海の世界76年12月 号ー2
ブロニカマリンの広告の上に大磯のジャンボ魚礁の記事がある。そうか、魚礁オリンピックは76年立ったのかと記憶が新たになる。魚礁の調査は大学4年の時に危機一髪の思いをして、その後、1970年頃から、福島県の調査で僕のメインの仕事になった。1976年ー1980年が、カメラのハウジングを作る仕事が後退し、魚礁調査の仕事が前面にでてくる交代期だったのだ。
1960年代までの魚礁は、1.5m角のブロックで、それを2段積にするとか、3段に積む、あるいはでたらめに乱積みにするなどして、高さの効果をだすようにしていた。魚は、小さい岩一つにも集まるが、大きく高い方がたくさんの魚を集める。魚礁には高さが必要。
一方、1.5角を、積み上げるのは潜水工事になってその費用がかかる。大きな魚礁を作ってしまえばいい。大型化するとともに、製造する各メーカーは魚を多く集める形状を
した。A社のものがいいのか、B社のものが良いのか、場所が違えば、魚の種類も違うし、海況もちがう。どこか一か所に沈設してその効果を競ったらという案がでて、各社がそれに賛同した。これが魚礁オリンピックと通称された試験沈設計画で、その場所として大磯が選ばれた。
その各社の魚礁で最大のものが、ここに紹介されているジャンボ魚礁であった。
この試験の調査をスガ・マリンメカニックが引き受けた。その当時で、魚礁調査の実績が一番だったということだ。僕は、大学4年以来、日本で、一番、水に潜って魚礁をに触ったことの多いダイバーだと自負していた。
各社、大磯に沈設したのだが、その距離が詰まりすぎていると効果がわからない。A社の魚礁とB社の魚礁がくっつきすぎてしまうとどちらの効果が大きかったのかわからない。また、1個よりも2個の方が相乗効果があって魚を集める効果、蝟集効果というのだが、が大きくなってしまう。広い範囲にばらばらに置かれた。
また、調査する眼も個人差があるから、なるべく一人、あるいは一つの会社が見た方がいい。だから、良い仕事になった。また、魚礁は沈設したばかりでは、その効果が大きくない。付着生物などが着いて、3年目あたりが最高になる。まあ、調査を3年続けたいための意見と言えないこともないが、この仕事は3年続いた。
ジャンボ魚礁にも潜った。水深は55メートル、当然窒素酔いも起こる。僕は大丈夫だったが、社員の何人かは目を回した。
魚礁の大きさもさらに成長した。1990年代には、鉄骨タワーを水中に沈めたような高層魚礁が次々と沈設された。水深も70M-80Mである。潜水調査の深度も深くなる。調査も人間が潜るよりも、自走式のカメラが使われることが多くなった。大型の高僧魚礁の沈設は続いたが、ダイバーの潜水調査はあまり重視されなくなった。魚がいるという当たり前のことの確認に多額の費用をかけることは意味がないと考えられるようになったのだ。また魚礁のメーカーも数が絞られてきて、それぞれが自前で調査チームをもつようになった。
スガ・マリンメカニックのビジネスとしては、あまり良い商売では無くなってきて、僕はテレビ番組の撮影の方に軸足を置くようになってしまう。
また、潜ってみて、魚がいたとして、だからなんなのだ。漁が増えないことには意味がない。魚礁をよく使うのは、遊漁の釣り船が多くなり、県や水産庁が力をいれる調査ではなくなった。
とにかく、人工魚礁のピークは、1976年ごろの魚礁オリンピックだった。
今、大磯のジャンボ魚礁はどうなっているだろうか。魚礁の耐用年数は30年とされている。もう30年は過ぎた。今、どうなっているのか見たい。魚礁調査というよりも探検の気分である。探検と冒険の違いを述べたが、探検とは、調べ記録して文書にして報告書を出すことである。冒険には記録の義務はない。探検はメソードを確立しなければいけないし、調査手法も考慮されなければならない。JAUSが人工魚礁調査グループを作ったのは、もはや、水産としては相手にされなくなった魚礁調査を探検としてやろうということなのだ。
大磯の水深55Mは、ちょうど良い探検だ。
ブロニカマリンの広告の上に大磯のジャンボ魚礁の記事がある。そうか、魚礁オリンピックは76年立ったのかと記憶が新たになる。魚礁の調査は大学4年の時に危機一髪の思いをして、その後、1970年頃から、福島県の調査で僕のメインの仕事になった。1976年ー1980年が、カメラのハウジングを作る仕事が後退し、魚礁調査の仕事が前面にでてくる交代期だったのだ。
1960年代までの魚礁は、1.5m角のブロックで、それを2段積にするとか、3段に積む、あるいはでたらめに乱積みにするなどして、高さの効果をだすようにしていた。魚は、小さい岩一つにも集まるが、大きく高い方がたくさんの魚を集める。魚礁には高さが必要。
一方、1.5角を、積み上げるのは潜水工事になってその費用がかかる。大きな魚礁を作ってしまえばいい。大型化するとともに、製造する各メーカーは魚を多く集める形状を
した。A社のものがいいのか、B社のものが良いのか、場所が違えば、魚の種類も違うし、海況もちがう。どこか一か所に沈設してその効果を競ったらという案がでて、各社がそれに賛同した。これが魚礁オリンピックと通称された試験沈設計画で、その場所として大磯が選ばれた。
その各社の魚礁で最大のものが、ここに紹介されているジャンボ魚礁であった。
この試験の調査をスガ・マリンメカニックが引き受けた。その当時で、魚礁調査の実績が一番だったということだ。僕は、大学4年以来、日本で、一番、水に潜って魚礁をに触ったことの多いダイバーだと自負していた。
各社、大磯に沈設したのだが、その距離が詰まりすぎていると効果がわからない。A社の魚礁とB社の魚礁がくっつきすぎてしまうとどちらの効果が大きかったのかわからない。また、1個よりも2個の方が相乗効果があって魚を集める効果、蝟集効果というのだが、が大きくなってしまう。広い範囲にばらばらに置かれた。
また、調査する眼も個人差があるから、なるべく一人、あるいは一つの会社が見た方がいい。だから、良い仕事になった。また、魚礁は沈設したばかりでは、その効果が大きくない。付着生物などが着いて、3年目あたりが最高になる。まあ、調査を3年続けたいための意見と言えないこともないが、この仕事は3年続いた。
ジャンボ魚礁にも潜った。水深は55メートル、当然窒素酔いも起こる。僕は大丈夫だったが、社員の何人かは目を回した。
魚礁の大きさもさらに成長した。1990年代には、鉄骨タワーを水中に沈めたような高層魚礁が次々と沈設された。水深も70M-80Mである。潜水調査の深度も深くなる。調査も人間が潜るよりも、自走式のカメラが使われることが多くなった。大型の高僧魚礁の沈設は続いたが、ダイバーの潜水調査はあまり重視されなくなった。魚がいるという当たり前のことの確認に多額の費用をかけることは意味がないと考えられるようになったのだ。また魚礁のメーカーも数が絞られてきて、それぞれが自前で調査チームをもつようになった。
スガ・マリンメカニックのビジネスとしては、あまり良い商売では無くなってきて、僕はテレビ番組の撮影の方に軸足を置くようになってしまう。
また、潜ってみて、魚がいたとして、だからなんなのだ。漁が増えないことには意味がない。魚礁をよく使うのは、遊漁の釣り船が多くなり、県や水産庁が力をいれる調査ではなくなった。
とにかく、人工魚礁のピークは、1976年ごろの魚礁オリンピックだった。
今、大磯のジャンボ魚礁はどうなっているだろうか。魚礁の耐用年数は30年とされている。もう30年は過ぎた。今、どうなっているのか見たい。魚礁調査というよりも探検の気分である。探検と冒険の違いを述べたが、探検とは、調べ記録して文書にして報告書を出すことである。冒険には記録の義務はない。探検はメソードを確立しなければいけないし、調査手法も考慮されなければならない。JAUSが人工魚礁調査グループを作ったのは、もはや、水産としては相手にされなくなった魚礁調査を探検としてやろうということなのだ。
大磯の水深55Mは、ちょうど良い探検だ。