1976 海の世界 海底ハウス
相変わらずだけれど、やることが多すぎてパンク状態。気持ちばかり焦って、全然前に進まない。「海の世界」1976年、12月号のいくつかの記事を題材にして、ブログを書こうとしているのだが、それぞれが長くなりそうで、踏み出せない。
でも・・・・頑張って
「三津長浜、海底ハウスの事故を考える」田中和栄さんの海底ハウスが空気塞栓の事故死で閉鎖されたのは1976年だったのだ、と思い起こす。
田中さんについては、「海底ハウス 田中和栄物語」登坂将司著 新日本文芸協会2009年 がある。ダイバーならばぜひ読んでほしいと思う。
田中さんは四国の愛媛県、ミカン山の持ち主だったが、1970年代の海の中の世界の国際的な流行ともいえる海底居住にはまり込んでしまった。海底居住は日本では海洋科学センター(JAMSTEC)の前身が主たる目標としていたシートピア計画、アメリカではシーラブ、フランスではクストーのプレコンチナン、そのほか、先進国はみな手を付けなければいけないのではないかとおもったらしい国家的なプロジェクトである。今振り返ってみると、なぜ海底に居住しなければならなかったのかよくわからないが、とにかくその時代、人類は生身の体で海を目指した。海底に夢を託した。夢のある時代だったとも振り返る。
田中さんはその国家的な海底居住を個人で目指してしまった。僕もやはり国家的な海のプロジェクトの一つであった大深度潜水に個人で、僕の場合には東亜潜水機という勤務先の応援があったが、個人的な夢で突っ走ったということでは同じであった。だから、馬鹿だなあ、と笑えない。ほぼ同時代に馬鹿をやったのだから接点があっても良さそうなのだが、電話で一度声を聞いただけだった。潜水については、僕の視点からは、田中さんは素人、僕は専門家だった。その素人であった部分で悲劇をおこしてしまう。しかし、それも笑うことはできない。紙一重で、僕は助かり続け、彼は事故をおこしてしまう。
田中さんは四国のミカン山の若大将だったが、僕とほぼ同じ時代だが少し後(歳も下)にダイビングに取りつかれ、海底居住へと突き進む。ミカン山も売り払い夢に向かって突進するが資金が足りなくなる。日本財団の笹川会長が応援してくれて、歩号一世ができて、沼津の三津浜に沈設する。後により大きい海底ハウス2号を沈めたので、この歩号一世は船の科学館に現物が展示されている。
より大きな海底ハウス2号は、一般ダイバーに公開されて、かなりの盛況をおさめる。つまり、本当の竜宮城だ。ジャック・マイヨールもハンス・ハスも訪れている。僕は訪れていない。多分、田中さんは僕とは別のリーグ、セントラルとパシフィックのようなものだけど、行かなかった。
ハウスは水深8mに沈められていて、2気圧、10m相当のやや陽圧を保っている。二か所のエアーステーションがあって、訪れる人は素潜りで行く。戻りは上向きになり、粋を吐き出しながら浮上する。つまりフリーアセントで戻る。
今ならば、C カードを持っていることを参加条件にできるだろう。しかし、1976年である。僕たちのやっている講習は、C カードよりも、厳しいものだった。当時もこの事故について、それぞれ喧々諤々の議論があった。
海の世界の記事を書いている辻さんは、お客としてハウスを訪れた人であり、現在の体験ダイビング的な講習を受けてから、4名のグループで、初心者の3人はボンベを使い、一人は素潜りで行っている。問題は浮上の方法である。やはりC カードを条件として、タンクを使っての浮上だろう。周囲で遊んでから潜降索で浮上が普通にできる。
田中さんはこの事故を反省して海底ハウス2号を閉鎖する。今でも、三津浜で魚礁になってあるという。訪れてみたい。そして、田中さんはまだ挫けない。欠点をすべて改善した、海底ハウス3号に挑む。資金のめどもついて、さあ、というところで暴走族がらみの不運な交通事故をおこす。
もしも、海底ハウス3号が三津浜にあったならば?大瀬崎に行く少し手前である。多くのダイバーが、多分、それぞれ一度は訪れ、魚礁化して魚も多いだろうし、周辺にはそれこそ、餌付けされた魚も集まっていることだろうから、彼の夢見たような形での大盛況になっていただろう。中に入ってお茶を飲むこともできる海底ハウスというダイビングポイントである。東の海洋公園、西の海底ハウスにはなっているだろう。
相変わらずだけれど、やることが多すぎてパンク状態。気持ちばかり焦って、全然前に進まない。「海の世界」1976年、12月号のいくつかの記事を題材にして、ブログを書こうとしているのだが、それぞれが長くなりそうで、踏み出せない。
でも・・・・頑張って
「三津長浜、海底ハウスの事故を考える」田中和栄さんの海底ハウスが空気塞栓の事故死で閉鎖されたのは1976年だったのだ、と思い起こす。
田中さんについては、「海底ハウス 田中和栄物語」登坂将司著 新日本文芸協会2009年 がある。ダイバーならばぜひ読んでほしいと思う。
田中さんは四国の愛媛県、ミカン山の持ち主だったが、1970年代の海の中の世界の国際的な流行ともいえる海底居住にはまり込んでしまった。海底居住は日本では海洋科学センター(JAMSTEC)の前身が主たる目標としていたシートピア計画、アメリカではシーラブ、フランスではクストーのプレコンチナン、そのほか、先進国はみな手を付けなければいけないのではないかとおもったらしい国家的なプロジェクトである。今振り返ってみると、なぜ海底に居住しなければならなかったのかよくわからないが、とにかくその時代、人類は生身の体で海を目指した。海底に夢を託した。夢のある時代だったとも振り返る。
田中さんはその国家的な海底居住を個人で目指してしまった。僕もやはり国家的な海のプロジェクトの一つであった大深度潜水に個人で、僕の場合には東亜潜水機という勤務先の応援があったが、個人的な夢で突っ走ったということでは同じであった。だから、馬鹿だなあ、と笑えない。ほぼ同時代に馬鹿をやったのだから接点があっても良さそうなのだが、電話で一度声を聞いただけだった。潜水については、僕の視点からは、田中さんは素人、僕は専門家だった。その素人であった部分で悲劇をおこしてしまう。しかし、それも笑うことはできない。紙一重で、僕は助かり続け、彼は事故をおこしてしまう。
田中さんは四国のミカン山の若大将だったが、僕とほぼ同じ時代だが少し後(歳も下)にダイビングに取りつかれ、海底居住へと突き進む。ミカン山も売り払い夢に向かって突進するが資金が足りなくなる。日本財団の笹川会長が応援してくれて、歩号一世ができて、沼津の三津浜に沈設する。後により大きい海底ハウス2号を沈めたので、この歩号一世は船の科学館に現物が展示されている。
より大きな海底ハウス2号は、一般ダイバーに公開されて、かなりの盛況をおさめる。つまり、本当の竜宮城だ。ジャック・マイヨールもハンス・ハスも訪れている。僕は訪れていない。多分、田中さんは僕とは別のリーグ、セントラルとパシフィックのようなものだけど、行かなかった。
ハウスは水深8mに沈められていて、2気圧、10m相当のやや陽圧を保っている。二か所のエアーステーションがあって、訪れる人は素潜りで行く。戻りは上向きになり、粋を吐き出しながら浮上する。つまりフリーアセントで戻る。
今ならば、C カードを持っていることを参加条件にできるだろう。しかし、1976年である。僕たちのやっている講習は、C カードよりも、厳しいものだった。当時もこの事故について、それぞれ喧々諤々の議論があった。
海の世界の記事を書いている辻さんは、お客としてハウスを訪れた人であり、現在の体験ダイビング的な講習を受けてから、4名のグループで、初心者の3人はボンベを使い、一人は素潜りで行っている。問題は浮上の方法である。やはりC カードを条件として、タンクを使っての浮上だろう。周囲で遊んでから潜降索で浮上が普通にできる。
田中さんはこの事故を反省して海底ハウス2号を閉鎖する。今でも、三津浜で魚礁になってあるという。訪れてみたい。そして、田中さんはまだ挫けない。欠点をすべて改善した、海底ハウス3号に挑む。資金のめどもついて、さあ、というところで暴走族がらみの不運な交通事故をおこす。
もしも、海底ハウス3号が三津浜にあったならば?大瀬崎に行く少し手前である。多くのダイバーが、多分、それぞれ一度は訪れ、魚礁化して魚も多いだろうし、周辺にはそれこそ、餌付けされた魚も集まっていることだろうから、彼の夢見たような形での大盛況になっていただろう。中に入ってお茶を飲むこともできる海底ハウスというダイビングポイントである。東の海洋公園、西の海底ハウスにはなっているだろう。