JAUSのワークショップでマスクをとりあげるので、その準備のつもりで、もう少し、マスクの話を。
http://jaus.jp/?p=1274
ワークショップです。
前をさえぎるものがない単眼はカメラマンにとっては、必須、むかしのカメラマンかもしれないけれど、とにかく観ることが命のカメラマンは、単眼を使っている人が多いと思います。
単眼で一番すぐれていたのは、今は亡き親友の後藤道夫が作ったマスクです。1960年代、ニコノスの数だけ、このマスクが使われたはずです。
後藤道夫のマスク、鼻の部分に注意
このマスクのコンセプトは、視野を広げるためにガラスを眼に近づけること、鼻の高い外人は使えないほどで、日本人も鼻に当たる人が居るけど、痛くなければ視野のために我慢する。スカートの部分も水漏れが少なく、これは、後藤道夫のもの作りの天性の産物です。この後この才能は、カメラハウジング作りに行ってしまうのですが。
その後藤道夫と僕は、鬼怒川パシフィックの顧問に就任しました。後藤さんのマスクの型も一緒に行ったのですが、マスクのゴム型は、磨耗してしまって使いものにならなくなっていました。そのとき鬼怒川には、武田さんがデザイナーとして、居て、生涯の親友になり、マンティスが生まれるのですが、マンティスのあまりの成功で、世は、サングラススタイルの二眼に移行します。それでも単眼の需要はあって、横幅で視野を広くしたアトランティスなどがつくられます。
このころから、日本のメーカーも多くなり向上して、次々と良いマスクができますが、ここでは、自分周辺の流れだけを書いて行きます。
その前に、それ以前の歴史をちょっとさかのぼります。
1930年代、地中海の南フランスで、遊びのための素潜り、いわゆるスキンダイビングが始まった時、スキンダイバーが着けていたのは、ゴーグルでした。だから、このダイバーたちのことをゴグラーなどと呼びました。そこに、確か、カラマレンコ(違うかもしれません。文献を再確認していません)という人が、眼と鼻を覆う、単眼のマスクをつくりました。そのアイデアは、日本の海女さんのマスクだったといいますが、これも定かではありません。僕が素潜りを始めた時はこの海女マスクでした。
やがて、水産大学でスクーバを習い始める時、学校が用意していたのは、フランス製のスコールというマスクでした。これは、楕円形、シングルスカートで誰の顔でも、だいたいあう、良いマスクでしたが、ゴム質が悪く、ひと夏でゴムの部分がとろけてしまうのが難点でした。
このマスクが基本、若いころのユージにークラーク博士、
鼻で息を吸い込んで陰圧にすれば、マスクの水漏れはほとんどなかった。
このマスクと同じようなマスクを国産で、ゴム質を良くして提供しようとしたのが、日本水中工業の高橋さんでした。名前だけは大きいのですが、お店は浅草の花川戸にあり、高橋さんは地元の高橋組の息子でしたが、不肖の息子?で組を継がずに一人だけのカンパニーを作り、マスクを作りました。マスクのニックネームはスイチューで、でした。(1958ごろ)
スイチュー
そして、日本アクアラングが誕生して、日本のアクアラング潜水も本格的になるのですが、そのころの世界をみると、楕円形のスタンダードが大半を占めていますが、水抜き弁がついたものや、無理やりワイドにした箱のようなマスクまで、様々な形が生まれます。
スキンダイビング用具の元祖ともいうべきイタリーのクレッシーサブは、マスクの内容席を小さく、視界を広くするためにガラスを目に近づけるために花の部分をゴムにしたピノキオというマスクをつくります。これが2眼マスクの元祖です。その進化形でリンチェ(メガネ猿)というマスクができ、マンティスを作る時、木彫人形のピノキオでも無く、メガネ猿でも無く、もっとかっこいいサングラスタイプのマスクを作ろうというコンセプトで作り上げたのが、カマキリ(マンティス)です。
一方で、アメリカのボイトが作った、大きな排水弁の付いたマスクが売りだされ、日本でも、排水弁付きのアクアジェット(鬼怒川) パシフィカ(日本アクアラング)などがつくられ、マスククリアーを教えないで済む、(1963)弁付きマスク全盛となります。
なぜ、弁付きマスクが廃れたか、よくわかりませんが、指導団体のプログラムが確立普及してきて、マスククリアーが最初の講習のマストになったこと、弁が壊れると、困ること、そして、豚鼻と呼ばれた格好も、マンティスなどのかっこよさに負けたのだろうとおもいます。
その頃から、マスクはファッションになってきます。このことは、とても重要です。
ボディはクリアーシリコンになり、フレームの色は多彩になります。
マスクの殆どが二眼になったのも、この流れです。
流れに逆らっているのが、単眼です。 続く。
http://jaus.jp/?p=1274
ワークショップです。
前をさえぎるものがない単眼はカメラマンにとっては、必須、むかしのカメラマンかもしれないけれど、とにかく観ることが命のカメラマンは、単眼を使っている人が多いと思います。
単眼で一番すぐれていたのは、今は亡き親友の後藤道夫が作ったマスクです。1960年代、ニコノスの数だけ、このマスクが使われたはずです。
後藤道夫のマスク、鼻の部分に注意
このマスクのコンセプトは、視野を広げるためにガラスを眼に近づけること、鼻の高い外人は使えないほどで、日本人も鼻に当たる人が居るけど、痛くなければ視野のために我慢する。スカートの部分も水漏れが少なく、これは、後藤道夫のもの作りの天性の産物です。この後この才能は、カメラハウジング作りに行ってしまうのですが。
その後藤道夫と僕は、鬼怒川パシフィックの顧問に就任しました。後藤さんのマスクの型も一緒に行ったのですが、マスクのゴム型は、磨耗してしまって使いものにならなくなっていました。そのとき鬼怒川には、武田さんがデザイナーとして、居て、生涯の親友になり、マンティスが生まれるのですが、マンティスのあまりの成功で、世は、サングラススタイルの二眼に移行します。それでも単眼の需要はあって、横幅で視野を広くしたアトランティスなどがつくられます。
このころから、日本のメーカーも多くなり向上して、次々と良いマスクができますが、ここでは、自分周辺の流れだけを書いて行きます。
その前に、それ以前の歴史をちょっとさかのぼります。
1930年代、地中海の南フランスで、遊びのための素潜り、いわゆるスキンダイビングが始まった時、スキンダイバーが着けていたのは、ゴーグルでした。だから、このダイバーたちのことをゴグラーなどと呼びました。そこに、確か、カラマレンコ(違うかもしれません。文献を再確認していません)という人が、眼と鼻を覆う、単眼のマスクをつくりました。そのアイデアは、日本の海女さんのマスクだったといいますが、これも定かではありません。僕が素潜りを始めた時はこの海女マスクでした。
やがて、水産大学でスクーバを習い始める時、学校が用意していたのは、フランス製のスコールというマスクでした。これは、楕円形、シングルスカートで誰の顔でも、だいたいあう、良いマスクでしたが、ゴム質が悪く、ひと夏でゴムの部分がとろけてしまうのが難点でした。
このマスクが基本、若いころのユージにークラーク博士、
鼻で息を吸い込んで陰圧にすれば、マスクの水漏れはほとんどなかった。
このマスクと同じようなマスクを国産で、ゴム質を良くして提供しようとしたのが、日本水中工業の高橋さんでした。名前だけは大きいのですが、お店は浅草の花川戸にあり、高橋さんは地元の高橋組の息子でしたが、不肖の息子?で組を継がずに一人だけのカンパニーを作り、マスクを作りました。マスクのニックネームはスイチューで、でした。(1958ごろ)
スイチュー
そして、日本アクアラングが誕生して、日本のアクアラング潜水も本格的になるのですが、そのころの世界をみると、楕円形のスタンダードが大半を占めていますが、水抜き弁がついたものや、無理やりワイドにした箱のようなマスクまで、様々な形が生まれます。
スキンダイビング用具の元祖ともいうべきイタリーのクレッシーサブは、マスクの内容席を小さく、視界を広くするためにガラスを目に近づけるために花の部分をゴムにしたピノキオというマスクをつくります。これが2眼マスクの元祖です。その進化形でリンチェ(メガネ猿)というマスクができ、マンティスを作る時、木彫人形のピノキオでも無く、メガネ猿でも無く、もっとかっこいいサングラスタイプのマスクを作ろうというコンセプトで作り上げたのが、カマキリ(マンティス)です。
一方で、アメリカのボイトが作った、大きな排水弁の付いたマスクが売りだされ、日本でも、排水弁付きのアクアジェット(鬼怒川) パシフィカ(日本アクアラング)などがつくられ、マスククリアーを教えないで済む、(1963)弁付きマスク全盛となります。
なぜ、弁付きマスクが廃れたか、よくわかりませんが、指導団体のプログラムが確立普及してきて、マスククリアーが最初の講習のマストになったこと、弁が壊れると、困ること、そして、豚鼻と呼ばれた格好も、マンティスなどのかっこよさに負けたのだろうとおもいます。
その頃から、マスクはファッションになってきます。このことは、とても重要です。
ボディはクリアーシリコンになり、フレームの色は多彩になります。
マスクの殆どが二眼になったのも、この流れです。
流れに逆らっているのが、単眼です。 続く。