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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1108 1982年の日記

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  ニッポン潜水グラフィティ 続を月刊ダイバーに連載している。一回と二回は、水曜スペシャル風、視聴率至上主義の番組について書いた。さて、第三回からは水中レポートの話になる。今、編集をしてもらっている須賀潮美が大学一年生、法政アクアにはいる。ここから彼女の活躍が始まる。

  僕の日記は三日坊主ではないけれど、終身書き続けているわけではない。しかし、潮美が大学、法政アクアに入る1982年から、旅に出ている時とか、毎日ではないが、かなりの分量を書いている。最初は、「ダイビングを始めた娘への手紙」と言う感じで、ダイビングとはこんなものなのだという感じで書いていた。今のようにメールとかがあれば、抵抗なく送れただろうが、手渡すのも気はずかしいし、切手を貼ってだすのもわざとらしい。結局出さなかった。が、今ここに全部残っている。彼女が夏の合宿を終わって、秋になったころ、僕は、横井庄一さんと、7人の若い美女が、無人島でサバイバル生活を送るという番組の撮影にフィリピン行った。
場所は、マニラからそれほど遠くない。富士山より美しいコニーデ型火山、マヨン火山に近いレガスピという町から、バンカ(フィリピンのカヌー型ボート)に乗って2時間走る、ラプラプ島という無人島。無人島と言いながら、3000人の人口があり、反政府軍が支配している。とんでもない島だった。ロケもとんでもない話だったが、今日はそのはなしではない。いずれまた。ここでは、その時に書いた娘への出されなかった手紙、の一部。
「フィリピン航空のマニラ行きの飛行機の中で、潮美のことをとても心配して書いています。昨日、八丈島へ合宿で出発するのを竹芝に送って行きましたが、大きなダイバーバックと6キロのウエイトベルトを肩にかけて、よたよたと。それでもしっかりした足取りで、振り返りもせずに歩いて行きました。この前八丈島に行った時に、19歳、潮美と同じ年齢で、ダイビング中に亡くなった    さん(友人のグループでの事故、について、この手紙の前の手紙で書いている)の最後の場所、八条小島にお花を上げて来ようと思ったのですが、とても、そんな余裕がありませんでした。
ここからフィリピンの話になる。が、中略
マニラのホテルのベッドで、8度の熱を出して倒れています。ラプラプ島は悪霊の島でした。ハードなスケジュールで、この度の出発前からくたびれていたのです。レガスピから島まで、2時間の予定が、ボートが浅瀬に乗り上げてしまって4時間かかり、やっと到着した次の日の撮影で、どうしたことでしょう。絞りが二段階オーバーなのです。プロのカメラマンとしては許されないことです。眼がどうにかなっていたのでしょうか。そして、次の日は、砂浜でテープの交換をしたためにVTRの水中ハウジングに浸水、夜遅くまでランプのひかりで修理、電気がないのです。やっと12時ごろに横になってもなかなか寝付けません。やっとうとうとしたなと思ったら、午前3時私の寝ている小屋の床下の鶏が一番鶏のときをつくります。
次の日、撮影結果を見ると中心に焼き付いて様なしみがあります。太陽にレンズをむけたためです。この日も不眠で修理、最後の日にはついにカメラのハウジングに浸水。それでも、撮影の80%は済ませて、許してもらって帰途につき、レガスピには半病人、マニラには病人でたどり着きました。そして、なんということでしょう。私の乗る予定の飛行機に席がないことがマニラに来てわかったのです。このマニラで三日間またなくてはなりません。
 ☆
東京に着くと同時に電話して、潮美が無事に八丈島から元気に戻ってきたことを確認しました。
潮美たちの合宿のようすをいろいろ聞かせてもらいました。一年生では潮美が一番元気だったとのこと、おそらくは、うまく自分の体力をセーブするコツを、高校のときの剣道部で学んだのかもしれません。知らず知らずのうちに図々しく、「お前も、もしかしたら、潜水に向いているのかもしれないね。」などと言ったりしました。潜水に必要なことは自分の体力をうまく配分することで、ねちっこく長持させることです。
練習の様子を聞くと、ずいぶんバカバカしいことをやってると思うわれる部分もあるのですが、楽しくやっているのはなによりです。
これまで、大学のダイビングクラブのあり方に少し疑問を持っていました。一年生で潜水をはじめて、いちねんかかってどうやら半人前、二年生いっぱいで胴やら一人前になって、三年生になるともう指導者になって一年生を教えなければなりません。OBは現役と酒を飲んだりする会合は持つけれど、年間通じて指導するようなコーチ的なOBの居るクラブはほとんどないようです。これで、事故が起こらないのは不思議だと思っていました。 
いろいろ聞いてみると、これまでも、もしも一般のクラブで同じことが起こっていたら重大な事故になったかもしれないような、事故一歩手前のようなことはあちこちの大学クラブで起こっていたようです。ただ、見守ってい眼がる多かったこと、厳しい緊張状態であったから大事に至らなかったのではないかと考えます。前にも書いたのですが、私の27年の潜水歴(その頃47歳)の前半、20年くらいは、今振り返って見て、ラッキーで事故が起こら中と思えるようなことが何回かありました、その時幸いにも事故にならなかったのは、緊張して用心していた時にそのことが起こったからだと前にかきました。私だってそうなのだから、若い指導者のダイビングクラブがラッキーで事故にならなかったようなことがあっても仕方が無いと思います。潮美のダイビングクラブの主将(と呼ぶのでしたね)は、潮美とはたった一つ年上のボーヤです、その坊やが人を死なしてしまうかもしれない責任を負わされるのですから大変なプレッシャーでしょう。でも、そうやって男は(当時は男の主将が多かった]一人前になって行くのですから、彼の方はそれで良いとしても、そこに娘を預け入れる父親としては、その実態がわかるだけに簡単には割り切れません。
私の考えた末の選択は若い子供たちのグループを信頼するという事でした。信頼するという事は、もしも、という事があっても若者たちを責めたり恨んだりするまいという事です。若くて、プレッシャーを受ければ受けるほど、それに負けない限り真剣にやるはずだから、そして、ベストを尽くしたうえでの結果であるならば、それはそのまま受け入れるのが、海に生きる者の人生でしょう。
合宿から帰ってきて、それまでは潮美と一歳しか年がちがわないのに(浪人しているため)いつもピリピリしていて近寄りがたかった主将の   君が合宿を終わって、どうやら表情が軟らかくなってきたと聞いて、私の選択が間違っていなかったと思いました。
 中略
合宿が無事に終わったからと言ってこれで安心と言うわけには行かないのが潜水です。これからは、より一層力を合わせて、潮美自身もいくらかは力を持ったのですから、その力を合わせて、事故を起こさないように行動しなくてはいけないのです。みんなの力が付いた分だけ、上級生の負担が軽くなり、その分が一年生に負担として。廻ってくるわけです。クラブがそのように機能しないのであれば、コーチは絶対に必要だし、コーチなしでやって行こうとするならば、何時でも全員が力を合わせなければラッキーは続かないでしょう。

それから、30年の月日がながれ、関東学生潜水連盟は、幾つかの大学では監督、コーチが生まれたが、残りの大部分では当時のままである。学連創立50年を前にして、みんなで考えようというのが、12月7日のシンポジウムのその一のテーマです。

月刊ダイバーの連載記事は、一人前になった、潮美と僕の爽快な冒険を書くつもりです。どうなるかわかりませんが、しかし、冒険の内側にはこんな思いがあります。そのバランスで、僕たちが生きているのだと思うのです。

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