒業後、イタリーに留学とある。明治30年頃だから、ヨーロッパのイタリーに行くとは、大変な時代だが、なにをしにいったのだろう。
ウィキで渡辺理一を探してもでてこない。ブログにこれを出しておくと、以後、ネットで渡辺理一 潜水 と検索するとここに当たることになる。
渡辺先輩は、日本に帰ってから、故郷の大村湾の長島で真珠養殖を始める。1903年、明治36年というと、鳥羽のミキモト幸吉が、真円真珠をつくったという1905年よりもかすかに古い。このあたりのことは、定かではないが、長崎の大村湾は明治40年に鳥羽よりも先に真円真珠をつくったという説明もでてくるので、三重とともに、長崎が真珠発祥の地である。現在でも真珠養殖の場としては、環境的にはむしろ優れていて、生産量も多くなっている。その発祥の時に渡辺理一がどのように関わっているのかは、わからない。
大村湾の長島とあるが、どこだ。これも、ネットで探したのだが、大村湾には長島という島はない。さらに探したら、長島は、八代湾、水俣の先にあった。この長島には2013年に中尾先生たちと行っているが鹿児島県である。
とにかく、長崎県の大村湾で、渡辺理一は、真珠養殖を始める。 現在は母貝のアコヤガイも養殖してそだてているのだが、当初は潜水して採集するほかなかったのだろう。
その潜水は素潜りであり、素潜りの海女さん、海士を少しでも長く潜らせれば、効率はよくなる。大量のアコヤガイも手に入る。
渡辺さんは鍛冶職、金属加工行の大串金造の協力を得て、全く新しい潜水機を作り上げる。そして、これでアコヤガイも大量に採取できたらしい。
海女が着ける、目と鼻を覆う単眼のマスクの中に、空気を送り込めば、長く潜水できる。軽便マスク式の一つである海王式はマスクの中に空気の流れるままだが、吸うときだけ、それも必要なだけ空気が供給されれば、空気の量も少なくてすむ。消費する空気の量は今も昔も潜水器の優劣を定める重要なポイントである。
誰でも考えつくのは、手動で、バルブを閉めたり開けたりして、開けた時だけ吸い込んで、吐いている時には閉めれば空気が無駄になることはない。当初の大串式は、この方式だったらしい。しかし、手で開け閉めしているのでは、片手が塞がってしまって手作業が不便である。歯で噛んで開閉するバルブを作り、歯でバルブを開くと、マスクの中に空気が出てくる。歯で噛んで吸う。これをバイト式と呼んだ。
参考にしている「海底の黄金」は、面白い本だけど、事実に忠実であるかどうか疑問のところが、多い。そして、黄金を引き上げた片岡弓八が主人公だから、弓八に味方している。渡辺理一は、片岡弓八船長の船で、一等航海士をしていた。それをやめてから、真珠養殖を始めるのだが、ある日、渡辺は一つの潜水器を持って、弓八を訪ねてくる。この潜水器で海を耕し、海を開くのだ、と夢を語る。すでに、アレキサンドリア沖の八坂丸の金塊引き揚げを考えていた弓八は、この潜水器で出来るかもしれないと思う。そして、手動ではなくて、歯で噛むバルブ、バイト式を発案し、提案することになっている。だから、大串式は片岡弓八が作ったことになる。多分、片岡弓八は、あれは僕が考えたのだ、と後に言ったのだろう。その時には渡辺理一はもう亡くなっている。
大串式は、渡辺がこういう潜水器がほしいと大串に相談して、大串が主要部分のメカニズムを考えだしたのだろうと推測する。
アクアラングのクストーとガニアンの関係のようなものだったのだろう。
しかし、片岡弓八はダイバーではなかったが、この潜水機があれば、八坂丸に到達できる。金塊が引き上げられるという眼はあって、これに、すべてを掛けた。
英国に特許をだした大串式の写真、150キロ充填のタンクとある。
フィンはつけていない。
歯で噛んでバルブを開くバイト式
大串式をスクーバ風に使った想像図
いずれも船の科学館蔵
とにかく、渡辺理一のコンセプトは、水中呼吸器を素潜りダイバーに背負わせようとする、今で言う、スクーバだったのだろうとも思う。クストーがスキンダイビングの延長線上で、より長く潜りたいために、アクアラングを考えたのと同じように、素潜りの延長線上で渡辺は大串式を考えたのだと思う。そんな風に思いたい。渡辺は、大串式をスクーバとして1918年に英国で特許申請をだしている。しかし、渡辺がこの大串式を、スクーバ、もっともそのころはスクーバという言葉はないが、スクーバとして使用してアコヤガイを引き上げたかどうかわからない。特許の写真はBSACのダイビングマニュアルから複写したものだが、ここには、150キロを充填と書いてある。150キロの高圧を充填できるコンプレサー、施設が明治36年に地方で簡単に手に入れる事ができたとは思えない。
普通のヘルメット式潜水器はすでに使われていたから、ヘルメット式の手押しポンプのホースの先にマスクを付けて使った方が多かっただろう。もしかしたら、ボンベではほとんど使わなかったのかもしれない。このへんもよくわからないが、片岡弓八が八坂丸の金塊引き揚げに使ったのは、ポンプで押す送気式として使った。
八坂丸の水深は、書いている本によってまちまちである。この本では、88mになっている。いちおう80mとする。八坂丸は、大きい船だから、沈んでいる水深が88mであっても、潜水深度は船の高さがあるから、もっと浅くなる。
手押しポンプ、天秤の両側に丸太を通して、何人もで押セば圧力を押せる。
ここで、手押しポンプと聞くと、手押しポンプで80mなんて無理ではないかと思う人もいるだろうが、手押しポンプだからこそ80mも潜れる。そのころのコンプレッサーで、80m,9気圧の送気能力のあるコンプレッサーはない。手押しポンプならば、圧力が高くなれば、押す人間の数、人力を増やしていけば良い。マスクの内容積とほぼ同じ程度のピストンを押して送気すれば良い。だから、潜水器の内容積が深海潜水の可否の要になる。ヘルメット式のように大きい内容積では、換気が不十分になる。それで、マスクの小さい大串式が世界で一番深く潜れる潜水器だったわけである。大串式ではポンプを一回押せば、済むところを、ヘルメットでは、10回押すとすれば、勝負は明らかだ。
片岡弓八は1918年、大串式の特許申請と同じ年だが東京潜水工業というサルベージ会社を設立する。これで、大串式を使って八坂丸の金塊引き揚げを目指す。
水深70-80で減圧症を引き起こさないかといえば、まだ、減圧理論とて確立されたわけではなく、減圧テーブルも物語には出てこない。ヘルメット式よりも大串式の方が減圧症になりにくい、などという記述はある。それは嘘だから、減圧症による事故死は、一名ですんだのは、幸運と言えるだろう。
100万円、当時としては巨額の金塊が引き揚げられたのは、1925年だが、それ以前に渡辺理一は金塊を見ないで亡くなったという。
この大串式潜水器であるが、多分、潜水研究所の菅原久一氏が持っていたものだと思うが、現 ADS の創立者である、清水の故望月昇氏が持っていて、船の科学館に寄贈し、展示されていたが、現在船の科学館は無期限の休館である。船の科学館の一室に潜水博物館をつくりたいというのが、僕の願いの一つであったが、僕が生きているうちには難しいだろうと思う。
それに、大串式のレプリカ、使えるレプリカを作って、潜って見たい。ただ、僕はもう入歯なので、使えないだろうけれど。
最後に潜水病、減圧症事情についても、「海底の黄金」は、書いている。一番軽いのは「ロマテキ」とよばれていて、今で言うⅠ型のタイプだ。次が「ハウカース」でⅡ型、最後が「パレライス」でチョークすであろう。本の記述を引用すると「これは、30尋(約54m)以上の深さで長時間作業した時に罹るものである。合図が無いので引き揚げてみると、すでに死亡していたり、人事不省に陥っていたりする。「血の玉」が上がってくるといって、血を吐きながら苦しむのもこの段階のものである。」
八坂丸でも若いダイバーが一名、これで命をおとしている。しかし、成功報酬は今で言うと3000万ぐらいだろうか、ダイバー気質の若い衆ならば、命を懸ける。僕だって、若い頃ならば、いや、年とって残りが少なくなれば、なおさらに、3000万ならば行く。
なお、減圧治療は、「ガントン」といってふかし療法である。
大正18年の時代である。簡単な減圧表もあっただろうが、本の記述ではでてこない。減圧停止の記述もない。ただ、ガントン、ふかし治療をやる記述はある。片岡弓八は、ガントン、ふかし療法でもいい顔をしない。責任者に詰め寄られて、しぶしぶ認める。
僕は、片岡弓八は好きになれない。自分は潜らずにダイバーの生命を賭けて、巨額の富をねらう。自分も潜れば、好きになる。
片岡弓八は、昭和33年75歳で亡くなる。昭和33年といえば、僕が東亜に入った前年だ。息子さん、たしか直吉さんが東亜に訪ねてきたことがあり、三沢社長に紹介されて、ご挨拶した。物静かな人だった。彼もダイバーではないから、挨拶においでになったのだろう。社長が片岡弓八の友人であり、葬儀にでたのかもしれない。
参考 海底の黄金 山田道幸 講談社 1985
BSAC SPORT DIVING 1987
海底の黄金はアマゾンで4500円だった。