沢木耕太郎の深夜特急 文庫で全六冊の6まで来て、イタリアのジェノバにいる。この本を読むの、前に読んだ気がするのではなくて、はっきり二度目だとわかる。好きな旅行記、好きな文章だ。そして、この夏、僕はイタリアに行く。これを機会に、その周辺の事を読んでおこうとも思った。日本のヒッピーの聖典ともいえる旅行記の旅行を沢木耕太郎がしたのは、26歳から28歳のようで、26歳ということは文中によく出てくる。26歳から27歳、まだまだ将来、未来はたっぷりあって、世の中のこと、自分の生き方も模索中ではあってもだいたい輪郭は見えている。実は見えていないのだけれど、見えているように思える。
その26歳から28歳、僕は100m潜水という意味があるようなないような冒険に挑み、その話が今度出版した「ニッポン潜水グラフィティ」の中心になっている。その前の年だと思う娘の潮美が生まれている。そのあたりの家族のこと、生活のことをもっと書き込んだら、もっといいノンフィクションになったのかなあ、と思わないではない。しかし、それは出来ない。幸せだったことを振り返るのは悲しい。海の中の事とか、冒険とかは書ける。
そのころ、オリンパスペンで撮っていた。たくさん撮ったのに、渚の波にさらわれて、残ったのはフイルム5本分くらい。
昨日だったか、できた本をもって、沿岸生態系リサーチセンターという大仰な、しかしわかりやすい社名の会社をやっている宮内(JAUSの理事)のところにいった。ぱらぱらとみて、読みやすい良い本だとほめる。そして、この本は潮美が書いたものだろうという。いや、間違いなく僕が書いた。月刊ダイバー連載中、書き直しの連続で、鬼のような編集者ではあったが、間違いなく僕が書いた。しかし、宮内は間違いなく潮美の文体であり、僕とは違うという。もちろん編集者としてのリライトもしていて。そのリライトが気に入らなくて、争う(心の中で)こともあったのだが。宮内は僕のブログをよく読んでいるらしい。だから、このブログも読むだろう。ありがたい愛読者なのだが、ブログなんかを書くやつは馬鹿だともいう。それはそうだ。原稿料なんてもらえないのに、書く。日記を書くやつはもっとバカだと反撃しようとしたけれど、宮内はもちろん日記も書いていないだろうから、そうだ、といわれて、日記を書く奴とブログを書くやつは馬鹿さ加減で優劣つけがたいという落ちになってしまうだろうと思ったから黙った。
書いたのは間違いもなく僕だが、この本を作ったのは潮美である。あとがきにも謝辞をのべた。
その潮美が生まれたころのころなど、書けない。もしかして、いつの日か、そんな日が来るほど僕の人生は残されていないけれど、もしも書けたら書きたい気もする。
その26歳から28歳、僕は100m潜水という意味があるようなないような冒険に挑み、その話が今度出版した「ニッポン潜水グラフィティ」の中心になっている。その前の年だと思う娘の潮美が生まれている。そのあたりの家族のこと、生活のことをもっと書き込んだら、もっといいノンフィクションになったのかなあ、と思わないではない。しかし、それは出来ない。幸せだったことを振り返るのは悲しい。海の中の事とか、冒険とかは書ける。
そのころ、オリンパスペンで撮っていた。たくさん撮ったのに、渚の波にさらわれて、残ったのはフイルム5本分くらい。
昨日だったか、できた本をもって、沿岸生態系リサーチセンターという大仰な、しかしわかりやすい社名の会社をやっている宮内(JAUSの理事)のところにいった。ぱらぱらとみて、読みやすい良い本だとほめる。そして、この本は潮美が書いたものだろうという。いや、間違いなく僕が書いた。月刊ダイバー連載中、書き直しの連続で、鬼のような編集者ではあったが、間違いなく僕が書いた。しかし、宮内は間違いなく潮美の文体であり、僕とは違うという。もちろん編集者としてのリライトもしていて。そのリライトが気に入らなくて、争う(心の中で)こともあったのだが。宮内は僕のブログをよく読んでいるらしい。だから、このブログも読むだろう。ありがたい愛読者なのだが、ブログなんかを書くやつは馬鹿だともいう。それはそうだ。原稿料なんてもらえないのに、書く。日記を書くやつはもっとバカだと反撃しようとしたけれど、宮内はもちろん日記も書いていないだろうから、そうだ、といわれて、日記を書く奴とブログを書くやつは馬鹿さ加減で優劣つけがたいという落ちになってしまうだろうと思ったから黙った。
書いたのは間違いもなく僕だが、この本を作ったのは潮美である。あとがきにも謝辞をのべた。
その潮美が生まれたころのころなど、書けない。もしかして、いつの日か、そんな日が来るほど僕の人生は残されていないけれど、もしも書けたら書きたい気もする。