元テレビ朝日のプロデューサー、長谷川挌さんのお通夜に行ってきた。
今、字を書くのが嫌になっているし、月刊ダイバーの原稿も書かなくてはいけないのだが、どうしても今日、今夜書いておかないといけないように感じている・
格さん(イタルさんとよむのだそうだが、関係者はみなカクさんと呼んでいた。)は、僕が60歳で100mを目指したテレビ番組のプロデューサーだった。
それまで、そんなに口をきいたこともなく、よく知らなかったのだが、潮美とか、僕たちのニュース・ステーションのディレクターをやってくれた乾君などは親しかったようだ。当時の格さんは、スマートで、決断が早く、若い人たちに人気があり、格さんが良いと言えばそれは良い、という感じだった。僕がお酒を飲まないということも、あまりお目にかからなかった理由の一つだったとおもう。その僕が、なぜか、年末だったかのお酒の席に行った時、潮美と一緒にいて格さんと話をした。60歳で100m潜る計画は、それほど、真剣に考えているわけではなく、ちょっと思いついたていどだった。それをその時話をすると、なぜが、「それ行こう」ということになった。企画書も何もない、雑談のようなものだった。もっとも、決まってから、乾君あたりがしっかり企画書を書いたとおもうけれど、。
もっとも、それまでも、決まる企画と言うのは、そんな風に酒の席で雑談的に話していて、プロデューサーのひらめきで決まるものが成功する。重さで勝負するような企画書を書いて、通った記憶がない。
お世話になった番組に関して、ニュース・ステーションに出た。
番組が進行している間も、僕とは直接に長話をしたことがなく、ナレーションを受けてくれた三浦洋一さん (これも惜しいことに若くして亡くなってしまった) が、打ち合わせに来ている時に、あいさつに来ただけだった。そして、放映が終わって全部終わった時に挨拶したが、ほとんど話をしなかった。切れるプロデューサーとはそんなものなのかと思っていた。
そして、僕もテレビの世界からは次第に抜けて、そして、さらに年月がたち、フェイスブックを始めたころ、格さんの名前を見つけた。プロフィールは、その昔の顔ではなかったけれど、さっそく友達になった。だから、親しく、話?をしたのはフェイスブックになってからと言ってもいい。僕が辰巳で撮る写真をいつも「いいね」してくれて、プールの写真がこんなに美しいとは知らなかったとほめてくれた。
そして、何かの時に、原始時代、人類が水中生活をしていたのだというアクア説をもちだしてきた。格さんは、当然、僕がアクア説をしっていると思ってのコメントだったとおもう。ところがなぜか僕はアクア説を知らなかったのだ。さっそく本を買ってしらべた。アクア説は、だイバーにとってはロマンである。
そんなこととがあったうちに、しばらく、フェイスブックが途絶えた。脳の病気だとかで悪化したようだった。これも、フェイスブックで親しくなった.上野さん、彼とは小笠原の鯨で、小笠原で会ったのだが、鯨で亡くなった望月昭伸のカメラで番組をとっていたので、僕の現役時代は一緒に仕事をする機会がなかった。それでも共通の話題があるので、フェイスブックで親しくなった。そして、彼に連れて行ってもらって、厚生年金病院に入院していた格さんを見舞った。お世話になったお礼を申し上げただけで、それほど話が弾んだわけではなかった。
残念なのは、100m潜水時代にもっと話ができていれば、と思ったことだった。
そして、もう一度やや元気になられたということで、お見舞いに、と潮美に声をかけたのだが、スケジュール的に調整ができず、彼女だけ、ディレクターの乾君と一緒にいってしまった。
そして、今日のお通夜、今度も潮美に一緒に行こうと誘ったのだが、時間のやくそくができないとかで、まあそれはそうだ。どこかで待ち合わせて行くというような女ではない。7時頃だというので、僕も7時にお寺に着くように歩いていたら、戻ってくるところでばったり、ものすごい多くの人が来ていたと言葉を交わしただけですれちがった。まあ、月刊ダイバーの原稿の話にならなくてよかったけど。
何という事もないけれど、フェイスブックの効用で、お世話になった格さんに、フェイスブックの上だけだけど、親しくなれた。
格さんのおかげで、僕の60歳の100mが実現した。その100mの事は、やがて月刊ダイバーに書くのだが、そこでは格さんにお礼を言うスペースがない。本当にありがとうございました。僕にとっても、今夜多数集まった人たちにとっても、理想のプロデューサーだったのだと思う。
あわただしく、推敲もしない文章だけれど、今夜のうちにお礼が書きたかった。
今、字を書くのが嫌になっているし、月刊ダイバーの原稿も書かなくてはいけないのだが、どうしても今日、今夜書いておかないといけないように感じている・
格さん(イタルさんとよむのだそうだが、関係者はみなカクさんと呼んでいた。)は、僕が60歳で100mを目指したテレビ番組のプロデューサーだった。
それまで、そんなに口をきいたこともなく、よく知らなかったのだが、潮美とか、僕たちのニュース・ステーションのディレクターをやってくれた乾君などは親しかったようだ。当時の格さんは、スマートで、決断が早く、若い人たちに人気があり、格さんが良いと言えばそれは良い、という感じだった。僕がお酒を飲まないということも、あまりお目にかからなかった理由の一つだったとおもう。その僕が、なぜか、年末だったかのお酒の席に行った時、潮美と一緒にいて格さんと話をした。60歳で100m潜る計画は、それほど、真剣に考えているわけではなく、ちょっと思いついたていどだった。それをその時話をすると、なぜが、「それ行こう」ということになった。企画書も何もない、雑談のようなものだった。もっとも、決まってから、乾君あたりがしっかり企画書を書いたとおもうけれど、。
もっとも、それまでも、決まる企画と言うのは、そんな風に酒の席で雑談的に話していて、プロデューサーのひらめきで決まるものが成功する。重さで勝負するような企画書を書いて、通った記憶がない。
お世話になった番組に関して、ニュース・ステーションに出た。
番組が進行している間も、僕とは直接に長話をしたことがなく、ナレーションを受けてくれた三浦洋一さん (これも惜しいことに若くして亡くなってしまった) が、打ち合わせに来ている時に、あいさつに来ただけだった。そして、放映が終わって全部終わった時に挨拶したが、ほとんど話をしなかった。切れるプロデューサーとはそんなものなのかと思っていた。
そして、僕もテレビの世界からは次第に抜けて、そして、さらに年月がたち、フェイスブックを始めたころ、格さんの名前を見つけた。プロフィールは、その昔の顔ではなかったけれど、さっそく友達になった。だから、親しく、話?をしたのはフェイスブックになってからと言ってもいい。僕が辰巳で撮る写真をいつも「いいね」してくれて、プールの写真がこんなに美しいとは知らなかったとほめてくれた。
そして、何かの時に、原始時代、人類が水中生活をしていたのだというアクア説をもちだしてきた。格さんは、当然、僕がアクア説をしっていると思ってのコメントだったとおもう。ところがなぜか僕はアクア説を知らなかったのだ。さっそく本を買ってしらべた。アクア説は、だイバーにとってはロマンである。
そんなこととがあったうちに、しばらく、フェイスブックが途絶えた。脳の病気だとかで悪化したようだった。これも、フェイスブックで親しくなった.上野さん、彼とは小笠原の鯨で、小笠原で会ったのだが、鯨で亡くなった望月昭伸のカメラで番組をとっていたので、僕の現役時代は一緒に仕事をする機会がなかった。それでも共通の話題があるので、フェイスブックで親しくなった。そして、彼に連れて行ってもらって、厚生年金病院に入院していた格さんを見舞った。お世話になったお礼を申し上げただけで、それほど話が弾んだわけではなかった。
残念なのは、100m潜水時代にもっと話ができていれば、と思ったことだった。
そして、もう一度やや元気になられたということで、お見舞いに、と潮美に声をかけたのだが、スケジュール的に調整ができず、彼女だけ、ディレクターの乾君と一緒にいってしまった。
そして、今日のお通夜、今度も潮美に一緒に行こうと誘ったのだが、時間のやくそくができないとかで、まあそれはそうだ。どこかで待ち合わせて行くというような女ではない。7時頃だというので、僕も7時にお寺に着くように歩いていたら、戻ってくるところでばったり、ものすごい多くの人が来ていたと言葉を交わしただけですれちがった。まあ、月刊ダイバーの原稿の話にならなくてよかったけど。
何という事もないけれど、フェイスブックの効用で、お世話になった格さんに、フェイスブックの上だけだけど、親しくなれた。
格さんのおかげで、僕の60歳の100mが実現した。その100mの事は、やがて月刊ダイバーに書くのだが、そこでは格さんにお礼を言うスペースがない。本当にありがとうございました。僕にとっても、今夜多数集まった人たちにとっても、理想のプロデューサーだったのだと思う。
あわただしく、推敲もしない文章だけれど、今夜のうちにお礼が書きたかった。