このブログをアップすると、それは、フェイスブックとツイッターに反映するようにしている。フェイスブックの方では、これを読んで、コメントしてくれる方がいる。それはとても参考になる。ダイビングとは、「命の大切さと生きていることを実感できる そんなイメージです」そんなコメントをいただいた。とても良い答えだと思う。ではなぜ、命の大切さと生きていることを実感できるのだろうか?ここからの答えは人によって大きな違いがあるかもしれない。僕の答えは、もちろん、冒険スポーツだからだ。となる。
水中では、実に簡単に、「嘘だろう?」と思う感じで人が死んでしまう。そういう事故に3回出会っている。だからこそ、命が大事だという結論に到達するのだが、別の視点からみれば、本当に命が大事だったら、ダイビングなんてするべきではないとおもうのが論理的かもしれない。人はダイビングなどしなくても豊かに生きてゆかれる。
また、最先端の科学も、冒険するのでない限り、いまや有人、人間が水にはいること、ではなくて、無人で水中を探索しようとする。ジャムステックもとうに有人は視界から消している。
それでもなお、有人潜水をするのは、障害があれば、乗り越えようとして、乗り越えた時の、喜びがあり、生きていることを実感できるからだ。だから、冒険スポーツなのであり、(※スポーツについては後でのべる。)そこでは各人自己責任で命を大事にしなければならない。
ダイビングでは、いつも死神が隣にいるよう、思わなければいけないのだ。常に最悪の事態を予想しろというのがダイビングの鉄則の一つだ。最悪の事態がそこにある可能性があるならば、やめるのが一番安全だ。それでも行くダイバーは、もちろん死んではいけないのだが、僕の場合は自分の死の可能性をいつも、思いつめていた。だから、若いころ、僕は44歳で死ぬと思って、家族にもそうつたえていた。そのことを、娘の潮美は、朝日新聞の「おやじの背中」にかいている。「40で死ぬと言っていたのに、60まで生きて、さらにその先まで潜水するといっている。」生き抜いたのは、生存本能の方が強く、そして、運がよかった。こんな考え方をするダイバーは少数だけれど、かなりの人数がいる。
そんなダイバー気質を最もよく描いているのは、「木曜島の夜会:司馬遼太郎」だ。だから、誰彼となく、この本を薦めている。薄い文庫本のしかもその2分の1を占めている中編だから、ぜひ読んでほしい。面倒だから引用しないが、木曜島の白蝶貝を採るダイバーの10%は、死ぬか半身不随になる。木曜島の墓地には、日本人ダイバーの墓が林立した。親方はそんなダイバーを使って、大きな利益をあげる。それでも親方になれるのにならないでダイバーを続ける理由は、親方なんてつまらないものだからだという。当時のダイバーたちは、冒険的なスポーツマンであったと思う。
少し話が横道に進んでしまったが、生と死のすきまに身を置くから、生きていることの素晴らしさを実感でき、自然の中で自分を取り戻す活力を得られるのだ。と僕は思う。
話を元に戻して、グラフィティのころ、1980年ころまで、冒険は危険を敢えておかすものであり、探検は冷静に冒険を避けて、目的を達成する行動だと思っていた。そして世間一般の考えも、探検は良いけれど、冒険はいけないということだった。しかし、命を賭けることが冒険ではない。では、探検と冒険の違いは?およそ2年ぐらい、一生懸命考えた。ニッポン潜水グラフィティを書いている間ずっとと言ってもいい。
探検とは、「知的情熱の肉体的表現だ」という、英国のスコット南極探検隊のノンフィクションを書いたチェリー・ガラードの言葉が好きだ。古来、この言葉に魅せられて探検を志した若者は多い。だから、僕もダイビングを冒険ではなく、探検にしようと思った。
PADIも同じように考えたらしく、「ダイビングは水中探検です」と何かに書いてあった。
しかし、探検と冒険のちがいは?「「冒険」と「探検」の違いは、探検とは、帰ってくるかどうかです」と言った人がいた。で、冒険は危険、探検は安全?そんなことはない。探検とは目的意識が強いから、返って危険とも言える。先ほどあげた、英国のスコット探検隊は、全員が死んだ。命がけの探検は枚挙の暇もない。では、探検と冒険との違い、線引は?
また、ウイキでみると、「使われている漢字から意味を考えると『冒険』は危険を冒すと書き『探検』は探り、しらべると書く。冒険は危険な事にチャレンジし克服する事を目的とするが、探検の場合、未知なることを探りしらべる事が目的であり、その過程で危険を伴うことが多いため両者は混同されやすいが『けん』の字が異なるように本来別の意味である。」
冒険とは必ずしも危険なことにチャレンジしていることだけではないと、すでにのべた。危険を想定するけれども、危険を冒すことではない。昔は、僕も冒険とは危険を冒すことだとおもっていた。にも関わらず生きたのは、運が良かったことと、経験の積み重ねで、感が働いて。危険を避けられたからだ。だから、冒険とは、危険を前にして、危険を避けることで、「危険を冒すこと」という定義は、認められないが、「探検の場合、未知なることを探り調べる事が目的であり、その過程で危険を伴うことが多い」と言うのは半ば同意する。しかし、未知なるものが何を指すのか、もう地球上には、地理学的に未知なるものはそれほど残っていない。水中の殆ども、未知なる部分はあまり残ってはいない。未知なるものでなくても、調べる価値のあること、ほんの小さい未知、疑問でも、探査する必要のあるものを探り調べることは探検といえる。
僕の定義では、探検とは、探査、何かを調べること、そして調べたことを記録し、その記録に基づいて、世の中に公表、発表することとした。記録して発表しなければ、それは冒険であり、探検とはいえない。
こうするとほとんどすべての自然界の調査は、探検のカテゴリーに入れることができる。僕は自分の仕事、お金を稼ぐ仕事として、調査を行ったが、すべて探検のつもりだった。テレビ番組の撮影も、調べ、記録して、公表するのだから、探検とみなすことができる。
まとめると、あえて決意して、未知の領域に踏み込むこと、困難に立ち向かうことを冒険という。その冒険の目標が、調査、探査であり、その状況を記録して公表するものを探検という。
ダイビングで言えば、体験ダイビングは、それが初めての体験であれば、その人の生涯で最大級の冒険である。だからこそ、多くのダイバーは、最初に潜った時のことを生涯忘れない。
水中では、実に簡単に、「嘘だろう?」と思う感じで人が死んでしまう。そういう事故に3回出会っている。だからこそ、命が大事だという結論に到達するのだが、別の視点からみれば、本当に命が大事だったら、ダイビングなんてするべきではないとおもうのが論理的かもしれない。人はダイビングなどしなくても豊かに生きてゆかれる。
また、最先端の科学も、冒険するのでない限り、いまや有人、人間が水にはいること、ではなくて、無人で水中を探索しようとする。ジャムステックもとうに有人は視界から消している。
それでもなお、有人潜水をするのは、障害があれば、乗り越えようとして、乗り越えた時の、喜びがあり、生きていることを実感できるからだ。だから、冒険スポーツなのであり、(※スポーツについては後でのべる。)そこでは各人自己責任で命を大事にしなければならない。
ダイビングでは、いつも死神が隣にいるよう、思わなければいけないのだ。常に最悪の事態を予想しろというのがダイビングの鉄則の一つだ。最悪の事態がそこにある可能性があるならば、やめるのが一番安全だ。それでも行くダイバーは、もちろん死んではいけないのだが、僕の場合は自分の死の可能性をいつも、思いつめていた。だから、若いころ、僕は44歳で死ぬと思って、家族にもそうつたえていた。そのことを、娘の潮美は、朝日新聞の「おやじの背中」にかいている。「40で死ぬと言っていたのに、60まで生きて、さらにその先まで潜水するといっている。」生き抜いたのは、生存本能の方が強く、そして、運がよかった。こんな考え方をするダイバーは少数だけれど、かなりの人数がいる。
そんなダイバー気質を最もよく描いているのは、「木曜島の夜会:司馬遼太郎」だ。だから、誰彼となく、この本を薦めている。薄い文庫本のしかもその2分の1を占めている中編だから、ぜひ読んでほしい。面倒だから引用しないが、木曜島の白蝶貝を採るダイバーの10%は、死ぬか半身不随になる。木曜島の墓地には、日本人ダイバーの墓が林立した。親方はそんなダイバーを使って、大きな利益をあげる。それでも親方になれるのにならないでダイバーを続ける理由は、親方なんてつまらないものだからだという。当時のダイバーたちは、冒険的なスポーツマンであったと思う。
少し話が横道に進んでしまったが、生と死のすきまに身を置くから、生きていることの素晴らしさを実感でき、自然の中で自分を取り戻す活力を得られるのだ。と僕は思う。
話を元に戻して、グラフィティのころ、1980年ころまで、冒険は危険を敢えておかすものであり、探検は冷静に冒険を避けて、目的を達成する行動だと思っていた。そして世間一般の考えも、探検は良いけれど、冒険はいけないということだった。しかし、命を賭けることが冒険ではない。では、探検と冒険の違いは?およそ2年ぐらい、一生懸命考えた。ニッポン潜水グラフィティを書いている間ずっとと言ってもいい。
探検とは、「知的情熱の肉体的表現だ」という、英国のスコット南極探検隊のノンフィクションを書いたチェリー・ガラードの言葉が好きだ。古来、この言葉に魅せられて探検を志した若者は多い。だから、僕もダイビングを冒険ではなく、探検にしようと思った。
PADIも同じように考えたらしく、「ダイビングは水中探検です」と何かに書いてあった。
しかし、探検と冒険のちがいは?「「冒険」と「探検」の違いは、探検とは、帰ってくるかどうかです」と言った人がいた。で、冒険は危険、探検は安全?そんなことはない。探検とは目的意識が強いから、返って危険とも言える。先ほどあげた、英国のスコット探検隊は、全員が死んだ。命がけの探検は枚挙の暇もない。では、探検と冒険との違い、線引は?
また、ウイキでみると、「使われている漢字から意味を考えると『冒険』は危険を冒すと書き『探検』は探り、しらべると書く。冒険は危険な事にチャレンジし克服する事を目的とするが、探検の場合、未知なることを探りしらべる事が目的であり、その過程で危険を伴うことが多いため両者は混同されやすいが『けん』の字が異なるように本来別の意味である。」
冒険とは必ずしも危険なことにチャレンジしていることだけではないと、すでにのべた。危険を想定するけれども、危険を冒すことではない。昔は、僕も冒険とは危険を冒すことだとおもっていた。にも関わらず生きたのは、運が良かったことと、経験の積み重ねで、感が働いて。危険を避けられたからだ。だから、冒険とは、危険を前にして、危険を避けることで、「危険を冒すこと」という定義は、認められないが、「探検の場合、未知なることを探り調べる事が目的であり、その過程で危険を伴うことが多い」と言うのは半ば同意する。しかし、未知なるものが何を指すのか、もう地球上には、地理学的に未知なるものはそれほど残っていない。水中の殆ども、未知なる部分はあまり残ってはいない。未知なるものでなくても、調べる価値のあること、ほんの小さい未知、疑問でも、探査する必要のあるものを探り調べることは探検といえる。
僕の定義では、探検とは、探査、何かを調べること、そして調べたことを記録し、その記録に基づいて、世の中に公表、発表することとした。記録して発表しなければ、それは冒険であり、探検とはいえない。
こうするとほとんどすべての自然界の調査は、探検のカテゴリーに入れることができる。僕は自分の仕事、お金を稼ぐ仕事として、調査を行ったが、すべて探検のつもりだった。テレビ番組の撮影も、調べ、記録して、公表するのだから、探検とみなすことができる。
まとめると、あえて決意して、未知の領域に踏み込むこと、困難に立ち向かうことを冒険という。その冒険の目標が、調査、探査であり、その状況を記録して公表するものを探検という。
ダイビングで言えば、体験ダイビングは、それが初めての体験であれば、その人の生涯で最大級の冒険である。だからこそ、多くのダイバーは、最初に潜った時のことを生涯忘れない。