Quantcast
Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1388

1212 学生連盟(2)

$
0
0
12月7日のシンポジウム、その始まりの
テーマ1 ダイビング運用の安全管理と危機管理 10時~
1. 学連のこれまでの歴史と現状の問題点について、:須賀次郎
20分の話をする予定だった。50年の話が20分で終わるわけもない。結果として40分はなしてしまった。それでも重要なことを何も話していない。実は話せなかったのだ。危機管理とは事故が起こったあと、それからの事なのだ。とても、しゃべれなかった。事故のことただその部分だけ話せば、安全潜水のはなしになってしまう。そうではないのだけれど、とても微妙であり、はなせない。
ともあれ、20分が40分でも語りつくせなかったことを、どこかに書いておかなくてはならない。どこかに、って、ここしかないではないか。
すべての物事は、過去があって、その因果関係のうちに現在がある。そして、現在につながる未来がある。いきなり、問題点はここだと指摘しても理解できるわけもない。
最初にさかのぼって書こう。しかし書けば、ニッポン潜水グラフィティ一冊の半分ぐらいになってしまう。出来れば、ニッポン潜水グラフィティを読んでいていただけると、重複する部分を述べないで済む。
 ここでは、ニッポン潜水グラフィティを読んでくれている皆様と勝手に想定して、この本では殆ど書いていない学生連盟の事を、できるだけ手短に書いて、次に2000年代のSAIのこと、それから現在の事を書こう。


 関東学生連盟ができたのは、
1968年、僕たち、僕と後藤道夫、浅見国治(水産大間を募って、日本で初めての潜水指導団体、すなわち、潜水のライセンスを出す団体を作ったのが1967年だった。このあたりの事情については先ごろ出版した「ニッポン潜水グラフィティ」に書いたが、その日本潜水会の仲間として、法政大学、法政アクアクラブ創立者の一人である加藤芳正君が、学生会員として参加していた。
その翌年の1968年に関東学生潜水連盟が誕生するのだが、その初代委員長になる法政の銭元君は、その年度に行われていた日本潜水会の一級検定に参加していた。その一級検定の項目が後に問題になる立ち泳ぎであった。
そして、その1968年、僕は母校、そして、僕が創立した潜水部の監督のようにふるまっていた。監督・コーチという役割名称は、今2014年に至っても海洋大学(水産大学の後身)にもないから、当時にはもちろんない。要するに先輩の一番上で,ある僕が監督のようにふるまっていた。
 昔も、そして今も、僕はダイビングとは、ただ水中散歩をするだけではなく、何かを成し遂げなければならないと主張している。

ただひとり商社マンになった津川くん

 裸でいるのが和久井君


 その時、僕が取り上げたのは、水中グライダー(水中橇)である。舟で曳航して、翼を下げ舵にして潜航する。
 その13代は、水中グライダー効果もあったのか?
高橋実(その後僕といっしょにスガ・マリンメカニックをつくり、現在は独立して海洋リサーチ社長、潜水団体スリーアイの会長だ。)
吉川忠(やはりスガ・マリンメカニックに入ったが、後に鬼怒川パシフィックにトレード、その後ウエットスーツメーカーに移動したが、現在の仕事は不明、残念ながらダイビング界からは去ってしまった。)
後藤一朗(潜水作業会社「潜海」を設立し、人入れ稼業で儲けて、現在はスポーツカーを乗り回しながら絵を描いている。)
大掛君(海洋科学技術センター、今のJAMSTECに入り、海底居住のアクアノートとして、嘱望されていたが、酒によって二輪車に乗り、激突して死亡)
奥川君(大掛とバディでアクアノートになり、後に水中撮影会社を興し、僕のライバル強敵となったが、若くして病死)
和久井君(二代目の学連の委員長を務め、後に芙蓉海洋開発に入社して定年まで勤めた)津川君、(ただ一人だけ潜水関係に職を求めず、三井物産?とかの巨大商社の歯車になったが、多分偉くなっただろうが不明)
僕がコーチを本気になってやったのは、この代が中心で、ほぼ全員がダイビングに関連した仕事に就いた。ダイビングでご飯を食べられた、ということだ。
 しかし、監督とかコーチとか自称しても、所詮は、ボランティアで、公認されたものではないし、学校から任命されたものでもない。自分が、東亜潜水機から独立して、スガ・マリンメカニックを作り、その13代の高橋君と一緒にダイビングの仕事を始めたために、忙しく、監督・コーチを続けることはできなかった。
今も昔も、監督とかコーチは自分が生きて行く所以である仕事が忙しくなれば続けられない。

その1968年に、関東学生潜水連盟が結成される。
東京水産大学(現海洋大学)のクラブ発足が1957年で、一番古い歴史を持っている。これは、別にして、法政と独教が64年、日本大学が65年、学習院、芝浦工大、早稲田水中クラブが67年、そして68年には中央、立正のクラブが発足し、その68年に法政、独協、中央、東京水産、東京商船が加わって関東学生潜水連盟が発足した。1964-1968年が大学潜水部の設立ラッシュだったといえる。
 その、1964年から1969年は大学紛争の年である。
 大学紛争とは、?ウィキで調べると。
• 68年から69年にかけて、全国の大学を中心とする学園紛争が燃え盛りました。紛争は、60年代の半ばから始まり(64年の慶応大学、65年の早稲田大学、66年の中央大学の各学費値上げ反対闘争など)、ピーク時には、全国の大学の約8割に当たる165校がストライキを含む紛争状態に入り、その4割以上の70校でバリケード封鎖が行われました。
    JICLより
 学連は大学紛争のさなか、その副産物として生まれたと言えなくもない。大学は休講が続き、時間があった。そして、学生のムード、流れは、大人(教授などを含む)への反抗だった。
 反抗から学連が生まれたとは言えないが、社会人から、先輩の制約を受けることなく、独立して、学生だけの固有の活動をしてゆこうという伝統が出来上がったともいえる。

日本潜水会で教えた銭元君が初代の委員長、次の二代目が、僕がコーチしていた水産大学の和久井君だから、学生連盟の結成、発足については、何らかの相談を受けてもおかしくない。しかし、相談も受けないし、知らされもしなかった。僕に秘密で結成された。僕たちの日本潜水会の影響を受けることが嫌で、相談なしで作ったのだろうと勘ぐった。聞いてみないことにはわからないが、その通りだろうと思う。しかし、その基となっている動機は、僕個人に対しての反抗などと、僕が不遜にも思い上がってのとは違って、当時すでに萌芽を出していた、商業スポーツとしてのダイビングとは、軌道を等しくせず、学生は学生のスポーツーとしてのダイビングを確立して行こうという、志があったのだろうと、ずっと後に僕は法政アクアダイビングクラブ30周年記念に発行された、「法政アクアの曙」を読んだ時に気づいた。


ここでも、この後、この小冊子からの引用が多くなると思う。当事者たちが、発行している冊子は公文書でもあり、その引用でなければ、述べられないことがある。この小冊子は、編集委員長が、今、娘の亭主である柴田充君、そして、編集委員に今はもの書きの端くれをしている潮美がいて、それで一緒になったと勘ぐったりしている。
とにかく、この冊子は日本の学生のダイビングを語る時、必ず目を通さなければならない資料だと思っている。今現役の学生たちにも見せたいけれど、もう、手に入らないのだろう。
僕は、そんなことを見越して、今度のシンポジウムの報告書も、また前の報告書もたくさん印刷して、部屋の邪魔になっているが、今や、名編集者である柴田君の作った「法政アクアの曙」に遠く及ばない。また脱線がはなはだしくなった。ので、次に続くとして仕切りなおす。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1388

Trending Articles