中学生のころから日記は不定期によくかいていた。ほとんどの場合は三日坊主、一か月くらい続き、やめてしまって、どこかに紛失する。大学1年のころも、日記帳一冊分ぐらい書いたが、これも紛失。日記というものは書くことも大事だが、紛失しないようにすることも大事だと思う。なぜか、1982年から1986年、47歳から51歳までの日記が残っている。振り返ると、書き方が良かったのだと思う。小さい、薄い、手帳型の原稿用紙型のノートで、ある程度まとまると、ファイルにできる。ここスタイルに飽きたころワープロに替えて、これも、どこかに紛失した。残っているのが1982-86である。
バインダーのナンバーと主なタイトル、タイトルは最近見直して、付けたものだが、次のとおりだ。
NO1 1982年 潮美が大学に入った。
NO2 1983年 潮美をつれて小笠原に行く
NO3 1983年 キリバス、セブ、グアム
NO4 1983年 ガラパゴスに行く
NO5 1984年 アラスカ
NO6 1984年 ケラマ テレビフォーラム 水中レポート開始
NO7 1985年 知床 神の子泉
NO8 1986年 流氷 ニュース・ステーションの始まり
NO9 1986年 天草 バイカル
NO10 1986 十和田湖 伊豆大島噴火 与那国
自分の生涯の黄金の時、時期であった。
先般出版したニッポン潜水グラフィティは、およそ1980年までであり、現在再び月刊ダイバーに連載させてもらっている続ニッポン潜水グラフィティはその第一回と第二回が、水曜スペシャルの話を書き、そして、今回1月号が1984年の水中レポート開始であり、次回を1986年のニュース・ステーションの始まりを書こうとしている。そして、あと1回、伊豆大島大噴火を書いて、ニュース・ステーションは終了、後、時代をとばして、60歳の100m潜水を書き、これが2回、最後に現在のことを結びで書こうとおもっている。最後はグラフィティではなくなってしまうからちょっとだけにして終わろう。
この日記を参照したら月刊ダイバーのグラフィティが書きやすくなるだろうとおもったら、違っていた。確かに、何年に起きたできごとだったのだろうという、時系列の参照にはなる。しかし、書く前にこの日記を見てしまうと、書けなくなってしまう。面白いところを引用しようとしても、水と油でまじりあわない。
グラフィティは、すべて、時というフィルターを通して、現時点から見ている物語なのだとわかった。あまり日記に左右されないで、グラフィティのストーリーを運んだ方が良い。
この日記からの引用は、これまで、このブログに2回だけ登場させている。その時は連続して引用を書きつづけたいと予告したのだけれど、途切れてしまっている。もう一度仕切りなおして、この日記から、随時、引用して、ブログにする。以前に書いたものとダブルけれど、前のものを探してみる人も少ないだろうから、それに、同じストーリーが二回出てきていけないということもない。
そして、これはまた、雑誌のグラフィティとは全く別のものだから、雑誌の方も是非読んでいただきたい。
前々号の月刊ダイバーに川口探検隊のことを書いて、日本冒険クラブの写真を乗せたが、川口さんとやった日本冒険クラブは1986年、ニュース・ステーションの知床、流氷ロケに出かけるすぐ前のことだったのだ。日記を見直してわかった。今書いている2月号の月刊ダイバーは、いよいよ、ニュース・ステーションに潮美が登場する話だ。だから、これはニュース・ステーションに出発する直前の日記だ。字の間違っているところ以外は当時のまま、1986年に書いたままでここに移す。
後列、左から立原モグラ男爵、須賀、川口隊長、しゃがんでいるのが宮内淳、前列は三宅さん?
1月27日
立原さん(洞窟探検家の変なおじさんだ)が主催する「日本冒険クラブ」発足の集まりを、週刊っ宝石のグラビア取材で行う。それに行く約束をしていた。まだ、風邪が治らないというよりも、風邪の最中で、朝の7時に出るのはとてもつらかったのだが、約束は約束だし、川口さんも来るのだからとがんばって起きた。冒険クラブの山本さんに車に乗せて行ってもらえるので、体が休められる。
宝石の取材は「冒険のグルメ」で、伊豆シャボテン公園の山中を流れる小さい清流の河原で野外料理をしているところを撮影する。
私は、「スズキの蒸し焼き」を作ることになっていて、出刃で鱗を取っているところを撮影された、。いうまでもなく、私がそんな料理を作れるわけもなく、宝石のスタッフが考え、材料も彼らが用意したものだ。TVでやっているスターの料理番組も同じようなものなのだろう。本格的なやらせだ。やらせの中心人物のようにみられている我らが誠実な川口隊長だけは、自分で肉を用意してきて串に刺してバーベキューを焼いた。川口さんは元来やらせの人ではないのだ。
宮内淳君は、トナカイのバーベキューだ。これももちろん誰かがよういしたものだ。登山家の入沢さんはチャパティ、立原さんはアユの竹筒入り酒、カメラマンの三宅さんはオジヤ、山本君はキジの料理、その他子豚の丸焼き、アユの泥蒸し、サラダ、カレーなどだった。
昨日ひどい下痢だったのだから、おかしなものは食べれれないと思いつつ、おじやを食べ、最も期待していた川口隊長の肉をたべ、意外にもおいしかったカレーをチャパテイに浸けて食べ、、結構な量を口に入れてしまった。
国民宿舎に泊まって冒険クラブの第一回の集まりを開いた。山本さんという人はセールスマネジャーで、日経広告社を通じて、ダイエーに冒険の企画を売り込んでいる。その主人公が「モグラ男爵」こと立原さんだ。彼の25年にわたる、武蔵野市の子供たちに対する冒険教育がテーマだ。その立原さんにパラオの酋長がくれるという島、川口さんを中心とする彼の交遊グループが材料になる。
山本さんは、この日本冒険クラブをダイエーに売り込んで、一億五千万を出させようとしている。クラブの何に対してお金がでるのか?冒険新聞というパンフを作り大量に日本中にばらまき、全国の冒険すきを組織化して行くのだという。立原もぐら男爵は、「いよいよ全国制覇の時がきた」などと言っているが、彼は正気なのだろうか。立原男爵直系の後輩である入沢登山家は、これまで、骨こちやってきた活動とまるで違うので、心配している。川口さんは、可能性のあるものならば、協力してやろうという姿勢でいる。私も同様に考えている。冒険というコンセプトがあり、ペーパーがあるならば、それを売ることは可能なのかもしれない。ところで冒険とは何なのだろう。
宮内君は女のことが専門で、会議が終わってからの話はそっちに集中する。宮内と矢沢美智子の間柄はどうなっているのかなどなどだが、彼の女に対するコンセプトは明確で、セックスについての自信は大変なものだ。とにかく男は誰でもいいから、毎日女を抱かなければいけないのだそうだ。
夜が更けて、川口隊長は押入れの中に寝場所をつくり、私は畳の上にきちんと敷いた布団の上に寝た。押入れの中でないと安心できないのだそうだ。奥さんの野添ひとみさんと寝るときもおしいれなのか。と聞きたかったが失礼に当たるので聞かなかった。
中略
ところで、冒険とは何だろう、昨日一日考え続けていた。冒険とは行動ではなくて、むしろ心のあり方、心の指示する目標ではないのだろうか。車いすの生活で、家から一歩も外に出ない人にも冒険は存在すると思う、チャレンジする気持ちで行動する心が冒険なのではないだろうか。行動するためには、技術、技能、の裏付けが無くてはならない。技術、技能の無い行動は、無謀になってしまう。冒険とは技能があったうえで、出来るかできないか微妙なところにある目標を目指す行動であって、出来ないと読み切れば行動を中断して、技術、技能の向上を企てなくてはならない。その時にも心の目標としての冒険は中断しては居ない。
※、これは1986年に考えた冒険論だ。今はちょっと違っているような気もするが悪くは無い。
バインダーのナンバーと主なタイトル、タイトルは最近見直して、付けたものだが、次のとおりだ。
NO1 1982年 潮美が大学に入った。
NO2 1983年 潮美をつれて小笠原に行く
NO3 1983年 キリバス、セブ、グアム
NO4 1983年 ガラパゴスに行く
NO5 1984年 アラスカ
NO6 1984年 ケラマ テレビフォーラム 水中レポート開始
NO7 1985年 知床 神の子泉
NO8 1986年 流氷 ニュース・ステーションの始まり
NO9 1986年 天草 バイカル
NO10 1986 十和田湖 伊豆大島噴火 与那国
自分の生涯の黄金の時、時期であった。
先般出版したニッポン潜水グラフィティは、およそ1980年までであり、現在再び月刊ダイバーに連載させてもらっている続ニッポン潜水グラフィティはその第一回と第二回が、水曜スペシャルの話を書き、そして、今回1月号が1984年の水中レポート開始であり、次回を1986年のニュース・ステーションの始まりを書こうとしている。そして、あと1回、伊豆大島大噴火を書いて、ニュース・ステーションは終了、後、時代をとばして、60歳の100m潜水を書き、これが2回、最後に現在のことを結びで書こうとおもっている。最後はグラフィティではなくなってしまうからちょっとだけにして終わろう。
この日記を参照したら月刊ダイバーのグラフィティが書きやすくなるだろうとおもったら、違っていた。確かに、何年に起きたできごとだったのだろうという、時系列の参照にはなる。しかし、書く前にこの日記を見てしまうと、書けなくなってしまう。面白いところを引用しようとしても、水と油でまじりあわない。
グラフィティは、すべて、時というフィルターを通して、現時点から見ている物語なのだとわかった。あまり日記に左右されないで、グラフィティのストーリーを運んだ方が良い。
この日記からの引用は、これまで、このブログに2回だけ登場させている。その時は連続して引用を書きつづけたいと予告したのだけれど、途切れてしまっている。もう一度仕切りなおして、この日記から、随時、引用して、ブログにする。以前に書いたものとダブルけれど、前のものを探してみる人も少ないだろうから、それに、同じストーリーが二回出てきていけないということもない。
そして、これはまた、雑誌のグラフィティとは全く別のものだから、雑誌の方も是非読んでいただきたい。
前々号の月刊ダイバーに川口探検隊のことを書いて、日本冒険クラブの写真を乗せたが、川口さんとやった日本冒険クラブは1986年、ニュース・ステーションの知床、流氷ロケに出かけるすぐ前のことだったのだ。日記を見直してわかった。今書いている2月号の月刊ダイバーは、いよいよ、ニュース・ステーションに潮美が登場する話だ。だから、これはニュース・ステーションに出発する直前の日記だ。字の間違っているところ以外は当時のまま、1986年に書いたままでここに移す。
後列、左から立原モグラ男爵、須賀、川口隊長、しゃがんでいるのが宮内淳、前列は三宅さん?
1月27日
立原さん(洞窟探検家の変なおじさんだ)が主催する「日本冒険クラブ」発足の集まりを、週刊っ宝石のグラビア取材で行う。それに行く約束をしていた。まだ、風邪が治らないというよりも、風邪の最中で、朝の7時に出るのはとてもつらかったのだが、約束は約束だし、川口さんも来るのだからとがんばって起きた。冒険クラブの山本さんに車に乗せて行ってもらえるので、体が休められる。
宝石の取材は「冒険のグルメ」で、伊豆シャボテン公園の山中を流れる小さい清流の河原で野外料理をしているところを撮影する。
私は、「スズキの蒸し焼き」を作ることになっていて、出刃で鱗を取っているところを撮影された、。いうまでもなく、私がそんな料理を作れるわけもなく、宝石のスタッフが考え、材料も彼らが用意したものだ。TVでやっているスターの料理番組も同じようなものなのだろう。本格的なやらせだ。やらせの中心人物のようにみられている我らが誠実な川口隊長だけは、自分で肉を用意してきて串に刺してバーベキューを焼いた。川口さんは元来やらせの人ではないのだ。
宮内淳君は、トナカイのバーベキューだ。これももちろん誰かがよういしたものだ。登山家の入沢さんはチャパティ、立原さんはアユの竹筒入り酒、カメラマンの三宅さんはオジヤ、山本君はキジの料理、その他子豚の丸焼き、アユの泥蒸し、サラダ、カレーなどだった。
昨日ひどい下痢だったのだから、おかしなものは食べれれないと思いつつ、おじやを食べ、最も期待していた川口隊長の肉をたべ、意外にもおいしかったカレーをチャパテイに浸けて食べ、、結構な量を口に入れてしまった。
国民宿舎に泊まって冒険クラブの第一回の集まりを開いた。山本さんという人はセールスマネジャーで、日経広告社を通じて、ダイエーに冒険の企画を売り込んでいる。その主人公が「モグラ男爵」こと立原さんだ。彼の25年にわたる、武蔵野市の子供たちに対する冒険教育がテーマだ。その立原さんにパラオの酋長がくれるという島、川口さんを中心とする彼の交遊グループが材料になる。
山本さんは、この日本冒険クラブをダイエーに売り込んで、一億五千万を出させようとしている。クラブの何に対してお金がでるのか?冒険新聞というパンフを作り大量に日本中にばらまき、全国の冒険すきを組織化して行くのだという。立原もぐら男爵は、「いよいよ全国制覇の時がきた」などと言っているが、彼は正気なのだろうか。立原男爵直系の後輩である入沢登山家は、これまで、骨こちやってきた活動とまるで違うので、心配している。川口さんは、可能性のあるものならば、協力してやろうという姿勢でいる。私も同様に考えている。冒険というコンセプトがあり、ペーパーがあるならば、それを売ることは可能なのかもしれない。ところで冒険とは何なのだろう。
宮内君は女のことが専門で、会議が終わってからの話はそっちに集中する。宮内と矢沢美智子の間柄はどうなっているのかなどなどだが、彼の女に対するコンセプトは明確で、セックスについての自信は大変なものだ。とにかく男は誰でもいいから、毎日女を抱かなければいけないのだそうだ。
夜が更けて、川口隊長は押入れの中に寝場所をつくり、私は畳の上にきちんと敷いた布団の上に寝た。押入れの中でないと安心できないのだそうだ。奥さんの野添ひとみさんと寝るときもおしいれなのか。と聞きたかったが失礼に当たるので聞かなかった。
中略
ところで、冒険とは何だろう、昨日一日考え続けていた。冒険とは行動ではなくて、むしろ心のあり方、心の指示する目標ではないのだろうか。車いすの生活で、家から一歩も外に出ない人にも冒険は存在すると思う、チャレンジする気持ちで行動する心が冒険なのではないだろうか。行動するためには、技術、技能、の裏付けが無くてはならない。技術、技能の無い行動は、無謀になってしまう。冒険とは技能があったうえで、出来るかできないか微妙なところにある目標を目指す行動であって、出来ないと読み切れば行動を中断して、技術、技能の向上を企てなくてはならない。その時にも心の目標としての冒険は中断しては居ない。
※、これは1986年に考えた冒険論だ。今はちょっと違っているような気もするが悪くは無い。