「暑くて」と言い訳をしてはいけない。
撮影のことを書きたい。
するともう頭のなかは脱線している。昔は、とか、自分はどういうカメラマンだったか、などと脱線している。本当に書きたいことに辿り着くまでに、力尽きてしまいそう。
だから、基本的に僕はテレビ番組のカメラマンだった、などということは、テレビ番組のカメラマンとは、などということは、またいずれ、ということで。カット。
撮影するという行為が陸上でも水中でも、だれでも、どこででも、すぐにする、出来事になっている。スマートフォンのため、陸上ではカメラを持ち歩かなくても、いつでもどこでも、だれでも写真を撮る。あ、それから、動画と静止画の区別が無くなったから、どちらもまとめて写真と呼ぶようにしよう。と思いながら、スチルとかムービーとか言っている。
カメラマンとそうでない人との区別は、何のために撮影するのかというコンセプト、基本姿勢が明確であるか、そうでないかの違い、と書きかけて、フェイスブックのため、とか言われてしまうと、「そうなのか、そうだよね」と納得してしまう。日常の中に写真が組み込まれている。しかし、それでも、何のために写真を撮るのかということを、一応考えるのか、考えないのか、という区別はある。
記念写真こそ立派な目的、目標だから、それでもいいから、なんのためか、記念のためという立場を明確にすることから、始まる。
一人の人、一人のカメラマンが多数の目標、目的を持っても良いから、シャッターを押すときには、なんのためか、意識しているはずだ。フェイスブックに載せようでもいい。
何のためなのか、目標、目的によって使う器材が違ってくる。実はスマートフォンを使うようになってから、まだ日が浅いのだが、記念写真、フェイスブックに載せる写真は、スマートフォンで足りるとわかった。しかし、水中は?スマートフォンでは、スマートフォンの水中ケース、ハウジングもでているけれど、それほど、普及しないと思う。スマートフォンは、水中ではカメラとしてだけしか使えないからだ。水中で通信ができるとなったら、陸上と同じように、スマートフォンだけで、記念写真、フェイスブックはそれで足りるとなってしまうだろう。
フェイスブックと書いたけれど、ツイッターでもおなじことだ。
カメラとは、まず、記録のための道具であり、自己表現の道具である。自己表現と記録とは、混然としているが、記録であり、自己表現であることを自覚して使いこなすことが必要である。つまり、当然のことでけれど、自分のやっていることを自覚している。自覚することが撮影の第一歩だと思う。絵を撮ることが、身近になっているから、言葉で表現に絵を置き換える。一枚の絵で、言葉にして莫大な情報量があるのだが、言葉をちょっとそえると、理解が進む。言葉を添えないで、表現することを目指すべきだろうか、言葉を添えて、一つのものと考えるのか、そのどちらが良いのか。自分としては、素直に、言葉を添える、言葉の表現としての写真と、写真の表現としての言葉を混然と使いこなしたい。
此処から先は、十人十色であり、人それぞれであり様々である。そして、同じ一人の人でも、その置かれた状況、時代、器材の進歩と変遷によって大きく変化する。
だから、自分の場合、昔話から始まってしまう。フィルムの時代、そしてデジタルの時代、カメラの進化によって大きく変化した。
ああ、また悪い癖で、前置きでこんなにながくなってしまった。
何を書きたいのか、書きたいと思って頭の中にあるものからどんどん遠ざかって行く。
そこで、態勢を立てなおして、
豊潮丸の航海で、何を撮りたかったのか。そして、このごろ、この数年、自分は何を撮ろうとして居たのか?!
暑いので、イリュージョンが乱れる。 ☆つづく
撮影のことを書きたい。
するともう頭のなかは脱線している。昔は、とか、自分はどういうカメラマンだったか、などと脱線している。本当に書きたいことに辿り着くまでに、力尽きてしまいそう。
だから、基本的に僕はテレビ番組のカメラマンだった、などということは、テレビ番組のカメラマンとは、などということは、またいずれ、ということで。カット。
撮影するという行為が陸上でも水中でも、だれでも、どこででも、すぐにする、出来事になっている。スマートフォンのため、陸上ではカメラを持ち歩かなくても、いつでもどこでも、だれでも写真を撮る。あ、それから、動画と静止画の区別が無くなったから、どちらもまとめて写真と呼ぶようにしよう。と思いながら、スチルとかムービーとか言っている。
カメラマンとそうでない人との区別は、何のために撮影するのかというコンセプト、基本姿勢が明確であるか、そうでないかの違い、と書きかけて、フェイスブックのため、とか言われてしまうと、「そうなのか、そうだよね」と納得してしまう。日常の中に写真が組み込まれている。しかし、それでも、何のために写真を撮るのかということを、一応考えるのか、考えないのか、という区別はある。
記念写真こそ立派な目的、目標だから、それでもいいから、なんのためか、記念のためという立場を明確にすることから、始まる。
一人の人、一人のカメラマンが多数の目標、目的を持っても良いから、シャッターを押すときには、なんのためか、意識しているはずだ。フェイスブックに載せようでもいい。
何のためなのか、目標、目的によって使う器材が違ってくる。実はスマートフォンを使うようになってから、まだ日が浅いのだが、記念写真、フェイスブックに載せる写真は、スマートフォンで足りるとわかった。しかし、水中は?スマートフォンでは、スマートフォンの水中ケース、ハウジングもでているけれど、それほど、普及しないと思う。スマートフォンは、水中ではカメラとしてだけしか使えないからだ。水中で通信ができるとなったら、陸上と同じように、スマートフォンだけで、記念写真、フェイスブックはそれで足りるとなってしまうだろう。
フェイスブックと書いたけれど、ツイッターでもおなじことだ。
カメラとは、まず、記録のための道具であり、自己表現の道具である。自己表現と記録とは、混然としているが、記録であり、自己表現であることを自覚して使いこなすことが必要である。つまり、当然のことでけれど、自分のやっていることを自覚している。自覚することが撮影の第一歩だと思う。絵を撮ることが、身近になっているから、言葉で表現に絵を置き換える。一枚の絵で、言葉にして莫大な情報量があるのだが、言葉をちょっとそえると、理解が進む。言葉を添えないで、表現することを目指すべきだろうか、言葉を添えて、一つのものと考えるのか、そのどちらが良いのか。自分としては、素直に、言葉を添える、言葉の表現としての写真と、写真の表現としての言葉を混然と使いこなしたい。
此処から先は、十人十色であり、人それぞれであり様々である。そして、同じ一人の人でも、その置かれた状況、時代、器材の進歩と変遷によって大きく変化する。
だから、自分の場合、昔話から始まってしまう。フィルムの時代、そしてデジタルの時代、カメラの進化によって大きく変化した。
ああ、また悪い癖で、前置きでこんなにながくなってしまった。
何を書きたいのか、書きたいと思って頭の中にあるものからどんどん遠ざかって行く。
そこで、態勢を立てなおして、
豊潮丸の航海で、何を撮りたかったのか。そして、このごろ、この数年、自分は何を撮ろうとして居たのか?!
暑いので、イリュージョンが乱れる。 ☆つづく