ウンベルト・ペリッツアーリ、書きにくい。ぼくらはペリザリと呼んでいた。この本「アプネア」がでたのでウンベルト・ペリッツアーリになった。ついこの前だとおもっていたら、1996年20世紀のころだったのだ。
ウンベルト・ペリッツアーリは、マイヨールのフアンで、エルバ島のマイヨールの家を度々訪れている。
マイヨールの時代には、まだコンスタントという競技名はないみたいだ。サボーラと呼ぶブレーキ付きの錘につかまって潜る、このサボーラを使う方法はヴァリアブルと呼ばれる。1991年ペリザリはコンスタントで67m、1995年に72mの世界記録(当時)を出している。ヴァリアブルでは、1996年に110m、アブソリュート、これは、浮上するときに膨張させた浮袋に掴まって浮上してもいい。錘で潜り、浮きで浮いてくる。なんでもありの種目で131mの記録を出している。
だから、この本「アプネア」を出した時に、彼は三冠王になっている。
その頃、ペリザリは、慶良間の座間味を訪れている。
この本を訳した早川信久とは、名古屋の男で、1990年頃知り合いになった。岐阜の長良川をアアク・エイトの吉村と一緒に撮影している時に、わざわざ、宿に訪ねてきてくれたのだ。熱心に語り合い、一緒に撮影の仕事をしたいと誘ってくれた。相棒の吉村、‘(トラック島の沈船の撮影、木曽三川の撮影を手がけていた。僕の撮影会社がアアク・ファイブ、彼のために作った会社がアアク・エイトである。惜しいことに一昨年に亡くなってしまった。)、吉村に「どうしよう」と相談したのだが、吉村はあまり良い返事をしない。これで、三人組の話はうやむやになってしまったが、もしも手を組んでいたら、ウンベルトが座間味を訪れたテレビの撮影を一緒にやっていたかもしれない。そしてこの本も僕が関わっていたかもしれない。すべてイフの話だが、その後のアプネアとも僕は絡まっていたかも知れない。
なぜならば、この早川君とウンベルト・ペリッツアーリをつないだのが、マイヨールのイルカと海に還る日、作った関邦博さんで、関さんと僕は、いっしょに日本のCMASを立ち上げた仲だった。そして、今、月刊ダイバーに連載している続グラフィティで、来月6月にでるコルシカ島の珊瑚採りダイバーの話も、彼のつなぎだった。
その後の成り行きを見てみると、どうなったかわからないが、こうして僕は、ウンベルトにも接触せず、アプネアともかかわらなかった。
もしかしてこの「アプネア」という本も関さんが作った本かも知れない。この本の後半の潜水技術の部分、そして、マイヨールと同じようなヨーガ、プラマナヤ についての部分は関さんが書いている。スキンダイビング・セフティの共著者、岡本美鈴もプラマナヤをやる。たしかヨーガの指導員だったはずだ。
このへんの時系列が混乱している。この本の発行が1996年の10月で、ウンベルト・ペリッツアーリが三冠王になったのも1996年で、この本に記録が載っている。記録樹立と本の発行が同じ年だ。多分、1996年の夏に彼は記録を作ったのだろう。
そして、その1996年の7月22日(海の日)に早川は、横浜ランドマークタワーで第一回国際水中映像祭をプロモートして世界から水中の映像を集め、日本からもNHKを始めとしていくつかの作品が出展された。そしてその映像祭の審査員に僕は早川君に呼ばれて行き、椎名桜子と、変な外人のローリー・イネステーラ、三人の鼎談までやっている。そして、その審査員に、当時館山にいたジャック・マイヨールが名を連ねていて、館山、坂田の成田君は、会場のパシフィコで、マイヨールの名入りのトレーナーなどを販売する出店をしていた。なんだか混乱した話しをしている。潮美が編集だったら、直ちに書き直しになる。ブログの用に書いてはいけないと。しかし、これはこれで、面白いと僕は思っている。
椎名桜子さんは、作家で女優で翔んでいる人で、瞬間的ではあったが一世を風靡した。もしかしたら、覚えている人もいるかもしれない、その風靡している時に、この映像祭があり、この「アプネア」という本の発行人も椎名桜子になっている。その後、なにかで躓いて消えてしまったが、素敵な人だった。
こんがらかった糸のような年だったが、僕とウンベルト・ペリッツアーリは、顔を合わせていない。顔を合わせていないが、たしか、その1996年の大晦日、日本テレビの年越しの番組にウンベルト・ペリッツアーリと早川君が出演している。
元日のカウントダウンでフリーダイビングのコンスタントを、たしか鹿児島湾で行なって、日本新記録樹立を実況放送しようということだった。
水中撮影は日本テレビから受けて、中川が担当した。僕は行かないで、大晦日、テレビで見て録画していた。だからこの録画は今でも持っているが、水中からの実況を、藤城美奈子さんにやってもらった。上手な水中レポーターで美人、その後も親交があり、結婚して生まれた子供がもう中学生?月日は飛んでゆく。
その時の目標のコンスタント、男子 日本新記録は36m、これまでの記録、35mを破るということだった。選手は二人で、そのうちの一人にスポットライトを当てていて、彼のお母さんと妹さんが、東京のスタジオで見ていて、コメントする。テレビは、時間稼ぎのために、本当に馬鹿なことをする。
一人は36mに成功、もう一人も、このシチュエーションでは、絶対に成功しなければならない。こういう状況に追い込んでこの競技をやったらいけないというパターンだった。必死を狙うのではなくて、目標を設定したら、その時の全力を尽くして、まだ、あと1mは行けるなとおもうところで浮上する。
彼は36mのタグを取り、浮上する。そして、水面下50cmぐらいのところで停止して、背中を上にする。ウンベルト・ペリッツアーリが、水面でアシストしていた。直ちに顎を水面に持ち上げて、マスクを取る。ブラアックアウト レスキューの見本みたいなもので、無事だった。記録を達成したとテレビ的には盛り上げていたが、お母さん、妹の前で、死ななかったとしても、心マッサージで除夜の鐘を聞き、新年を迎えたら。どうだったのだろう。
このシーンのリプレイでは、ブラックアウト部分はカットされていたけれど、実況だから、全国に流れた。
その後、早川くんの国際水中映像祭は、トカラ列島で、次の年に行われたはずだが、僕に招待状はとどかなかった。
ネットで追跡したのだが、トカラの映像祭はでていない。
国際水中映像フェスティバルというイベントもあって、その日本事務局長をやっている江本豊久くんも友人だが、神戸ポートピア、そして2008年沖縄那覇で行われた。
国際ではない水中映像祭は、最近30回が行われ、成功している。
ウンベルト・ペリッツアーリは、マイヨールのフアンで、エルバ島のマイヨールの家を度々訪れている。
マイヨールの時代には、まだコンスタントという競技名はないみたいだ。サボーラと呼ぶブレーキ付きの錘につかまって潜る、このサボーラを使う方法はヴァリアブルと呼ばれる。1991年ペリザリはコンスタントで67m、1995年に72mの世界記録(当時)を出している。ヴァリアブルでは、1996年に110m、アブソリュート、これは、浮上するときに膨張させた浮袋に掴まって浮上してもいい。錘で潜り、浮きで浮いてくる。なんでもありの種目で131mの記録を出している。
だから、この本「アプネア」を出した時に、彼は三冠王になっている。
その頃、ペリザリは、慶良間の座間味を訪れている。
この本を訳した早川信久とは、名古屋の男で、1990年頃知り合いになった。岐阜の長良川をアアク・エイトの吉村と一緒に撮影している時に、わざわざ、宿に訪ねてきてくれたのだ。熱心に語り合い、一緒に撮影の仕事をしたいと誘ってくれた。相棒の吉村、‘(トラック島の沈船の撮影、木曽三川の撮影を手がけていた。僕の撮影会社がアアク・ファイブ、彼のために作った会社がアアク・エイトである。惜しいことに一昨年に亡くなってしまった。)、吉村に「どうしよう」と相談したのだが、吉村はあまり良い返事をしない。これで、三人組の話はうやむやになってしまったが、もしも手を組んでいたら、ウンベルトが座間味を訪れたテレビの撮影を一緒にやっていたかもしれない。そしてこの本も僕が関わっていたかもしれない。すべてイフの話だが、その後のアプネアとも僕は絡まっていたかも知れない。
なぜならば、この早川君とウンベルト・ペリッツアーリをつないだのが、マイヨールのイルカと海に還る日、作った関邦博さんで、関さんと僕は、いっしょに日本のCMASを立ち上げた仲だった。そして、今、月刊ダイバーに連載している続グラフィティで、来月6月にでるコルシカ島の珊瑚採りダイバーの話も、彼のつなぎだった。
その後の成り行きを見てみると、どうなったかわからないが、こうして僕は、ウンベルトにも接触せず、アプネアともかかわらなかった。
もしかしてこの「アプネア」という本も関さんが作った本かも知れない。この本の後半の潜水技術の部分、そして、マイヨールと同じようなヨーガ、プラマナヤ についての部分は関さんが書いている。スキンダイビング・セフティの共著者、岡本美鈴もプラマナヤをやる。たしかヨーガの指導員だったはずだ。
このへんの時系列が混乱している。この本の発行が1996年の10月で、ウンベルト・ペリッツアーリが三冠王になったのも1996年で、この本に記録が載っている。記録樹立と本の発行が同じ年だ。多分、1996年の夏に彼は記録を作ったのだろう。
そして、その1996年の7月22日(海の日)に早川は、横浜ランドマークタワーで第一回国際水中映像祭をプロモートして世界から水中の映像を集め、日本からもNHKを始めとしていくつかの作品が出展された。そしてその映像祭の審査員に僕は早川君に呼ばれて行き、椎名桜子と、変な外人のローリー・イネステーラ、三人の鼎談までやっている。そして、その審査員に、当時館山にいたジャック・マイヨールが名を連ねていて、館山、坂田の成田君は、会場のパシフィコで、マイヨールの名入りのトレーナーなどを販売する出店をしていた。なんだか混乱した話しをしている。潮美が編集だったら、直ちに書き直しになる。ブログの用に書いてはいけないと。しかし、これはこれで、面白いと僕は思っている。
椎名桜子さんは、作家で女優で翔んでいる人で、瞬間的ではあったが一世を風靡した。もしかしたら、覚えている人もいるかもしれない、その風靡している時に、この映像祭があり、この「アプネア」という本の発行人も椎名桜子になっている。その後、なにかで躓いて消えてしまったが、素敵な人だった。
こんがらかった糸のような年だったが、僕とウンベルト・ペリッツアーリは、顔を合わせていない。顔を合わせていないが、たしか、その1996年の大晦日、日本テレビの年越しの番組にウンベルト・ペリッツアーリと早川君が出演している。
元日のカウントダウンでフリーダイビングのコンスタントを、たしか鹿児島湾で行なって、日本新記録樹立を実況放送しようということだった。
水中撮影は日本テレビから受けて、中川が担当した。僕は行かないで、大晦日、テレビで見て録画していた。だからこの録画は今でも持っているが、水中からの実況を、藤城美奈子さんにやってもらった。上手な水中レポーターで美人、その後も親交があり、結婚して生まれた子供がもう中学生?月日は飛んでゆく。
その時の目標のコンスタント、男子 日本新記録は36m、これまでの記録、35mを破るということだった。選手は二人で、そのうちの一人にスポットライトを当てていて、彼のお母さんと妹さんが、東京のスタジオで見ていて、コメントする。テレビは、時間稼ぎのために、本当に馬鹿なことをする。
一人は36mに成功、もう一人も、このシチュエーションでは、絶対に成功しなければならない。こういう状況に追い込んでこの競技をやったらいけないというパターンだった。必死を狙うのではなくて、目標を設定したら、その時の全力を尽くして、まだ、あと1mは行けるなとおもうところで浮上する。
彼は36mのタグを取り、浮上する。そして、水面下50cmぐらいのところで停止して、背中を上にする。ウンベルト・ペリッツアーリが、水面でアシストしていた。直ちに顎を水面に持ち上げて、マスクを取る。ブラアックアウト レスキューの見本みたいなもので、無事だった。記録を達成したとテレビ的には盛り上げていたが、お母さん、妹の前で、死ななかったとしても、心マッサージで除夜の鐘を聞き、新年を迎えたら。どうだったのだろう。
このシーンのリプレイでは、ブラックアウト部分はカットされていたけれど、実況だから、全国に流れた。
その後、早川くんの国際水中映像祭は、トカラ列島で、次の年に行われたはずだが、僕に招待状はとどかなかった。
ネットで追跡したのだが、トカラの映像祭はでていない。
国際水中映像フェスティバルというイベントもあって、その日本事務局長をやっている江本豊久くんも友人だが、神戸ポートピア、そして2008年沖縄那覇で行われた。
国際ではない水中映像祭は、最近30回が行われ、成功している。