11月24日、祝日の月曜日、全日本水中スポーツ室内選手権大会、たしか21回目になる。1968年に日本潜水会が目黒の日大プールで始めたのがルーツで、全日本潜水連盟でやっていたのだが、全日本潜水連盟が衰退し、とても全国から選手をあつめることなどできなくなり、僕が社会スポーツセンターの常務理事だったので、移管して盛大におこなうことができるようになった。それからもう20年経つのだ。僕が事実上のプロデューサーだったから、それまで、選手としては一度も泳いだことがなかった。それが何で泳ぐ気持ちになったかというと、社会スポーツセンターがスポーツダイビングに導入しようとした、社会体育指導者という制度が、生涯スポーツを振興させるための指導者であり、一時は文科省もずいぶん生涯スポーツに力を入れていた。高齢化時代になり、ほとんどの老人が生きていて、車いすに乗ったりアルツでさまよったりしたら、日本は地獄になる。死ぬまでスポーツをやって、ぽっくり死んでくれるのがいい。これが生涯スポーツの基本理念だと僕は思っている。老若男女だれでも楽しめるスポーツなんていうと体裁がいいけれど、老が楽しむのは容易なことではない。しかし、僕はその講師になったから自分がちょうど高齢を迎えたから率先しなければならない。
短距離のダッシュは心臓に負担が大きそうだから、長い距離、400mを泳いだ。率先というのは周りに誰もいない荒野をめざすのだから、レベルが低い。とにかく、僕は400mフリッパー男子60歳以上の部で4連覇した。2連覇のあとは50台の選手たちと一緒に泳いで、3着ぐらいで、60代の一位になった。金メダルも4個連続してとった。しかし、66歳の時だったか、60代の、少し年下だったが、ある人に抜かれて、メダルを逃し、引退した。泳ぎ続ければよかったと、今は反省している。
浦安海豚倶楽部の練習
辰巳でも練習を重ねた。
かつての栄光
それから、14年経った今、なぜ泳ぐ気持ちになったかというと、やはり、80歳という節目を前にして、泳いでみようと思った。生涯スポーツである。あれほど国が力を入れていたのだが、本格的に高齢化社会がやってくるというのに、今は生涯スポーツという声を聞くことがほとんどなくなった、今は、2020年の東京オリンピック一色である。
しかし、全日本水中スポーツ室内選手権大会は、高齢者も楽しく泳ぐということを売り物にしようと僕は思っている。最近、フィンスイミングがやたら流行ってきている。それはいいことなのだが、これは競技スポーツであり生涯スポーツではない。ここまで来たのだから、生涯スポーツの旗を押し立てよう。小中学生、高校生(海洋高校)大学生、そしてあとは30代、40代、50代、60代のエイジグループごとの順位がある。自分が80になってくると、70代、80代もほしい。79歳で泳いでみようかと思った。幸い、全日本潜水連盟の名誉会長である玉置さん、長らく僕が事務局長、玉置先生が理事長の時に、全日本潜水連盟の水中スポーツ大会が全盛期だったのだが、その玉置さんも84歳で泳ぐという。僕はよせば良いのに相棒の石川君にも泳げとさそい。12歳、一回り年下の彼よりも早く泳いで勝つと言い出した。目標を設定しないと、本気になれないと思ったのだ。出る種目は50mとした。ターンするのが面倒であること、片道だけなら、もしも僕が途中リタイアしても、レースは続行できるから迷惑は掛からないとおもったものだった。
春先から6月ごろまで僕は調子が良かった。いや、調子が良いと思った。浦安のプールの22メートルでは、60代の女の子と競って、負けない。男と競っても、何とか勝てた。辰巳のプールで泳ぐ姿を見た、皆も、僕は速い。もしかしたら石川さんも危ないという。もしかしたら、その時に競争すれば、対等で、タッチの差で僕が勝てたかもしれない。しかし、そのことが、負けたら何といわれるかわからないという恐怖心で石川さんが本気で練習するようになった。これは、僕の作戦負けだったかもしれない。僕の速さを見せずに、遅い姿を見せておけばよかったかもしれないと、思ったこともある。
昔、60代のころは練習すればタイムが伸びた。いま、79歳練習してもタイムは伸び居ない。今のフォーム、今の、ロングフィのバラクーダではその頃が最高だったのかもしれない。20mを18秒、25mを20秒で泳げた。ロングフィンでピッチを上げられれば、40秒を切れるだろう。40秒を切れれば、石川さんとは、タッチの差の勝負になるだろう。秋になり、50mの長水路のサブプールを借りて泳いでみた。当たり前のことなのだろうが25mと50mとは違う、50mの40mあたりで失速してしまうのだ。そして、これは練習しても失速は防げない。考えてみれば人間の体とはうまくできているもので、心肺機能、循環器機能の衰えと筋肉の衰えはシンクロしている。だから、心臓まひにならない。無理して限界を越えれば、危ないと思うようになった。
そして、このレースはウエットスーツを着なければいけないルールになっている。ウエットスーツを着たら、5秒くらい遅くなる。最後の10月30日の50mプールでの練習では48秒くらいだった。石川さんは40秒ぐらいで泳ぐから、これはもう勝負にならなくなった。
僕は高血圧で、薬でコントロールしている。主治医は順天堂大学病院の河合先生だ。河合先生のおかげで、僕はスポーツを楽しみながら生きていることができる。他の先生だったら、絶対にドクターストップだろう。実は60歳の100m潜水の時から他の先生に素ストップを言い渡されている。それは、冠状動脈カテーテル検査でクリアーしたが、今は自己責任でコントロールするほかない。二か月検診で、河合先生は僕がレースに出ることはわかっている。当然、やめるように言う。安全運転するから泳がせてくださいとお願いした。石川さんとの競争は禁止された。競争になると僕は何をするかわからないと思われたのだろう。
この時点で、僕はレースに出ることをやめようかとも思った。しかし、負けるとわかってからやめるのは卑怯だ。正々堂々と負けてやらなければいけない。
僕がこのレースに出る副産物として、とてもよいことがあった。僕が指導している浦安海豚倶楽部の何人かが、僕が出るならば出ようと言い出してくれた。真玉橋さんは400mに出てくれる。自信がない。最後の100mを一人だけで、最下位を泳ぐのはいやだというが、今現在、何分で泳げるか確認できればそれでいいので、出なさいと尻をおした。あと、100m男子60歳以上の小松さん、女子50mに玉場③と、鶴町さんが出て、4名のチームが作れた。そして、応援団も結成された。僕は自分のリミットを確認するために、50秒を目標にするという幕を作るようにお願いした。50秒ならば危なくない。
僕が大会の実行委員長であり、去年は挨拶が無かったのに、今年は挨拶がある。開会式で安全に今日一日を楽しみましょうといって、AEDのお世話になるのではシャレにならない。
召集を受けて待機する席の前、横の人と話をする。前の席にはスクーバワールドの、騎士君、青木君、旅行会社的ダイビングショップだけど、この大会に随分熱心に選手団をおくってくれている。横に座っている横田さんも、前に僕が選手で出ていた、頃のことを覚えてくれている。彼は、50mのすごい記録をもっている。20年間連続敵なし、70歳代で、30秒の記録をもっているのだと、今年も優勝確実だ。ベストダイバー賞に来年、強く推薦しておくというと、喜んでくれた。
スタートの席について、一人ずつ立って挨拶する。二階席に浦安海豚倶楽部の応援団が来ているはず。横断幕もあるかと見上げるが、目がかすんでいる。耳も遠いから、応援の声も届かない。
スタートして、心臓に負担を掛けないように、しかし、みっともなくないようにと泳ぐ。タイムは48秒だった。ほぼ計算通り、残念ながら、年齢には勝てず、石川さんと対等の勝負にならなかった。
ブログを書こうとして、全日本スポーツダイビング室内選手権大会のランキング表をチェックした。ランキング表がすぐにネットにアップされる。前は、1000円で買わなければならなかった。ランキング表で、僕のタイムは女子も入れて、最下位、48秒だった。 80歳の女子竹内孝子さん(ベストダイバー賞)は、43秒だった。自分で泳いでみて、いろいろなことがわかる。
最下位を泳ぐ日
自分が最下位を泳ぐ日。50mレースで41秒で泳いだ玉田規子さんよりも、20mの競争では僕の方が速いのに、僕は50mになると、48秒、ゴール手前の40mで失速する。心肺機能、循環器の問題だとわかっている。
明日からは、現在のエンジン、循環器で失速せずに、40秒を切ることができるかのチャレンジを開始しよう。フィンはバラクーダが速い。だから玉田規子に20mでは勝てる。しかし心臓への負担は大きい。昔使っていて最速だったミューのM,、もしくはスーパーミューに変えて見ようか。タバタのKAILの方が速かったら、これは、事件だ。鬼怒川とタバタに相談しよう。来年の大会で結果をだす。もちろん、エンジン、循環器に無理をさせれば、AEDだから、公平だ。もしかしたら、それでも、やはりバラクーダの方が速いかもしれない。明日からのチャレンジ目標だ。
ベストダイバー賞の玉置先生と、竹内さん43秒だった。
玉置さん、84歳 全日本潜水連盟名誉会長で、かつて、玉置さんが理事長、僕が事務局長の時代に、この大会が始まって、全日本潜水連盟の最盛期をすごした。その玉置さんが、僕と競争しようという事だったのだが、やはり、ドクターのアドバイスで、50mは危ない。100mの特別レースにするということになった。その表を見ると、玉置さん以外の全メンバーが、僕の浦安海豚倶楽部と水中科学協会だった。僕は自分の50mに出て、精いっぱいで、このレースに出ず、文科省の瀧田先生と話し込んでいて、はっと気がついたら、このレース終わっていた。
浦安海豚倶楽部は、小松さんが男子100mの60歳以上の部で、銅メダル、真玉橋さんも何とか完泳して、400m60歳以上、3人泳いで三位になり銅メダルになった。
僕は残念な結果だったが、浦安海豚倶楽部は、選手団、応援団、大きな成果で12月2日の忘年会はこのレースの話で盛り上がるだろう。
短距離のダッシュは心臓に負担が大きそうだから、長い距離、400mを泳いだ。率先というのは周りに誰もいない荒野をめざすのだから、レベルが低い。とにかく、僕は400mフリッパー男子60歳以上の部で4連覇した。2連覇のあとは50台の選手たちと一緒に泳いで、3着ぐらいで、60代の一位になった。金メダルも4個連続してとった。しかし、66歳の時だったか、60代の、少し年下だったが、ある人に抜かれて、メダルを逃し、引退した。泳ぎ続ければよかったと、今は反省している。
浦安海豚倶楽部の練習
辰巳でも練習を重ねた。
かつての栄光
それから、14年経った今、なぜ泳ぐ気持ちになったかというと、やはり、80歳という節目を前にして、泳いでみようと思った。生涯スポーツである。あれほど国が力を入れていたのだが、本格的に高齢化社会がやってくるというのに、今は生涯スポーツという声を聞くことがほとんどなくなった、今は、2020年の東京オリンピック一色である。
しかし、全日本水中スポーツ室内選手権大会は、高齢者も楽しく泳ぐということを売り物にしようと僕は思っている。最近、フィンスイミングがやたら流行ってきている。それはいいことなのだが、これは競技スポーツであり生涯スポーツではない。ここまで来たのだから、生涯スポーツの旗を押し立てよう。小中学生、高校生(海洋高校)大学生、そしてあとは30代、40代、50代、60代のエイジグループごとの順位がある。自分が80になってくると、70代、80代もほしい。79歳で泳いでみようかと思った。幸い、全日本潜水連盟の名誉会長である玉置さん、長らく僕が事務局長、玉置先生が理事長の時に、全日本潜水連盟の水中スポーツ大会が全盛期だったのだが、その玉置さんも84歳で泳ぐという。僕はよせば良いのに相棒の石川君にも泳げとさそい。12歳、一回り年下の彼よりも早く泳いで勝つと言い出した。目標を設定しないと、本気になれないと思ったのだ。出る種目は50mとした。ターンするのが面倒であること、片道だけなら、もしも僕が途中リタイアしても、レースは続行できるから迷惑は掛からないとおもったものだった。
春先から6月ごろまで僕は調子が良かった。いや、調子が良いと思った。浦安のプールの22メートルでは、60代の女の子と競って、負けない。男と競っても、何とか勝てた。辰巳のプールで泳ぐ姿を見た、皆も、僕は速い。もしかしたら石川さんも危ないという。もしかしたら、その時に競争すれば、対等で、タッチの差で僕が勝てたかもしれない。しかし、そのことが、負けたら何といわれるかわからないという恐怖心で石川さんが本気で練習するようになった。これは、僕の作戦負けだったかもしれない。僕の速さを見せずに、遅い姿を見せておけばよかったかもしれないと、思ったこともある。
昔、60代のころは練習すればタイムが伸びた。いま、79歳練習してもタイムは伸び居ない。今のフォーム、今の、ロングフィのバラクーダではその頃が最高だったのかもしれない。20mを18秒、25mを20秒で泳げた。ロングフィンでピッチを上げられれば、40秒を切れるだろう。40秒を切れれば、石川さんとは、タッチの差の勝負になるだろう。秋になり、50mの長水路のサブプールを借りて泳いでみた。当たり前のことなのだろうが25mと50mとは違う、50mの40mあたりで失速してしまうのだ。そして、これは練習しても失速は防げない。考えてみれば人間の体とはうまくできているもので、心肺機能、循環器機能の衰えと筋肉の衰えはシンクロしている。だから、心臓まひにならない。無理して限界を越えれば、危ないと思うようになった。
そして、このレースはウエットスーツを着なければいけないルールになっている。ウエットスーツを着たら、5秒くらい遅くなる。最後の10月30日の50mプールでの練習では48秒くらいだった。石川さんは40秒ぐらいで泳ぐから、これはもう勝負にならなくなった。
僕は高血圧で、薬でコントロールしている。主治医は順天堂大学病院の河合先生だ。河合先生のおかげで、僕はスポーツを楽しみながら生きていることができる。他の先生だったら、絶対にドクターストップだろう。実は60歳の100m潜水の時から他の先生に素ストップを言い渡されている。それは、冠状動脈カテーテル検査でクリアーしたが、今は自己責任でコントロールするほかない。二か月検診で、河合先生は僕がレースに出ることはわかっている。当然、やめるように言う。安全運転するから泳がせてくださいとお願いした。石川さんとの競争は禁止された。競争になると僕は何をするかわからないと思われたのだろう。
この時点で、僕はレースに出ることをやめようかとも思った。しかし、負けるとわかってからやめるのは卑怯だ。正々堂々と負けてやらなければいけない。
僕がこのレースに出る副産物として、とてもよいことがあった。僕が指導している浦安海豚倶楽部の何人かが、僕が出るならば出ようと言い出してくれた。真玉橋さんは400mに出てくれる。自信がない。最後の100mを一人だけで、最下位を泳ぐのはいやだというが、今現在、何分で泳げるか確認できればそれでいいので、出なさいと尻をおした。あと、100m男子60歳以上の小松さん、女子50mに玉場③と、鶴町さんが出て、4名のチームが作れた。そして、応援団も結成された。僕は自分のリミットを確認するために、50秒を目標にするという幕を作るようにお願いした。50秒ならば危なくない。
僕が大会の実行委員長であり、去年は挨拶が無かったのに、今年は挨拶がある。開会式で安全に今日一日を楽しみましょうといって、AEDのお世話になるのではシャレにならない。
召集を受けて待機する席の前、横の人と話をする。前の席にはスクーバワールドの、騎士君、青木君、旅行会社的ダイビングショップだけど、この大会に随分熱心に選手団をおくってくれている。横に座っている横田さんも、前に僕が選手で出ていた、頃のことを覚えてくれている。彼は、50mのすごい記録をもっている。20年間連続敵なし、70歳代で、30秒の記録をもっているのだと、今年も優勝確実だ。ベストダイバー賞に来年、強く推薦しておくというと、喜んでくれた。
スタートの席について、一人ずつ立って挨拶する。二階席に浦安海豚倶楽部の応援団が来ているはず。横断幕もあるかと見上げるが、目がかすんでいる。耳も遠いから、応援の声も届かない。
スタートして、心臓に負担を掛けないように、しかし、みっともなくないようにと泳ぐ。タイムは48秒だった。ほぼ計算通り、残念ながら、年齢には勝てず、石川さんと対等の勝負にならなかった。
ブログを書こうとして、全日本スポーツダイビング室内選手権大会のランキング表をチェックした。ランキング表がすぐにネットにアップされる。前は、1000円で買わなければならなかった。ランキング表で、僕のタイムは女子も入れて、最下位、48秒だった。 80歳の女子竹内孝子さん(ベストダイバー賞)は、43秒だった。自分で泳いでみて、いろいろなことがわかる。
最下位を泳ぐ日
自分が最下位を泳ぐ日。50mレースで41秒で泳いだ玉田規子さんよりも、20mの競争では僕の方が速いのに、僕は50mになると、48秒、ゴール手前の40mで失速する。心肺機能、循環器の問題だとわかっている。
明日からは、現在のエンジン、循環器で失速せずに、40秒を切ることができるかのチャレンジを開始しよう。フィンはバラクーダが速い。だから玉田規子に20mでは勝てる。しかし心臓への負担は大きい。昔使っていて最速だったミューのM,、もしくはスーパーミューに変えて見ようか。タバタのKAILの方が速かったら、これは、事件だ。鬼怒川とタバタに相談しよう。来年の大会で結果をだす。もちろん、エンジン、循環器に無理をさせれば、AEDだから、公平だ。もしかしたら、それでも、やはりバラクーダの方が速いかもしれない。明日からのチャレンジ目標だ。
ベストダイバー賞の玉置先生と、竹内さん43秒だった。
玉置さん、84歳 全日本潜水連盟名誉会長で、かつて、玉置さんが理事長、僕が事務局長の時代に、この大会が始まって、全日本潜水連盟の最盛期をすごした。その玉置さんが、僕と競争しようという事だったのだが、やはり、ドクターのアドバイスで、50mは危ない。100mの特別レースにするということになった。その表を見ると、玉置さん以外の全メンバーが、僕の浦安海豚倶楽部と水中科学協会だった。僕は自分の50mに出て、精いっぱいで、このレースに出ず、文科省の瀧田先生と話し込んでいて、はっと気がついたら、このレース終わっていた。
浦安海豚倶楽部は、小松さんが男子100mの60歳以上の部で、銅メダル、真玉橋さんも何とか完泳して、400m60歳以上、3人泳いで三位になり銅メダルになった。
僕は残念な結果だったが、浦安海豚倶楽部は、選手団、応援団、大きな成果で12月2日の忘年会はこのレースの話で盛り上がるだろう。