茨城県立海洋高校での海洋高校教員の潜水講習の講義、というよりも講演かな、に行ってきた。内容は数日前にこのブログで、レジュメの下書きを見てもらった。10時から12時までの2時間で、僕の用意したのは、安全へのアプローチだったが、プログラムでは、調査潜水と器材についであることが、現地でわかった。
演題はなんでも良い、僕がお話をすることが、テーマなのだということで、勝手にこちらで、決めたのだが、現場としては、無題では困るので、リサーチと決めたのだろう。
教材として、2011年と、2014年の水中科学協会のシンポジウム報告書を用意していた。其のどちらにも、調査潜水のことが載っている。で、2時間の前半でPPを用意した安全についてのアプローチを話し、間に休みを入れて、後半にウエアラブルカメラの話をした。
話としては、うまくできたと思う。
講義が終わってから、潜水訓練用プールで泳いだ。水深が、10m,5m,3m,1,5m、四つのエリアに分けた25mプールで屋内、温水プールである。プールサイドも広く、ダイビング用としては、日本最高のプールである。同じようなプールが東京の海洋大学品川キャンパスにあれば、と、このプールに来るたびにいつも思う。「水中写真の撮影」の共著者である小池康之先生もずいぶん努力をされたが、文部省の教科として、潜水は高校での職業教育の分野に入り、大学には入らないということで実現しなかった。海洋大学には、世界に誇る練習調査船の海鷹丸があり、その他にも、神鷹丸など2隻の船がある。そのうちの一隻を減らしても、と願ったが、だめだった。潜水は街場のダイビングショップや、サービスが扱う商品スポーツのカテゴリーで充分ということなのだろう。
まあ、過ぎた日々の愚痴を言ってもはじまらない。個人的には、その高校のダイビングの指導を司ることができたのだから、文句も言えない。
2005年の講習
このプールが出発点となって、海洋高校、当時の水産高校の潜水教育がはじまったのは。1991年だった。文部省の教科審議官(確かそんな名前の)中谷先生のリードで僕がテキストを書き、先生の教育を始めた。僕が担当していた最後は、2005年だった。その後、10年の時が経ち、先生たちも転勤とか偉くなったりとかで、現場の人数がたりなくなって、今回の講習が行われることになった。もはや、僕はその担当ではない。しかし、立ちあげの功を労ってだろう、講習の終わりの日、おまけ、というかまとめの講演をさせてもらった。自分としてはまとめ、頼んだ側としてはおまけだろう。とにかく、話をさせてもらえることは、義理堅いことで、感謝しなければいけない。
僕が泳ぐ必要などは全くなく、すべての実技講習が終了して、先生たちの道具が送り返すためにまとめられている無人のプールで、僕だけが泳いだ。水温は、夏は加熱しないで27℃ある。ラッシュガードで十分に泳げる。担当の宮城先生が、プールサイドでみていてはくれたが、一人だ。スキンダイビング・セーフティでは、この人ならば大丈夫というところで、事故が起こる。一人で泳いではいけない。その話をしたばかり、舌の根が乾かないうちに一人で泳いでいる。まあ、一人で泳ぐときには、何があろうとも、絶対的に本人の責任だとも、話したから、良しとしよう。良しとした。
実は、水中科学協会を作るとき、「SOLO!」というカードをつくろうとした。このカードを示せば、どこでも一人で泳げる、もぐれる。しかし、戻ってこなくても、捜索、救急などしなくてもいい。そのうちに遺体が上がることもあるだろう。いまでもそんなカードの願いはあるけれど、実現は、なかなか難しい。捜索、救難は必須だからだ。それに、水中科学協会のポリシーとしては、業界の邪魔はしないこと、だから。
とにかく、水面の見張りで一人で泳いだ。
久しぶりで見る、10mの深さは、「深かった」「深く見えた」
水面を100mウォーミングアップで泳ぎ、次に5mを1本、10mプールで7mまで潜り、耳抜きの調子を見て、10mにトライした。楽に10m行けそうだったが、9mで止めた。理由は一人だからだ。
時間にして10分程度泳いだ。
演題はなんでも良い、僕がお話をすることが、テーマなのだということで、勝手にこちらで、決めたのだが、現場としては、無題では困るので、リサーチと決めたのだろう。
教材として、2011年と、2014年の水中科学協会のシンポジウム報告書を用意していた。其のどちらにも、調査潜水のことが載っている。で、2時間の前半でPPを用意した安全についてのアプローチを話し、間に休みを入れて、後半にウエアラブルカメラの話をした。
話としては、うまくできたと思う。
講義が終わってから、潜水訓練用プールで泳いだ。水深が、10m,5m,3m,1,5m、四つのエリアに分けた25mプールで屋内、温水プールである。プールサイドも広く、ダイビング用としては、日本最高のプールである。同じようなプールが東京の海洋大学品川キャンパスにあれば、と、このプールに来るたびにいつも思う。「水中写真の撮影」の共著者である小池康之先生もずいぶん努力をされたが、文部省の教科として、潜水は高校での職業教育の分野に入り、大学には入らないということで実現しなかった。海洋大学には、世界に誇る練習調査船の海鷹丸があり、その他にも、神鷹丸など2隻の船がある。そのうちの一隻を減らしても、と願ったが、だめだった。潜水は街場のダイビングショップや、サービスが扱う商品スポーツのカテゴリーで充分ということなのだろう。
まあ、過ぎた日々の愚痴を言ってもはじまらない。個人的には、その高校のダイビングの指導を司ることができたのだから、文句も言えない。
2005年の講習
このプールが出発点となって、海洋高校、当時の水産高校の潜水教育がはじまったのは。1991年だった。文部省の教科審議官(確かそんな名前の)中谷先生のリードで僕がテキストを書き、先生の教育を始めた。僕が担当していた最後は、2005年だった。その後、10年の時が経ち、先生たちも転勤とか偉くなったりとかで、現場の人数がたりなくなって、今回の講習が行われることになった。もはや、僕はその担当ではない。しかし、立ちあげの功を労ってだろう、講習の終わりの日、おまけ、というかまとめの講演をさせてもらった。自分としてはまとめ、頼んだ側としてはおまけだろう。とにかく、話をさせてもらえることは、義理堅いことで、感謝しなければいけない。
僕が泳ぐ必要などは全くなく、すべての実技講習が終了して、先生たちの道具が送り返すためにまとめられている無人のプールで、僕だけが泳いだ。水温は、夏は加熱しないで27℃ある。ラッシュガードで十分に泳げる。担当の宮城先生が、プールサイドでみていてはくれたが、一人だ。スキンダイビング・セーフティでは、この人ならば大丈夫というところで、事故が起こる。一人で泳いではいけない。その話をしたばかり、舌の根が乾かないうちに一人で泳いでいる。まあ、一人で泳ぐときには、何があろうとも、絶対的に本人の責任だとも、話したから、良しとしよう。良しとした。
実は、水中科学協会を作るとき、「SOLO!」というカードをつくろうとした。このカードを示せば、どこでも一人で泳げる、もぐれる。しかし、戻ってこなくても、捜索、救急などしなくてもいい。そのうちに遺体が上がることもあるだろう。いまでもそんなカードの願いはあるけれど、実現は、なかなか難しい。捜索、救難は必須だからだ。それに、水中科学協会のポリシーとしては、業界の邪魔はしないこと、だから。
とにかく、水面の見張りで一人で泳いだ。
久しぶりで見る、10mの深さは、「深かった」「深く見えた」
水面を100mウォーミングアップで泳ぎ、次に5mを1本、10mプールで7mまで潜り、耳抜きの調子を見て、10mにトライした。楽に10m行けそうだったが、9mで止めた。理由は一人だからだ。
時間にして10分程度泳いだ。