ダイビングってなんだ。ダイビングでする活動って?長らく考え続けてきた。そのことを年のはじめに書こうと思う。偉そうだけど、80歳になり、60年もダイビングを続けてきたのだから、まとめてもいいだろう。
長らく考えたということは、長らくの途中での変化があり、変化の幅が大きい。
グラフィティの時代、20歳代は、何も考えずただただひたすらに潜りたかった。一番幸せな時期。ダイビングを仕事として選んだのだが、仕事の幅が大きい。
人間が直接に水の中に入ってすることはすべてダイビングである。水の中の仕事は、陸上での仕事と同じだけのバリエーションがある。60年やっても、そのすべてを体験したとはいえないけれど、たいていのことはやった。
悪い癖で、長くなるので、結論を先に言ってしまおう。ダイビングは冒険的スポーツで、さらに、一般社会でスポーツとみなされない労働、作業もダイビングで行うと冒険スポーツになってしまう。港湾作業も、調査研究も、すべて冒険スポーツになってしまう。少なくとも自分の場合には冒険スポーツのように潜水の仕事をやってきた。スポーツとしてしまうと、一面商業的成功から自分を遠ざけることにもなったと思うけれど、後悔はしていない。そのために続けられたし、現在生きている。
ダイビングは冒険的スポーツだから、冒険とは?スポーツとは?も考え続けてきた。
冒険とはなにか、スポーツとはなにか定義しなければならない。これも、グラフィティの時代、60~の時代、そして今と大きく違っている。
ここでは今について書くのだが、あくまで、僕個人の定義である。
定義とは、自分で考えた、現在の時点でのまとめである。そしてこれは、あくまで個人の考えだ、普遍的な定義は、辞書を見れば出ているが、辞書でもひとつの言葉に対して、いくつもの答えが載っている。そして、辞書の定義は、参考でしかなく自分のものではなくい。
そして、自分の結論は、体験、あるいは読書などで、コロコロ変わって行く。
定義は十人十色だろう。どれが正しいかを論じることは、大きな意味があり、その議論が、ダイビングで一番のテーマである安全にもつながってゆく、何も考えないほうが、本能と動物的感覚に従った方がいいかも知れないが、体験的に言えば、20代は幸運の女神が後ろにいた。30代になって本気で考えるようになったが、それでも考えが徹底せず、言葉が足りなかったために、自分が不在の場所だったが、事故を起こしてしまった。人の考えと行動は一致しないのが当然、当たり前だが、考えと行動の不一致が事故につながる。
冒険とは?Wikipediaで調べると、「冒険(ぼうけん)とは、日常とかけ離れた状況の中で、なんらかの目的のために危険に満ちた体験の中に身を置くことである。あるいはその体験の中で、稀有な出来事に遭遇することもいう。こうした冒険の体験者は多くの場合その体験報告を書いたりするが、荒唐無稽と一笑に付されることもあれば、またその内容に驚嘆されることもある。」
こうした冒険に敢えて挑戦する人のことを冒険者(ぼうけんしゃ)と呼ぶ。冒険には危険や、成果を上げられる確率の低さがつきもので、この意味でいつの時代にも未知なものへの挑戦、探検もすべて冒険と呼ばれてきた。新しい海路の開拓、山岳、アフリカの奥地、知られざる文明や文化の探索、自動車や航空機の速さへの挑戦など、すべて広い意味での冒険である。
語義は「険(けわし)きを冒(おか)す」。あぶないところにあえて(勝手に、ひそかに)入っていく意。英語adventureは投機、山師の意を含む。ラテン語ad+vent(外から来る、外からやって来た(~事件))。
冒険者として名高い植村直己さんは、冒険とは生きて帰ることが前提、つまり生きて帰れないこともある危険がある行為である。
僕も若いころは、冒険=危険と考えていた。僕自身も結果として危険になってしまった活動を冒険と考え、良い子の皆さんが真似をしてはいけないと、「冒険はしてはいけない」等と言っていた。
今は、「冒険とは、困難が待ち受けているのに、あえて一歩を踏み出すことで、それが出来る人を冒険者である。」そして、何か困難があったり、辛いことがあると、「冒険なんだ」と呪文のように唱え、切り抜ける勇気を持とうとする。
週刊朝日の新年号をみたら、「2015 冒険者たち小泉進次郎、佳子様、大谷翔平、錦織圭、田中勝大、葛西紀明」と合ったので、買った。誰も、命を賭けてなどいない。でもそれぞれが挑戦者であり、そのことを冒険者とも呼んでいる。
ダイビングと危険を論じて。著書を何冊もだしている中田誠さんは、ダイビングとは、致死性の高い商業スポーツだと書いている。現状としては、そうなのかもしれないが、僕は、冒険的スポーツという言葉をとる。中田さんも、致死性の高い商業スポーツであってはいけないという意味で、書いているのだろうから、方向としては、ちがいはないかもしれない。とにかく、あえて危険を冒しに行く植村式冒険とダイビングを冒険的スポーツと定義する冒険とはちがう。いうまでもなく、植村式冒険が悪いとかいけないとか言うわけではない。そういう冒険もある。友人である角幡唯介は、そうゆう冒険家として、売り出し中である。
先に述べたように、定義とは十人十色である。冒険についても、同様で、絶対的に正しい定義などはない。僕は、ここでは、「ダイビングとは冒険的スポーツだ」というところからスタートする。
長らく考えたということは、長らくの途中での変化があり、変化の幅が大きい。
グラフィティの時代、20歳代は、何も考えずただただひたすらに潜りたかった。一番幸せな時期。ダイビングを仕事として選んだのだが、仕事の幅が大きい。
人間が直接に水の中に入ってすることはすべてダイビングである。水の中の仕事は、陸上での仕事と同じだけのバリエーションがある。60年やっても、そのすべてを体験したとはいえないけれど、たいていのことはやった。
悪い癖で、長くなるので、結論を先に言ってしまおう。ダイビングは冒険的スポーツで、さらに、一般社会でスポーツとみなされない労働、作業もダイビングで行うと冒険スポーツになってしまう。港湾作業も、調査研究も、すべて冒険スポーツになってしまう。少なくとも自分の場合には冒険スポーツのように潜水の仕事をやってきた。スポーツとしてしまうと、一面商業的成功から自分を遠ざけることにもなったと思うけれど、後悔はしていない。そのために続けられたし、現在生きている。
ダイビングは冒険的スポーツだから、冒険とは?スポーツとは?も考え続けてきた。
冒険とはなにか、スポーツとはなにか定義しなければならない。これも、グラフィティの時代、60~の時代、そして今と大きく違っている。
ここでは今について書くのだが、あくまで、僕個人の定義である。
定義とは、自分で考えた、現在の時点でのまとめである。そしてこれは、あくまで個人の考えだ、普遍的な定義は、辞書を見れば出ているが、辞書でもひとつの言葉に対して、いくつもの答えが載っている。そして、辞書の定義は、参考でしかなく自分のものではなくい。
そして、自分の結論は、体験、あるいは読書などで、コロコロ変わって行く。
定義は十人十色だろう。どれが正しいかを論じることは、大きな意味があり、その議論が、ダイビングで一番のテーマである安全にもつながってゆく、何も考えないほうが、本能と動物的感覚に従った方がいいかも知れないが、体験的に言えば、20代は幸運の女神が後ろにいた。30代になって本気で考えるようになったが、それでも考えが徹底せず、言葉が足りなかったために、自分が不在の場所だったが、事故を起こしてしまった。人の考えと行動は一致しないのが当然、当たり前だが、考えと行動の不一致が事故につながる。
冒険とは?Wikipediaで調べると、「冒険(ぼうけん)とは、日常とかけ離れた状況の中で、なんらかの目的のために危険に満ちた体験の中に身を置くことである。あるいはその体験の中で、稀有な出来事に遭遇することもいう。こうした冒険の体験者は多くの場合その体験報告を書いたりするが、荒唐無稽と一笑に付されることもあれば、またその内容に驚嘆されることもある。」
こうした冒険に敢えて挑戦する人のことを冒険者(ぼうけんしゃ)と呼ぶ。冒険には危険や、成果を上げられる確率の低さがつきもので、この意味でいつの時代にも未知なものへの挑戦、探検もすべて冒険と呼ばれてきた。新しい海路の開拓、山岳、アフリカの奥地、知られざる文明や文化の探索、自動車や航空機の速さへの挑戦など、すべて広い意味での冒険である。
語義は「険(けわし)きを冒(おか)す」。あぶないところにあえて(勝手に、ひそかに)入っていく意。英語adventureは投機、山師の意を含む。ラテン語ad+vent(外から来る、外からやって来た(~事件))。
冒険者として名高い植村直己さんは、冒険とは生きて帰ることが前提、つまり生きて帰れないこともある危険がある行為である。
僕も若いころは、冒険=危険と考えていた。僕自身も結果として危険になってしまった活動を冒険と考え、良い子の皆さんが真似をしてはいけないと、「冒険はしてはいけない」等と言っていた。
今は、「冒険とは、困難が待ち受けているのに、あえて一歩を踏み出すことで、それが出来る人を冒険者である。」そして、何か困難があったり、辛いことがあると、「冒険なんだ」と呪文のように唱え、切り抜ける勇気を持とうとする。
週刊朝日の新年号をみたら、「2015 冒険者たち小泉進次郎、佳子様、大谷翔平、錦織圭、田中勝大、葛西紀明」と合ったので、買った。誰も、命を賭けてなどいない。でもそれぞれが挑戦者であり、そのことを冒険者とも呼んでいる。
ダイビングと危険を論じて。著書を何冊もだしている中田誠さんは、ダイビングとは、致死性の高い商業スポーツだと書いている。現状としては、そうなのかもしれないが、僕は、冒険的スポーツという言葉をとる。中田さんも、致死性の高い商業スポーツであってはいけないという意味で、書いているのだろうから、方向としては、ちがいはないかもしれない。とにかく、あえて危険を冒しに行く植村式冒険とダイビングを冒険的スポーツと定義する冒険とはちがう。いうまでもなく、植村式冒険が悪いとかいけないとか言うわけではない。そういう冒険もある。友人である角幡唯介は、そうゆう冒険家として、売り出し中である。
先に述べたように、定義とは十人十色である。冒険についても、同様で、絶対的に正しい定義などはない。僕は、ここでは、「ダイビングとは冒険的スポーツだ」というところからスタートする。