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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0917 グラフィティ出版記念会

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ニッポン潜水グラフィティ 出版記念会、リーガルロイヤルホテル東京(早稲田)のダイヤモンドの間で行われた。9月16日 1900-2100である。おいでいただいた人数、まだ正確にはしらされていない。おいでになると通知をいただいた方だけでなく、当日参加でお見えになった方が多く、珊瑚礁研究の大家、目崎さんが見えられ、目崎さんは最後の締めの音頭をとっていただいた。自分としては、多数おいでになった皆様が満足されること、そして全部の方と、お話がしたいという到底無理な望みを持ち、全体としてはどうなのかわからないまま進行した。しかし、雰囲気的には満足していただけたような感じがつかめたからよかったのだろう。

人間、身動きすれば、人と人との間に摩擦が起こる、人間関係と呼ばれるもので、それをすべて解決することもほぼ不可能。僕が居なくなった後のことを見通してそれぞれが、わかっていただけると良いのだが。これは愚痴。

さて、僕は挨拶すると長くなり、講演会になってしまう恐れがあるので、おはなししたいことをまとめて、葉書のようなカードにして、おいでになった皆さんに見ていただいた。

ニッポン潜水グラフィティ、記念会 おいでいただきありがとうございました
 「夢と冒険を追う」などと、ご大層なことを冒頭に書いてしまったものですから、そして、文中で探検という言葉も使っているので、ずっと冒険とは?探検とは?と考え続けて来ました。冒険家として知られている人たちがそれぞれ定義を語っていますが、僕の定義は、冒険=ダイビング です。60歳で100m潜水を実行した時、80歳まで現役で潜りつづけよう、と心に決め、この20年が生涯最大の冒険かもしれないと思ったものでした。また、初めて潜る人の体験ダイビングも冒険です。次に探検ですが、探検は記録して何らかの形で発表することが必須です。だから、僕の職業、水中調査は探検でした。夢とは?抽象的には人さまざまですが、僕にとって、多くのダイバーと同じように、夢=海でした。そして、夢を持つとは、目的、目標を持つことになります。 今の夢と冒険は、①80歳で80m潜る ②日本水中科学協会の継続 ③東京港・お台場に江戸前の海を再現すること
2014 0916 須賀次郎 

 そして、ご挨拶の方は、お礼の言葉だけにするつもりにしていた。

 まずおいでになった皆様、応援してくださる皆様へのお礼、月刊ダイバー、成山堂書店へのお礼、この会を企画して実行してくださった、白井常雄、(彼が手配してバックアップしてくれなかったら、何もできなかった。)久保さん(中心になってすべてを取り仕切り、会場での司会もやってくださった。)中尾先生(ごあいさつ文を用意してくださったのだが、この僕の挨拶と全く同じ?だったために困惑させてしまった。まあ、先生の事だから、おわりに良いスピーチをしていただいたけど)石川さん、吉田君は、準備と当日のもろもろをやってくださった)
 そして、僕の相棒だった鶴町、彼は居なくなってしまったのだが、その代理で、奥さんの雅子さんが、僕たちの主要メンバー、そして娘の映美がブックマーカーを作って、配布してくれた。そのお礼。
 そんなことを述べた。

 主賓、全日本潜水連盟玉置名誉会長の挨拶、
 潮美から花束をもらった。どうという事ではないが、これはセレモニー、吉田章先生からも、花束をいただいた。これは驚き、吉田先生にはさんざん世話になっている。のに、逆に僕がいただく。恐縮する他ない。社会スポーツセンターの瀬田さん、順天堂の河合先生もおいでいただいた。本来ならば来賓のあいさつをいただく方たちだが、今回の来賓あいさつはグラフィティ本文に直接関連(出てきた)のある方たちから、いただかうことにした。


 TSP,東京サウンドプロダクション社長の三上社長から、大きな花をいただいた。女性陣が分けて持ち帰っても十分なほど大きい。三上さんは今度連載が始まる「グラフィティその後」の第一弾、川口探検隊、のウミヘビの島、で最初にお目にかかった。以後、60歳の100mでも音声担当としてお世話になった。彼は、男らしい男だ。今後もお世話になる予定。

東京海洋大学潜水部

     僕より一学年上、の竹下先輩、海上自衛隊の水中処分隊隊長、海底居住計画のリーダーなど赫赫たる武勲?

しばらく歓談してから、来賓のあいさつ、これは、歓談中の人が多く、頭を悩ますのだが、僕が真っ直ぐに受け止めればよいこと。その僕の耳が遠いために、会場のマイクがどうも音が小さいようだった。
東亜潜水機の佐野社長も来てくれて、お話をしてくれた。脇水輝之のお父さんもお話ししてくれた。嬉しかったのは東京海洋大学潜水部OB会長の下元君が、現役を引き連れて、あいさつしてくれたこと、僕の12月シンポジウムのテーマの一つが学連の監督、コーチの連携と現役の集まりでしかない現在の学連との二重構造の改善、だから、海洋大学潜水部がその一翼を担ってもらえると助かる。僕といっしょに潜水部を立ち上げた、一級先輩の竹下先輩は、僕の80歳80m潜水をアッピールしてくれた。
三宅島の潜水部OB西野君も来てくれて、僕と彼は初対面、フリーダイビングの岡本美鈴に弟子入りして、60歳で40mのフリーダイビング記録を目指す。海洋大学現OB会と知己がなかったらしいのだが、引き合わせることができた。

小学校時代の親友、吉沢、大学時代一緒に下宿していた城久 も来てくれた。もうこれで逢えないかもしれないと思う。しかし、話すことはあまりない。手を握り合うだけ。


   左から、誰だか不明、佐野礼子さん、大方君、そのアシスタント、ダイブドリームの森田君

   あやの さん 幸輝君、久保君    
福田克之、鈴木あやの 夫妻は生まれて三カ月の幸輝君を連れてきてくれた。最年少。
撮影機材については福田君がたよりだ。

中川隆も超多忙(結構なこと)の合間をぬって、沖縄での相棒の横井君まで誘って来てくれた。横井君は少し早く会場にきてくれたので、話し込む機会ができた。彼の沖縄のダイビング界に傾ける努力、そして沖縄の旧知についての話を聞くことができた。僕の知らないことが沢山ある(当然だけど)。水産大学OBで中川と肩を並べる古島さんも来てくれて、中川と仲良く話しているのを見るのはうれしい。そして、古い古い友人であるカメラマンの大方洋二、なぜか美人のアシスタントを連れている。

気になったのは、新日本海事元社長の斎藤さんも来ていただけたが、この前、2012年のシンポジウムの時はお元気で、ご挨拶がお願いできたが、今度はずいぶん衰えられて杖を引いてきてくださった。お礼を申し上げる他何もできない。

僕の龍泉洞のプロデューサーであった、元NHK,たしか政策局長、NHK出版の社長だった大橋さんも来ていただけた。一言二言交わすだけしか時間が無いのがつらい。

元共同通信の新藤さんは、最近、石川宅宴会の常連になっているが、来てくれて、元電通映画の神領プロデューサーと親しく話をしているようだった。神領さんと言えば、JAUS会員で、元海中公園センター、今はイデアの藤原秀一さんの娘の南海子さんがくることになっていて、まえに神領さんにお願いしてアルバイトをさせてもらったことがある。南海子さんを見つけることができなかった。きっとずいぶん変わってしまったのでわからなかったのではないだろうか。見知らない派手な美人が一人いたので、もしかしたらと思っていたが、声をかけてもらわないとわからない。今回の失敗のひとつは、受付に居て、顔と名前を結び付けて置かなかったことだ。

NAUI社長の和泉さんとは、たびたびお目にかかっていたのだが、今回初めて握手することができた。

JUDFでは、玉置名誉会長、山下専務理事がきてくれて、玉置さんは主賓のご挨拶をしてくれた。中村君はいつも通りで良いのだが、 宇野収君とはもっと話したかった。通知を差し上げたが住所が違っていたとかでもどってきてしまった。せめてその確認をすれば良かったのだが。

文部科学省関連では、初等中等教育局の瀧田さんが見えられたが、送れておいでになったとかで、最後にご挨拶が少しできて、大学の潜水クラブの事をお話しした。瀧田さんの前任者である落合先生もお見えになったが、ご挨拶だけしかできなかった。そのまた前任の中谷先生もこられたが、中谷先生とはいつも通り。

JAMSTEC関連では、元アクアノートの山田さんがおいでになり、アクアノート時代の上司?だった竹下先輩ともお引き合わせできたし、すこしばかりお話もできた。お世話になった米倉さんもおいでだったが、ほとんど話ができなかった。

図鑑の類をたくさん出されていて、イカタコの権威である奥谷大先輩もきてくださり、少し話ができた。

神津島の鈴木郁夫も来てくれた。これも久方ぶり、郁夫も70歳になったとか、月日は夢のように流れる。安森が亡くなったのを知らなかった。安森と鈴木は東亜時代の僕の部下で、安森も生きていれば来てくれたのに。

鬼怒川アクアの内田さんとはいつもお話ししているのでご挨拶だけ、
フィッシュアイの大村さんには、ライトを買いたいのでお話ししたかったが、にげられてしまった。
ダイブウエイズの武田さん手島さんは親戚のようなものだから、次のプロジェクトのお願いを軽くしただけ。
ゼロの五月女さんも同じく、あいさつと協力のお願いをした。

元PADI社長の宮下さんは、現在は東亜潜水機を通じての仲、昔彼が学生時代に東亜に居た僕のところに遊びに来ていた話をした。 松浦さんは現在最大手のダイビングショップの一つである。マレア・クリエイトの偉い人なので、もっと話をしたかったが、挨拶だけしかできなかった。

慶応大学の萩原教授、ダイビング関係ではパパモン先生、国際政治学の大家だけど、前からお願いしていた「ゴジラとアトム」という著書をいただいた。論文の形でゴジラやアトムを論じたもので、ゴジラについては良くもここまで研究したものだと感心しつつ読んだ。まだ半ばだけど。

日テレ関係では、プロデューサーの菊池剛太君、北海道摩周湖の番組で、日テレ入社直後の菊池君がADできた。沢山、一緒に仕事をしたように記憶しているのだが、一緒だったのは、その時だけだと断言、今は日テレ子会社の日テレ7という製作会社の社長だとか。

東京新聞の藤原さんとは久し振り、その上司だという星野さんと一緒に来てくれた。次のお台場プロジェクトについて、お話しした。まだ企画書もかいていない。

TDCJ テクニカルダイビングセンターという名刺の石井隆さん、僕の1963年の100m潜水のビデオを上映したが、その途中で、僕のそばに来て、空気で100m潜って、あんな減圧停止では減圧症になってしまうと質問する。当時はこの減圧表しかなかったし、大部分の人はこの米国海軍の減圧表で潜り、そのうちで90%の人は減圧症にはならないで無事だったとお話しした。

意外なお客様はヴィジュアル・フォークロアの北村監督がお見えになったことだ。僕に挨拶だけされてお帰りになったが、40年前に随分撮影の仕事を一緒にやった。沖縄久高島の撮影を手伝ったのだが、久高島についてはまだ撮りつづけているとか、北村さんはチョンモランマの撮影でも有名である。僕の冒険と探検のメッセージをどのように読まれただろうか。冒険、探検についてもう一度、もう少し深くお話ししたかった。

娘の潮美の亭主という事は僕の義理の息子になるのだが、柴田君も機嫌よく来てくれて、柴田君には、フリスビーのビデオクリップのバックミュージック、ハワイアンをお願いした。柴田君は敏腕のベテラン編集者で、潮美編集の「ニッポン潜水グラフィティ」へのアドバイスもしてくれたし、法政アクアクラブの元OB会長で、そして、趣味でハワイアンバンドをしている。 

   そろそろお開き、 神領さん、柴田君 米沢君  潮美

潜水医学、60歳の100mでお世話になった後藤與四之先生もお見えになり、僕の100mの映像を見てくれていた。僕と舘石さんの失神は、窒素酔いではなく、酸素中毒だったろうと前におっしゃっていた。今回はその話をする時間が無かった。

 最後は身内、JAUSの現中心である山本徹君、国方君、米沢君、倉田君、増井君、斎藤真由美、金丸監督、清水まみ、寺内羊子、早崎君、小俣社長、長口竜君、本田君、全部書いていると、たいへんなので省略。

100人を超えるご来場の方全部とお話しすることはできなかったし、お話ししたことのすべてを書くこともできないでも忘れないうちに頭の中にあることだけは書き写しておかないと消えてしまう。僕は全部の方と長く話をすること、願っては居てもできないが、お客様どうしの歓談もあるのだから、きっと何か、有意義なことがうまれるだろう。

なお、ここに示した画像はすべてAEEで撮影している、AEE販売の会社社長、戸高さんもお見えになっていただけだ。このような場の記念撮影はこれで十分。

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