事務所の整理整頓をしている。いつ果てるともない作業だが、古い海の世界、オーシャンライフ、ダイビングワールドなどの雑誌をキャビネットの中に入れた、大量なので横積みである。これで取り出して容易に見ることができなくなった。その時に目についた「海の世界」の表紙がある。あ、望月昭伸だと思った。もう今頃では、望月君のことを知る人も少なくなってしまったと思うけれど、小笠原の海で、クジラの撮影をしていて行方不明になった。カメラマンの常として一人で潜っていたから、何が起こったのか。知ることはできない。海の巨大生物に超接近すればそういうこともある。彼は静岡の人で、カメラマンになるかならないか、卵の時に、同じく清水の望月さんに紹介されて、苗字は同じだけど、親戚ではない。自分を頼ってきて水中カメラマンになりたいというから話を聞いてやってくれと頼まれた。頼まれたって、どうというアドバイスもできない。何も教えることもできない。道なき道を行くしかない、というようなことを話した。やがて彼は水中造形センターの舘石さんの下で働き、やがてフリーになった。彼が命を懸けたのは小笠原のクジラで、小笠原のクジラについては第一人者になり、そして命を落とした。良い人生だったと思う。
彼は人懐っこい人で、僕と、たとえばダイビングフェスティバルなどで会うと、10m以内の距離に居れば、「須賀さーん」と声をだして走ってくる。これはとてもうれしい。今親しい友達になったテレビ朝日のディレクター上野さんが、望月君の撮影で小笠原の鯨をニュース・ステーションで作ることになり、当時は僕がニュース・ステーションの水中をほとんど手掛けていたから、「どういう人ですか望月さんって」聞かれた。僕は自分で小笠原の鯨を絶対に撮りたかったけれど。「いい子ですよ」と答える他ない。本当にいい子、いい人なのだから。そしてこの番組は、成功し、上野さんも評価され、もちろん望月君もテレビのカメラマンとしても評価されるようになった。
ちょうどその望月さんと上野さんが小笠原にロケに行っている時、僕も沖ノ鳥島の撮影だったか、小笠原で船のトランジットをした。その時にも、気持ちのいい話をすることができた。その時のデスクがこの前亡くなった長谷川格さんだった。格さんとは僕が現役の時は僕のプロデューサーが小早川さんだったこともあり、一緒に仕事ができなかったが、僕の60歳の時の100m潜水をプロデュースしてくれた。大恩人である。お通夜に行き、その日のうちにどうしても、自分の思いとそしてお礼が言いたくて、ブログに書いた。そういうことをブログで書くことが良いかどうかわからないが、僕はそうしたかった。
息子さんの卓さんから長文の丁重なお礼の文をいただいた。格さんは素潜りが好きで、海が好きで、僕に注目していてくれたのだと教えてもらった。僕の100m潜水を応援してくれたのはそんないきさつもあったのだとわかり、それならばもっと親しくしていればよかったと悔やんだが、とにかく自分の気持ちを伝えることは出来た。
そんなことを一枚の表紙の写真から脱線して考えていて、もう一度よく見ると、どうも望月君ではないような感じもする、よく見ると女の子のような体形でもある。時系列もず
れている。この表紙は1976年の12月号で、誰が撮ったのかとみると,三栗万平とある。万平ちゃんが撮ったのならば、望月君ではありえない。三栗君は和歌山でダイビングサービスをしていて、親しかった。万平ちゃんなどと言ったが彼ももう70だろう。きっと元気だろう。この写真で手にしているのは、僕が作ったブロニカマリンに見える。フラッシュガンを付けているが、海蛇を掴んでいる。
この雑誌の本文には、僕のブロニカマリンの広告も掲載されている。広告の住所は今の僕の事務所と同じ第一グリーンハイツだ。
この海の世界の中身について、もう少しあと2回ぐらいブログが書ける。
事務所の整理整頓をしている。いつ果てるともない作業だが、古い海の世界、オーシャンライフ、ダイビングワールドなどの雑誌をキャビネットの中に入れた、大量なので横積みである。これで取り出して容易に見ることができなくなった。その時に目についた「海の世界」の表紙がある。あ、望月昭伸だと思った。もう今頃では、望月君のことを知る人も少なくなってしまったと思うけれど、小笠原の海で、クジラの撮影をしていて行方不明になった。カメラマンの常として一人で潜っていたから、何が起こったのか。知ることはできない。海の巨大生物に超接近すればそういうこともある。彼は静岡の人で、カメラマンになるかならないか、卵の時に、同じく清水の望月さんに紹介されて、苗字は同じだけど、親戚ではない。自分を頼ってきて水中カメラマンになりたいというから話を聞いてやってくれと頼まれた。頼まれたって、どうというアドバイスもできない。何も教えることもできない。道なき道を行くしかない、というようなことを話した。やがて彼は水中造形センターの舘石さんの下で働き、やがてフリーになった。彼が命を懸けたのは小笠原のクジラで、小笠原のクジラについては第一人者になり、そして命を落とした。良い人生だったと思う。
彼は人懐っこい人で、僕と、たとえばダイビングフェスティバルなどで会うと、10m以内の距離に居れば、「須賀さーん」と声をだして走ってくる。これはとてもうれしい。今親しい友達になったテレビ朝日のディレクター上野さんが、望月君の撮影で小笠原の鯨をニュース・ステーションで作ることになり、当時は僕がニュース・ステーションの水中をほとんど手掛けていたから、「どういう人ですか望月さんって」聞かれた。僕は自分で小笠原の鯨を絶対に撮りたかったけれど。「いい子ですよ」と答える他ない。本当にいい子、いい人なのだから。そしてこの番組は、成功し、上野さんも評価され、もちろん望月君もテレビのカメラマンとしても評価されるようになった。
ちょうどその望月さんと上野さんが小笠原にロケに行っている時、僕も沖ノ鳥島の撮影だったか、小笠原で船のトランジットをした。その時にも、気持ちのいい話をすることができた。その時のデスクがこの前亡くなった長谷川格さんだった。格さんとは僕が現役の時は僕のプロデューサーが小早川さんだったこともあり、一緒に仕事ができなかったが、僕の60歳の時の100m潜水をプロデュースしてくれた。大恩人である。お通夜に行き、その日のうちにどうしても、自分の思いとそしてお礼が言いたくて、ブログに書いた。そういうことをブログで書くことが良いかどうかわからないが、僕はそうしたかった。
息子さんの卓さんから長文の丁重なお礼の文をいただいた。格さんは素潜りが好きで、海が好きで、僕に注目していてくれたのだと教えてもらった。僕の100m潜水を応援してくれたのはそんないきさつもあったのだとわかり、それならばもっと親しくしていればよかったと悔やんだが、とにかく自分の気持ちを伝えることは出来た。
そんなことを一枚の表紙の写真から脱線して考えていて、もう一度よく見ると、どうも望月君ではないような感じもする、よく見ると女の子のような体形でもある。時系列もず
れている。この表紙は1976年の12月号で、誰が撮ったのかとみると,三栗万平とある。万平ちゃんが撮ったのならば、望月君ではありえない。三栗君は和歌山でダイビングサービスをしていて、親しかった。万平ちゃんなどと言ったが彼ももう70だろう。きっと元気だろう。この写真で手にしているのは、僕が作ったブロニカマリンに見える。フラッシュガンを付けているが、海蛇を掴んでいる。
この雑誌の本文には、僕のブロニカマリンの広告も掲載されている。広告の住所は今の僕の事務所と同じ第一グリーンハイツだ。
この海の世界の中身について、もう少しあと2回ぐらいブログが書ける。