スキンダイビング・セフティを書いている。スキンダイビング、フリーダイビングについて書いた本を参考書にしている。その参考書について、ブログに書いたならば、それはそれで、スキンダイビング、フリーダイビングのことをわかる手助けになるだろうと、書き始めた。参考書の事を書くのだから、材料が目の前にある。だから容易だろうと考えたらとんでもなかった。自分のこと、自分の考えを書くほうが容易だった。
特にこのピピン・フェレーラスは疲れた。要約のしようがないのだ。危険、また危険で、切り捨てようがない。途中でギブアップしようと思ったが、耐えて、その第一回。支離滅裂だが、整理している時間的余裕が無い。スキンダイビング・セフテイの原稿も書かなくてはいけない。締め切りが迫るのに、まだ全部の原稿を手にしていない。
ピピン・フェレーラス この人ともすれ違っている。ピピンとウンベルト・ペリッツアーリは、ちょうどマイヨールとマイオルカのように、深さの記録を抜きつ抜かれつした。錘に掴まって潜降し、水中で膨らませたバルーンで、矢のように水面に戻ってくる競技がアブソリュート、浮上は自分の力で、フィンキックとロープを手繰って上がってくる競技をヴァリアブルと呼ぶ。
アブソリュートでマイヨールが100mを越したのは1983年の105mだ。そして、1988年にマイオルカは101mを潜っている。
次に、アンジェラ・バンディーニが1989年に107mを潜り、同じ1989年にピピンが112mを潜っている。ウンベルト・ペリッツアーリが1991年に118mに潜ったが、ピピンに128mに潜って抜き返されたのが1995年、そして、再びウンベルト・ペリッツアーリが1996年に131mで抜いた。手元の資料最新ダイビング用語事典では、207年にオーストリアのハーバー・ニッチが214mに潜り、2012年には同じニッチが249mに潜ったが、脳動脈にガス栓塞を起こし、これ以上のチャレンジは無理、とほぼ人間の限界を極めている。
たしか1989年のことだった。僕のところに、キューバと行き来しているという日本人のおばさんが訪ねて来た。ピピンという若者が、素潜りですごい記録を作っている。取材しないか?ということだった。当時、ニュース・ステーションの潮美の番組をやっていたので、水中撮影については、日本を風靡していた、と思っていた。しかし、それはカメラマンとしてであって、番組製作者ではない。でも企画書は書くことはできる。キューバにも行きたい。ニュース・ステーションの潮美の番組のプロデューサーに相談した。良い返事が戻ってこない。おばさんは、潜る練習のテープを持って来て、自分のことが信用できないのならば、むこうの事情をよく知っている人を、よこすから聞いてみてくれという。テープは、コンスタントの練習だった。70mのロープをおろして、潜っている。
事情をよく知っているというおじさんに会った。ところが、彼はおばさんのことをギャランティしないのだ。サンプルの映像を見れば、カメラマンとして、撮りたいという魅力を感じる。しかし、ニュース・ステーションの潮美の番組は好調だったし、別の事をして、二兎を追うものになってもいけない。話を進めなかった。
それからしばらくして、セイコーのCMにピピンが登場して、同時にニュース・ステーションでも特集として、何回か放映する。カメラマンは僕ではない。「しまった」とは思ったが、僕は忙しく撮影の仕事があったし、一人の人間が同時に二箇所で仕事ができないとも悟っていたからそれまでの話だった。
ここから先はピピンの書いた「ダイブ」2005年 ソニーマガジンズ からの引用とそれにまつわる話だ。
ピピンは、1962年、キューバに生まれる。4歳から海に潜り始め、やがてスピアフィッシングの達人になり、ぶるーおr、機会をえてフリーダイビングの世界に入り、1987年にコンスタントで67mの世界記録を立てる。そのころに前述した売り込みが僕のところに来た。
ペリザリとは、当初良い友人関係で、一緒にトレーニングをしてりするが、競り合うようにして、記録を更新してゆく。
やがては、ウエイトを付けたスレッドでもぐり、リフトバックをふくらませて浮上するノーリミッツに嵌り込む。26歳で三つ年上のイタリア人のマネージメントの才能のある女性と結婚(二度目)をして、彼女の売り込みのお陰かテレビシリーズにでたり、170mの記録を作る。記録を作ったりテレビ・映画の撮影をしたり、コマーシャルにでたりで大きなお金がはいり、キューバで5軒の家をもち6台の車を乗り回すようになる。すべてフリーダイビングで稼いだものだった。
しかし、イタリア人女性と離婚し、
三度目の結婚をした。
1993年ペリッツアーリとの対決というタイトルで、ペリッツアーリはコンスタントで73mの記録で世界新記録、ピピンはノーリミッツで120mの記録を立てる。
しかし革命政府との折り合いが悪くなり、アメリカに亡命する。無一文になるが、まだまだ賞金稼ぎができた。水深70mで大きなハタを射止め映画などを作りある程度の成功を収める。
そして、カポ・サンルーカスで、カリフォルニアの大学で海洋生物学を研究している21歳の学生オードリーとであい、直ちに恋に落ちて一緒に暮らすようになる。
その頃、8ヶ月の間に二人のセフティダイバーを原因不明で失っている。
フリーダイビングのセフティダイバーというのも、危ない仕事だ。
そして、ダイビングに才能を示し始めたオードリーがセフティダイバーになる。
オードリーは、スタティックでも良い記録を作り、ノーリミッツでも80mの記録をつくる。
1997年、ピピンは二呼吸、ツーブレスのダイビングを考えるようになる。潜降の途中でセフティダイバーから空気をもらって、さらに深く潜ろうというものだ。
スレッドで潜降し75mの地点で空気を吸い、150mまで潜ってリフトバックで浮上した。ピピンはアプネアのAIDAと喧嘩別れをして国際フリーダイバー協会(IFDA)を作る。1998年には日本のセイコーがスポンサーになり、IFDAをブレイクさせるために、
タンデムのノーリミッツを企てる。オードリーと二人で、ノーリミッツで潜るのだ。そのタンデムで115mの記録に成功する。そして、155mのツーブレスに挑み、成功するが、減圧症になってしまう。
オードリーの献身的な看護で回復し1999年、二人は結婚する。
ピピンは次から次へと生命を賭けるチャレンジを続ける。アブソリュートで身体を立てて落ちてゆくスレッドも考えた。タンデムも考えだした。これは、映画とかテレビ受けのためのものとして成功した。ツーブレスも、もしかすると減圧症の原因になったのかもしれないが、やった。
そして、結婚、ここで終了すれば、ハッピーエンドになる。が、外で書いていて、PCのバッテリーが尽きた。ので、続く。
特にこのピピン・フェレーラスは疲れた。要約のしようがないのだ。危険、また危険で、切り捨てようがない。途中でギブアップしようと思ったが、耐えて、その第一回。支離滅裂だが、整理している時間的余裕が無い。スキンダイビング・セフテイの原稿も書かなくてはいけない。締め切りが迫るのに、まだ全部の原稿を手にしていない。
ピピン・フェレーラス この人ともすれ違っている。ピピンとウンベルト・ペリッツアーリは、ちょうどマイヨールとマイオルカのように、深さの記録を抜きつ抜かれつした。錘に掴まって潜降し、水中で膨らませたバルーンで、矢のように水面に戻ってくる競技がアブソリュート、浮上は自分の力で、フィンキックとロープを手繰って上がってくる競技をヴァリアブルと呼ぶ。
アブソリュートでマイヨールが100mを越したのは1983年の105mだ。そして、1988年にマイオルカは101mを潜っている。
次に、アンジェラ・バンディーニが1989年に107mを潜り、同じ1989年にピピンが112mを潜っている。ウンベルト・ペリッツアーリが1991年に118mに潜ったが、ピピンに128mに潜って抜き返されたのが1995年、そして、再びウンベルト・ペリッツアーリが1996年に131mで抜いた。手元の資料最新ダイビング用語事典では、207年にオーストリアのハーバー・ニッチが214mに潜り、2012年には同じニッチが249mに潜ったが、脳動脈にガス栓塞を起こし、これ以上のチャレンジは無理、とほぼ人間の限界を極めている。
たしか1989年のことだった。僕のところに、キューバと行き来しているという日本人のおばさんが訪ねて来た。ピピンという若者が、素潜りですごい記録を作っている。取材しないか?ということだった。当時、ニュース・ステーションの潮美の番組をやっていたので、水中撮影については、日本を風靡していた、と思っていた。しかし、それはカメラマンとしてであって、番組製作者ではない。でも企画書は書くことはできる。キューバにも行きたい。ニュース・ステーションの潮美の番組のプロデューサーに相談した。良い返事が戻ってこない。おばさんは、潜る練習のテープを持って来て、自分のことが信用できないのならば、むこうの事情をよく知っている人を、よこすから聞いてみてくれという。テープは、コンスタントの練習だった。70mのロープをおろして、潜っている。
事情をよく知っているというおじさんに会った。ところが、彼はおばさんのことをギャランティしないのだ。サンプルの映像を見れば、カメラマンとして、撮りたいという魅力を感じる。しかし、ニュース・ステーションの潮美の番組は好調だったし、別の事をして、二兎を追うものになってもいけない。話を進めなかった。
それからしばらくして、セイコーのCMにピピンが登場して、同時にニュース・ステーションでも特集として、何回か放映する。カメラマンは僕ではない。「しまった」とは思ったが、僕は忙しく撮影の仕事があったし、一人の人間が同時に二箇所で仕事ができないとも悟っていたからそれまでの話だった。
ここから先はピピンの書いた「ダイブ」2005年 ソニーマガジンズ からの引用とそれにまつわる話だ。
ピピンは、1962年、キューバに生まれる。4歳から海に潜り始め、やがてスピアフィッシングの達人になり、ぶるーおr、機会をえてフリーダイビングの世界に入り、1987年にコンスタントで67mの世界記録を立てる。そのころに前述した売り込みが僕のところに来た。
ペリザリとは、当初良い友人関係で、一緒にトレーニングをしてりするが、競り合うようにして、記録を更新してゆく。
やがては、ウエイトを付けたスレッドでもぐり、リフトバックをふくらませて浮上するノーリミッツに嵌り込む。26歳で三つ年上のイタリア人のマネージメントの才能のある女性と結婚(二度目)をして、彼女の売り込みのお陰かテレビシリーズにでたり、170mの記録を作る。記録を作ったりテレビ・映画の撮影をしたり、コマーシャルにでたりで大きなお金がはいり、キューバで5軒の家をもち6台の車を乗り回すようになる。すべてフリーダイビングで稼いだものだった。
しかし、イタリア人女性と離婚し、
三度目の結婚をした。
1993年ペリッツアーリとの対決というタイトルで、ペリッツアーリはコンスタントで73mの記録で世界新記録、ピピンはノーリミッツで120mの記録を立てる。
しかし革命政府との折り合いが悪くなり、アメリカに亡命する。無一文になるが、まだまだ賞金稼ぎができた。水深70mで大きなハタを射止め映画などを作りある程度の成功を収める。
そして、カポ・サンルーカスで、カリフォルニアの大学で海洋生物学を研究している21歳の学生オードリーとであい、直ちに恋に落ちて一緒に暮らすようになる。
その頃、8ヶ月の間に二人のセフティダイバーを原因不明で失っている。
フリーダイビングのセフティダイバーというのも、危ない仕事だ。
そして、ダイビングに才能を示し始めたオードリーがセフティダイバーになる。
オードリーは、スタティックでも良い記録を作り、ノーリミッツでも80mの記録をつくる。
1997年、ピピンは二呼吸、ツーブレスのダイビングを考えるようになる。潜降の途中でセフティダイバーから空気をもらって、さらに深く潜ろうというものだ。
スレッドで潜降し75mの地点で空気を吸い、150mまで潜ってリフトバックで浮上した。ピピンはアプネアのAIDAと喧嘩別れをして国際フリーダイバー協会(IFDA)を作る。1998年には日本のセイコーがスポンサーになり、IFDAをブレイクさせるために、
タンデムのノーリミッツを企てる。オードリーと二人で、ノーリミッツで潜るのだ。そのタンデムで115mの記録に成功する。そして、155mのツーブレスに挑み、成功するが、減圧症になってしまう。
オードリーの献身的な看護で回復し1999年、二人は結婚する。
ピピンは次から次へと生命を賭けるチャレンジを続ける。アブソリュートで身体を立てて落ちてゆくスレッドも考えた。タンデムも考えだした。これは、映画とかテレビ受けのためのものとして成功した。ツーブレスも、もしかすると減圧症の原因になったのかもしれないが、やった。
そして、結婚、ここで終了すれば、ハッピーエンドになる。が、外で書いていて、PCのバッテリーが尽きた。ので、続く。