病にたおれていたスガ・マリンメカニックの社員、米田茂が亡くなった。ダ61歳だった。この前還暦祝をやった中川隆と同年だ。
1982 年 僕たちは無敵だった。
福島県、沼沢沼発電所取水トンネルの調査、水深30m横に400m 出口の無いトンネル。
米田を一言で言ってしまえば、水泳部だからアスリートだ。ソシテ、誠実、決して人を裏切ることがない。人が亡くなると送りなして誠実とかみんな言うが、そんなことではなくて、本当のことなのだ。月刊ダイバーの続ニッポン潜水グラフィティで先々月までニュース・ステーションのことを書いていた。そのニュース・ステーションの監督だった小早川さんが言う「須賀さん、米田は不器用な男だけど、決して裏切ることはない奴だ。大事にしてやってください。」僕は米田を大事にしただろうか、僕が彼を裏切ったのかもしれない。
ニュース・ステーション 三宅島、1986年
ニュース・ステーション カリブ海 1988年
僕は65歳で癌になり、スガ・マリンメカニックをやめるつもりになった。レンジャー部隊のような会社だ。社長といっても、佐官クラスで、亡くなっても続けるような会社ではない。なんとか自分が個人保証していた借金を返し終わった70歳、スガ・マリンメカニックは閉めようと思った。自分もだけれど、お互いに退職金などない。それぞれ自分の得意先を引き継いで、分散する。営業をやっていた田沼 君は営業を引き継いで、別の会社になり、それぞれフリーになった元社員に仕事を取ってくる。元社員は、その仕事をするとともに、フリーランサーのプロダイバーとして稼ぐ。僕も実質的にはフリーランサーだ。全員フリーの会社である。その中心に田沼の会社があればいい。米田は怒った。「須賀さん、僕がどんな気持ちでこれまでスガ・マリンメカニックで働いていたとおもうのですか。」しかし、僕はもう、新たに借金をして会社を伸ばしてゆく気力はなかった。後から考えれば米田が正しい。だめになっても、ボロボロに成っても、個人保証の財産が全部消えても、一つでやって行くべきで、その責任を残った田沼に押し付けてしまったのかもしれない。
米田が担当していたスガ・マリンメカニック戸塚ベース
皆元気なうちに解散してそれぞれ、伸びてゆけばいいと思った。中川も、大西も、今それで成功している。理屈は通っているけれど、僕は米田を裏切った事になるのかもしれない。残った米田をはじめ何人かの努力で、スガ・マリンメカニックは、借金を増やすこともなく、一応の仕事を続けているから、それはそれで、良いのだけれど、米田には済まないことをしたと思っている。
スガ・マリンメカニックには戸塚に現場事務所があり、経理営業は、今の僕の事務所と隣り合っているから、僕が事務所に居るときに米田が用事で来ると、顔をだす。話すことなど何もない。不器用な男なのだ。僕の顔だけ見にきてくれる。
病気に倒れて、一度だけ見舞いに行った。僕も何も話すことはない。「元気になって、また一緒に仕事をしよう。」なんて、空々しいことは言えない。ブログとかは見ていてくれているだろうから、彼のことを書いた。中川が、「もう死んでしまったような、彼を惜しむ文章でしたね。」と言われた。潮美からは、今の月刊ダイバーに米田の事をかけ、と言われた。米田と一緒にバイカル湖に行っている。アラスカにも行っている。写真を探してみて、バイカル湖にも、アラスカにも米田の姿がない。あったはずなのだが、スキャンしていなくて、紛失してしまっているのだ。辛うじて一緒の写真があったニュース・ステーションのことを書いた。実は、米田はスガ・マリンメカニックの調査の中心で、ニュース・ステーションの撮影は中川が中心だったから、ニュース・ステーションではあまり活躍していない。それでも、米田のことは、みんなが好きだった。表にはでないでも、裏で、何時でも生命をかけてくれた。僕も命がけが好きだから、自分でやろうとする。米田に怒られるが。僕は自分で突撃した。ルックスも良かったから、女の子には持てたが、年老いたお母さん、お父さんと別れて暮らすことなどできなかった。お正月、お母さんの煮てくれるクロマメが天下一品だと自慢する。これはもうだめだ。
中川と同じ年、早すぎる死だが、写真を探すと、今はいない人の姿ばかり出てくる。
あの世など、これっぽっちも信じていないから、冥福を祈るなんて出来ない。お通夜でも葬儀でも涙を堪えることができるだけ。
1982 年 僕たちは無敵だった。
福島県、沼沢沼発電所取水トンネルの調査、水深30m横に400m 出口の無いトンネル。
米田を一言で言ってしまえば、水泳部だからアスリートだ。ソシテ、誠実、決して人を裏切ることがない。人が亡くなると送りなして誠実とかみんな言うが、そんなことではなくて、本当のことなのだ。月刊ダイバーの続ニッポン潜水グラフィティで先々月までニュース・ステーションのことを書いていた。そのニュース・ステーションの監督だった小早川さんが言う「須賀さん、米田は不器用な男だけど、決して裏切ることはない奴だ。大事にしてやってください。」僕は米田を大事にしただろうか、僕が彼を裏切ったのかもしれない。
ニュース・ステーション 三宅島、1986年
ニュース・ステーション カリブ海 1988年
僕は65歳で癌になり、スガ・マリンメカニックをやめるつもりになった。レンジャー部隊のような会社だ。社長といっても、佐官クラスで、亡くなっても続けるような会社ではない。なんとか自分が個人保証していた借金を返し終わった70歳、スガ・マリンメカニックは閉めようと思った。自分もだけれど、お互いに退職金などない。それぞれ自分の得意先を引き継いで、分散する。営業をやっていた田沼 君は営業を引き継いで、別の会社になり、それぞれフリーになった元社員に仕事を取ってくる。元社員は、その仕事をするとともに、フリーランサーのプロダイバーとして稼ぐ。僕も実質的にはフリーランサーだ。全員フリーの会社である。その中心に田沼の会社があればいい。米田は怒った。「須賀さん、僕がどんな気持ちでこれまでスガ・マリンメカニックで働いていたとおもうのですか。」しかし、僕はもう、新たに借金をして会社を伸ばしてゆく気力はなかった。後から考えれば米田が正しい。だめになっても、ボロボロに成っても、個人保証の財産が全部消えても、一つでやって行くべきで、その責任を残った田沼に押し付けてしまったのかもしれない。
米田が担当していたスガ・マリンメカニック戸塚ベース
皆元気なうちに解散してそれぞれ、伸びてゆけばいいと思った。中川も、大西も、今それで成功している。理屈は通っているけれど、僕は米田を裏切った事になるのかもしれない。残った米田をはじめ何人かの努力で、スガ・マリンメカニックは、借金を増やすこともなく、一応の仕事を続けているから、それはそれで、良いのだけれど、米田には済まないことをしたと思っている。
スガ・マリンメカニックには戸塚に現場事務所があり、経理営業は、今の僕の事務所と隣り合っているから、僕が事務所に居るときに米田が用事で来ると、顔をだす。話すことなど何もない。不器用な男なのだ。僕の顔だけ見にきてくれる。
病気に倒れて、一度だけ見舞いに行った。僕も何も話すことはない。「元気になって、また一緒に仕事をしよう。」なんて、空々しいことは言えない。ブログとかは見ていてくれているだろうから、彼のことを書いた。中川が、「もう死んでしまったような、彼を惜しむ文章でしたね。」と言われた。潮美からは、今の月刊ダイバーに米田の事をかけ、と言われた。米田と一緒にバイカル湖に行っている。アラスカにも行っている。写真を探してみて、バイカル湖にも、アラスカにも米田の姿がない。あったはずなのだが、スキャンしていなくて、紛失してしまっているのだ。辛うじて一緒の写真があったニュース・ステーションのことを書いた。実は、米田はスガ・マリンメカニックの調査の中心で、ニュース・ステーションの撮影は中川が中心だったから、ニュース・ステーションではあまり活躍していない。それでも、米田のことは、みんなが好きだった。表にはでないでも、裏で、何時でも生命をかけてくれた。僕も命がけが好きだから、自分でやろうとする。米田に怒られるが。僕は自分で突撃した。ルックスも良かったから、女の子には持てたが、年老いたお母さん、お父さんと別れて暮らすことなどできなかった。お正月、お母さんの煮てくれるクロマメが天下一品だと自慢する。これはもうだめだ。
中川と同じ年、早すぎる死だが、写真を探すと、今はいない人の姿ばかり出てくる。
あの世など、これっぽっちも信じていないから、冥福を祈るなんて出来ない。お通夜でも葬儀でも涙を堪えることができるだけ。