ニッポン潜水グラフィティ 番外編
絶対に載せたい、面白い、というエピソードでも、編集者の潮美にクールにカットされる。曰く、ブログ的である。写真が無い。スペースが限られているし、いつまで連載できるというものでもない。今度の号からは、僕の60歳、100m潜水がテーマになって、これが全部で4回続く、
そんなことで、積み残しがたくさんある。ブログだと際限無くかけるから、締りがなくなるが、細かいその時の気持ちもかける。脱線することもできる。
月刊ダイバーの連載をお読みいただいた方には、きっとこっちも読んでいただけるだろうし、こちらのブログを読んでいただけた人は、必ず、月刊ダイバーも買っていただけるだろうとお願いして、書く。
昭和61年 1986年 僕は51歳になり、潜水生活の第三コーナを回って疾走する。
2月に流氷の下からニュース・ステーションの水中レポートシリーズが始まった。このことは、月刊ダイバーに書いた。
そして、1986年11月 伊豆大島三原山が噴火した。陸上の噴火だから、水中撮影は考えられない。でも、何とかしなければいけない。噴火でウツボが怯えて、岩に巻き付いている。とか、適当な事を書いて、噴火の魚への影響を撮ろうと提案した。噴火関連の企画ならばなんでも通る。
その頃の伊豆大島でのダイビングは、元町の観光荘、東村仁平さんのところ(その後いまのパームビーチになる)がベースだった。11月21日、噴火は次第に鎮まりつつあり、これではロケにならないかと心配したが、観光荘に着くと、噴火の響きでガラス窓がビリビリ揺れた。これならば行けると喜ぶ。喜んで良いのか?
午後3時、波浮港を出港、美山丸、親切な船頭で良かった。沖は時化ていたので、筆島の陰あたりで潜った。魚も撮ったがいつもはたくさんいるウツボが見つけられない。本当に地響きに怯えて、岩の下に隠れているのだろうか。隠れて居て見つけられなければ絵にならない。
念の為に差木地あたりで潜ろうと船をまわした。4時を少し回った時、三原山から噴煙が高く上がった。黒い噴煙はみるみるうちに高くのぼり、まるで原子雲のようになった。夕日に映えてすごい。その時、僕はスチルカメラを持っていない。その当時と今と、カメラで写真を撮るという行為が全く違っている。今なら、みんな携帯を出して撮影するだろうし、僕もGoProをマスクマウントで付けている。この大島の時のことを考えると、本当にマスクマウントがあれば、大きいビデオカメラで撮影しながら、マスクのGoProで撮れる。どんなにすごい迫力で撮れただろう。自分の眼で見た。大きなビデオカメラのファインダーを覗いた画像は、今でも、頭のなかにくっきりと思い浮かべることができる。
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これは伊豆大島ではない。当時のカメラ
ビデオカメラも重いハウジングの中だから、空に向けて噴煙が撮れるものではない。しかし、「おっ!やった。」歓声をあげた。ここまで出てきて噴火が収まったのでは、視聴率がとれない。波が高くなってきたので、再び筆島の陰にもどった。
噴煙は西寄りの風に流されて、頭上から指の先ほどの小さい噴石がパラパラと降ってきた。これを水中で撮影しなければ、と飛び込んだ。もう夕方も遅くなり、周囲は暗くなり、ライトを点けて、夜間撮影の構えだ。噴石は雨のよぅに水面に落ち、軽いのでゆっくりと水に沈んでゆく。潮美が水に入ってきた。先ほどに比べて噴石はやや大きくなっている。地鳴りのような音が体に響いてくる。その頃、船の上では、ケーブルを送り出している大沼くんの頭に拳大の噴石があたり、30秒ほどうずくまってしまった。大沼くんは大島の人で、今でも、秋の浜に行くとそこにいる。秋の浜の仙人とも呼ばれる人だが、その頃はまだ、仙人ではない。その後、バケツを頭に被ったが、バケツに当たる石の音がけたたましくて耳が痛くなるほどだったそうだ。
潮美がハコフグを見つけた。シタビラメが水底を這い、噴石の隙間に体を入れて砂にもぐりこんだ。アナゴが砂地から頭を出して、噴石がコツンとあたった。浮上して、水面に頭を出すと、径10cmほどの噴石が水面に落ちて割れた。空高く吹き上げられたあと、風に吹かれて、こっちに向かってきた噴石なので、軽いが頭を直撃すれば、危ない。岸を見ると、山火事が起こっている。「潮美は危ないから頭を出すな、須賀さんは半水面で、山火事を撮ってください。」と小早川監督が、言ってくる。まさか、こんなことになろうとは思っていないので、陸上撮影のクルーは来ていない。カメラは水中の一台だけだ。それも、今ならば何台もカメラがあるはずだ。
なんとか潮美を船の上に押し上げて、中川にカメラをタッチする。船の舳先からロープを下ろして、カメラに縛り付けて、引き上げ、水面からの山火事を撮る。今度は中川と二人で、水中で右往左往するマアジの群れをとった。噴石はどんどん落ちている。すごいカットが撮れていると嬉しい。ずいぶん長い時間、海底に居たと思う。船の上に上がって驚いた。船の上は一面の噴石で、船のガラス窓が割れている。
錨を上げて、走り始めると、噴石はまるで降ってこない。風の関係で、僕達が潜っていた場所にだけ噴石が落ちてきたのだ。「幸運だった」とその時は思った。
意気揚々と、波浮の港に戻ってきた。観光荘に電話を入れても誰も出ない。電話を借りた店(その頃にはまだ携帯はない)のおばさんに聞けば、もう、元町、岡田には溶岩流が流れ込んでいて、元町方面に行く道は遮断されているという。こんな時のただひとつの情報源、テレビを見ると、外輪山の外側の噴火の模様が映し出されて、大島全島に避難命令が出ている。小早川さんは、局に電話を入れて、放送記者に早変わりしている。
美山丸は、これから、三崎港に避難するという。水中機材を載せてもらって、中川が一緒に行く。僕達全員も一緒にと誘われたが、僕たちはハウジングから出したカメラで、陸上を撮影しながら、避難する。もう、テープもバッテリーも残り少ない。伊豆大島のこの地域にあるテレビ朝日のカメラはこれ一台だろう。気分は高揚した。すっかり報道の陸上カメラマンになったつもりだ。
山の上の勤労福祉会館が避難場所だ。車での避難は止められている。しかし、車がなければどうにも動けない。車を使うことにした。波浮港と元町の両方から避難船がでるという。消防団は、元町は溶岩流が流れ込んでいて火事だから、波浮港に行けとすすめる。当然、元町に行くことにした。溶岩流が撮れる。
元町は火事になどなっていない。元町港から東海汽船の避難船にのる。皆、着の身着のままで何も持っていない。すぐに戻れるつもりだ。しかし、避難は長く続いた。
朝の竹芝桟橋に到着する。報道のカメラが砲列を敷いている。そして、テレビ朝日の局に戻る。僕達のテープは、ニュースの番組で流したいと取り合いのようだったが、小早川さんは、ニュース・ステーションの番組でだけ使うと渡さなかった。
潮美がスタジオに出演して、オンエアーされた。VTRは6分30秒、素晴らしい出来でしたと小早川監督から連絡が入った。
絶対に載せたい、面白い、というエピソードでも、編集者の潮美にクールにカットされる。曰く、ブログ的である。写真が無い。スペースが限られているし、いつまで連載できるというものでもない。今度の号からは、僕の60歳、100m潜水がテーマになって、これが全部で4回続く、
そんなことで、積み残しがたくさんある。ブログだと際限無くかけるから、締りがなくなるが、細かいその時の気持ちもかける。脱線することもできる。
月刊ダイバーの連載をお読みいただいた方には、きっとこっちも読んでいただけるだろうし、こちらのブログを読んでいただけた人は、必ず、月刊ダイバーも買っていただけるだろうとお願いして、書く。
昭和61年 1986年 僕は51歳になり、潜水生活の第三コーナを回って疾走する。
2月に流氷の下からニュース・ステーションの水中レポートシリーズが始まった。このことは、月刊ダイバーに書いた。
そして、1986年11月 伊豆大島三原山が噴火した。陸上の噴火だから、水中撮影は考えられない。でも、何とかしなければいけない。噴火でウツボが怯えて、岩に巻き付いている。とか、適当な事を書いて、噴火の魚への影響を撮ろうと提案した。噴火関連の企画ならばなんでも通る。
その頃の伊豆大島でのダイビングは、元町の観光荘、東村仁平さんのところ(その後いまのパームビーチになる)がベースだった。11月21日、噴火は次第に鎮まりつつあり、これではロケにならないかと心配したが、観光荘に着くと、噴火の響きでガラス窓がビリビリ揺れた。これならば行けると喜ぶ。喜んで良いのか?
午後3時、波浮港を出港、美山丸、親切な船頭で良かった。沖は時化ていたので、筆島の陰あたりで潜った。魚も撮ったがいつもはたくさんいるウツボが見つけられない。本当に地響きに怯えて、岩の下に隠れているのだろうか。隠れて居て見つけられなければ絵にならない。
念の為に差木地あたりで潜ろうと船をまわした。4時を少し回った時、三原山から噴煙が高く上がった。黒い噴煙はみるみるうちに高くのぼり、まるで原子雲のようになった。夕日に映えてすごい。その時、僕はスチルカメラを持っていない。その当時と今と、カメラで写真を撮るという行為が全く違っている。今なら、みんな携帯を出して撮影するだろうし、僕もGoProをマスクマウントで付けている。この大島の時のことを考えると、本当にマスクマウントがあれば、大きいビデオカメラで撮影しながら、マスクのGoProで撮れる。どんなにすごい迫力で撮れただろう。自分の眼で見た。大きなビデオカメラのファインダーを覗いた画像は、今でも、頭のなかにくっきりと思い浮かべることができる。
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これは伊豆大島ではない。当時のカメラ
ビデオカメラも重いハウジングの中だから、空に向けて噴煙が撮れるものではない。しかし、「おっ!やった。」歓声をあげた。ここまで出てきて噴火が収まったのでは、視聴率がとれない。波が高くなってきたので、再び筆島の陰にもどった。
噴煙は西寄りの風に流されて、頭上から指の先ほどの小さい噴石がパラパラと降ってきた。これを水中で撮影しなければ、と飛び込んだ。もう夕方も遅くなり、周囲は暗くなり、ライトを点けて、夜間撮影の構えだ。噴石は雨のよぅに水面に落ち、軽いのでゆっくりと水に沈んでゆく。潮美が水に入ってきた。先ほどに比べて噴石はやや大きくなっている。地鳴りのような音が体に響いてくる。その頃、船の上では、ケーブルを送り出している大沼くんの頭に拳大の噴石があたり、30秒ほどうずくまってしまった。大沼くんは大島の人で、今でも、秋の浜に行くとそこにいる。秋の浜の仙人とも呼ばれる人だが、その頃はまだ、仙人ではない。その後、バケツを頭に被ったが、バケツに当たる石の音がけたたましくて耳が痛くなるほどだったそうだ。
潮美がハコフグを見つけた。シタビラメが水底を這い、噴石の隙間に体を入れて砂にもぐりこんだ。アナゴが砂地から頭を出して、噴石がコツンとあたった。浮上して、水面に頭を出すと、径10cmほどの噴石が水面に落ちて割れた。空高く吹き上げられたあと、風に吹かれて、こっちに向かってきた噴石なので、軽いが頭を直撃すれば、危ない。岸を見ると、山火事が起こっている。「潮美は危ないから頭を出すな、須賀さんは半水面で、山火事を撮ってください。」と小早川監督が、言ってくる。まさか、こんなことになろうとは思っていないので、陸上撮影のクルーは来ていない。カメラは水中の一台だけだ。それも、今ならば何台もカメラがあるはずだ。
なんとか潮美を船の上に押し上げて、中川にカメラをタッチする。船の舳先からロープを下ろして、カメラに縛り付けて、引き上げ、水面からの山火事を撮る。今度は中川と二人で、水中で右往左往するマアジの群れをとった。噴石はどんどん落ちている。すごいカットが撮れていると嬉しい。ずいぶん長い時間、海底に居たと思う。船の上に上がって驚いた。船の上は一面の噴石で、船のガラス窓が割れている。
錨を上げて、走り始めると、噴石はまるで降ってこない。風の関係で、僕達が潜っていた場所にだけ噴石が落ちてきたのだ。「幸運だった」とその時は思った。
意気揚々と、波浮の港に戻ってきた。観光荘に電話を入れても誰も出ない。電話を借りた店(その頃にはまだ携帯はない)のおばさんに聞けば、もう、元町、岡田には溶岩流が流れ込んでいて、元町方面に行く道は遮断されているという。こんな時のただひとつの情報源、テレビを見ると、外輪山の外側の噴火の模様が映し出されて、大島全島に避難命令が出ている。小早川さんは、局に電話を入れて、放送記者に早変わりしている。
美山丸は、これから、三崎港に避難するという。水中機材を載せてもらって、中川が一緒に行く。僕達全員も一緒にと誘われたが、僕たちはハウジングから出したカメラで、陸上を撮影しながら、避難する。もう、テープもバッテリーも残り少ない。伊豆大島のこの地域にあるテレビ朝日のカメラはこれ一台だろう。気分は高揚した。すっかり報道の陸上カメラマンになったつもりだ。
山の上の勤労福祉会館が避難場所だ。車での避難は止められている。しかし、車がなければどうにも動けない。車を使うことにした。波浮港と元町の両方から避難船がでるという。消防団は、元町は溶岩流が流れ込んでいて火事だから、波浮港に行けとすすめる。当然、元町に行くことにした。溶岩流が撮れる。
元町は火事になどなっていない。元町港から東海汽船の避難船にのる。皆、着の身着のままで何も持っていない。すぐに戻れるつもりだ。しかし、避難は長く続いた。
朝の竹芝桟橋に到着する。報道のカメラが砲列を敷いている。そして、テレビ朝日の局に戻る。僕達のテープは、ニュースの番組で流したいと取り合いのようだったが、小早川さんは、ニュース・ステーションの番組でだけ使うと渡さなかった。
潮美がスタジオに出演して、オンエアーされた。VTRは6分30秒、素晴らしい出来でしたと小早川監督から連絡が入った。