トウキョウアクアラング・サービスのオーナーは、初代が青木大二さん、二代目が内藤君、三代目が浅芽君、そして四代が島田君になる。三代目までは親交があったのに四代目とは没交渉ではさびしい。幸い、島田君はフェイスブックのお友達になったので、そして、今度のニッポン潜水グラフィティでも青木さんをかなり書いたので、訪問することにした。
今書いているトウキョウアクアラングサービスのことは、ニッポン潜水グラフィティ外伝とでもいうべきもので、外伝を読んだらぜひ本編も買って読んでください。
申し込みは、suga@suga.name までお願いいたします。
さて、まず初代の青木大二さん、この人のことはニッポン潜水グラフィティにかなり書いたが、外伝だから、、、、
これは、彼の著作 「アクアラング入門」(1968 の表紙裏の写真だが、蝶ネクタイがきまっている。およそ、ダイバーらしからぬ風体だ。そう、彼は、下北沢でバーのオーナーをやっていた。1962年だったか、バーの深夜営業が禁止されることになった。これをもってバーが儲かることはもうなくなったと彼は見切りをつけた。バーはその後も繁栄したから、やめることもなかったのだろうが、とにかく大儲けの時代は終わったと彼は判断した。
ある日、僕とアシスタントの安森が、コンプレッサーで空気を詰めていると、社長に呼ばれた。行くと、丸い人がいた。社長に紹介された。この人が今度アクアラングを売りたいというので話に乗ってやってくれという。どの視点から観察してもこの人はダイバーとは思えない。漁師でもない。海の男ではない。なぜこの人が、と思った。青木大二さんとの出会いである。
当然のことながら、僕はやめた方が良いと忠告した。以後僕がやめた方が良いと忠告した人の大半は成功しているが、その第一号だった。
青木さんは言う。「須賀さん、あなたはアクアラングの専門家でしょうが、僕は「お金儲けの専門家なのです。大丈夫です。儲けます。」僕はこの時に初めてお金儲けの専門家という言葉を聞いた。後に僕たちは青木語録というのを作ろうとした。作らなかったので、今そのほとんどを忘れてしまったが、惜しいことをした。いくつか覚えているので紹介しよう。グラフィティでは、順序立てて記憶を引き出して書くことができたが、外伝になると、もうだめで、いくつもの話の前後がもうわからなくなっている。
青木さんは陸上の鉄砲撃ちが趣味だった。トウキョウアクアラングサービスのキャッチフレーズの一つ、「もう陸上の狩猟は終わりました。もう日本の陸上には大物は居ません。海は大物の宝庫です。これからの狩猟は水中です。」
だから、当然、青木さんのダイビングクラブは狩猟クラブである。その頃のダイビングショップはクラブと並立している。クラブなのかショップなのか定かではない。そのショップでダイビングを習った人は、たいていの場合そのクラブに入る。クラブには、会長という人が居る。ショップオーナーが会長になっても良いのだが、商業政策上、別に会長が居た方が有利である。だから、クラブを作るとたいていの場合会長をつくる。お金持ちで、一番いいお得意さんか、あるいは一番面倒見の良い人を会長にしてしまう。
青木さんのクラブの会長は、松沢さんという水道工事屋さんだった。1967年に日本潜水会ができたとき、松沢さんに事務局長をおねがいした。その松沢さんも泳げないのだ。その松田さんの親友で大野さんという鉄工場経営者もいる。彼が副会長でこの人は足を引きづっていて、そしてやはり泳げない。青木さんも泳げない。
後に「泳げなくても潜れます」というキャッチフレーズがどここの団体が掲げた。その時、日本潜水会は、あれはとんでもないと言ったが、何、自分たちの仲間は泳げないハンターであふれていたのだ。ここで泳げないというのはフィン・マスクを外したら泳げないという意味で、フィンを履いて魚を殺すことについては、みな一流であった。
話はプッツンプッツンと飛ぶけれど、どうでもいい話、本当にグラフィティ(落書き)をしているので、思い出したことを書いている。このまま続ける。
青木さんの「アクアラング入門」が1968年、僕たちが日本潜水会を結成してスピアフィッシングをやめ、水中銃をカメラに持ち替えたのが1967年だ。しかし、青木さんの本では堂々とアクアラングで潜りながら魚を突いている。挿入された写真のほとんどが、水中銃を片手にしている。
どういうことなのだ。といったってだめだ。ニコニコと笑顔を返されるだけだ。やがて、全日本潜水連盟を作るのだが、その全日本潜水連盟も関西支部はスピアフィッシングをやめようというそぶりさえ見せない。漁師が、漁業組合がOKならば、OKなのだ。スピアフィッシングをやる人は絶交というわけには行かない。青木さんのトウキョウアクアラングサービスは、僕の勤務先東亜潜水機の特約代理店で、売り上げが大きい。
青木さんのセールストーク、2台のレギュレータを取り出して、「これは、東亜潜水機の須賀さんという日本一の技術者が作ったものです。2万円です。こちらは世界の名器、アクアマスター(日本アクアラング)で2万八千円です。東亜でも大丈夫ですが、命の惜しい人にはアクアマスターをおすすめしています。」さてどっちだ。50:50で、命の惜しくない人が50%だ。
だから、僕は自分では、1967年以来スピアフィッシングは決してやらなかったが、周辺についてはグレイにせざるを得なかった。
青木さんはあるとき、ふるいつきたくなるような美女ともぐっているといったけど、これなのか?
この程度だと、今、辰巳で石を投げたら、当たるな。
しかしながら、世の中の流れ、そして新しい若いダイバーたちはスピアフィッシングはやらない。スピアフィッシングをやらないことが前提で、現在のダイビングスポットが成立している。日本潜水会で僕たちが決めた決議は正しかったのだ。
青木さんがトウキョウアクアラングサービスを2代目の内藤君に譲ったのがいつだったのかさだかにおぼえてはいない。仮にだけれど1975年の沖縄海洋博の時にはもうやめていたのではないかと思う。2代目の内藤さんに聞けば正確なことがわかるが、もはや彼もいない。三代目の浅芽君に聞きに行けば分かるかもしれないけれど、どうでもいい。
もしかしたら、スピアフィッシングの中止が、青木さんにこの商売の見切りをつけさせたのかもしれない。深夜営業禁止でバーに見切りをつけたように。
青木さんはアクアラングをやめて、ボートを販売する青木ボートというお店を環八沿いに作った。その後さらに何年か経ち、僕がヤマハのボートを改造して調査撮影の道具を作ろうとしたとき、青木さんの紹介でヤマハボートに行った。驚いたことに青木さんの紹介だというだけで、下にもおかないサービスをしてくれる。聞けば、青木さんは中古ボートのトップセールスなのだという。中古ボートを売るのもアクアラングを一台売るのも、ほぼ同じ労力とするならば、中古ボートの方が利幅が大きいはず。青木さんはダイビングの専門家ではなくて、お金儲けの専門家だったのだ。青木さんにお目にかかったのは、そのボートのお世話をしてもらった時が最後だったとおもう。その後、日本潜水会が1982年から親睦のパーティを毎年行うようになり、お誘いしたが、まだ海への情熱は消えたわけではないから陰ながら応援しますという返事をもらった。
そして、風のうわさに聞くと、ボートやさんもやめて、パラオで焼き物を焼いていて、芸術家になったと聞いた。そして少し前に現在のトウキョウアクアラングサービスの島田さんに、青木さんが何年か前に亡くなられたことを聞いた。芸術家をやっていた時に会えなかったのがとても残念だ。
そして、僕はダイビングよりほかに生きる道がない。
今書いているトウキョウアクアラングサービスのことは、ニッポン潜水グラフィティ外伝とでもいうべきもので、外伝を読んだらぜひ本編も買って読んでください。
申し込みは、suga@suga.name までお願いいたします。
さて、まず初代の青木大二さん、この人のことはニッポン潜水グラフィティにかなり書いたが、外伝だから、、、、
これは、彼の著作 「アクアラング入門」(1968 の表紙裏の写真だが、蝶ネクタイがきまっている。およそ、ダイバーらしからぬ風体だ。そう、彼は、下北沢でバーのオーナーをやっていた。1962年だったか、バーの深夜営業が禁止されることになった。これをもってバーが儲かることはもうなくなったと彼は見切りをつけた。バーはその後も繁栄したから、やめることもなかったのだろうが、とにかく大儲けの時代は終わったと彼は判断した。
ある日、僕とアシスタントの安森が、コンプレッサーで空気を詰めていると、社長に呼ばれた。行くと、丸い人がいた。社長に紹介された。この人が今度アクアラングを売りたいというので話に乗ってやってくれという。どの視点から観察してもこの人はダイバーとは思えない。漁師でもない。海の男ではない。なぜこの人が、と思った。青木大二さんとの出会いである。
当然のことながら、僕はやめた方が良いと忠告した。以後僕がやめた方が良いと忠告した人の大半は成功しているが、その第一号だった。
青木さんは言う。「須賀さん、あなたはアクアラングの専門家でしょうが、僕は「お金儲けの専門家なのです。大丈夫です。儲けます。」僕はこの時に初めてお金儲けの専門家という言葉を聞いた。後に僕たちは青木語録というのを作ろうとした。作らなかったので、今そのほとんどを忘れてしまったが、惜しいことをした。いくつか覚えているので紹介しよう。グラフィティでは、順序立てて記憶を引き出して書くことができたが、外伝になると、もうだめで、いくつもの話の前後がもうわからなくなっている。
青木さんは陸上の鉄砲撃ちが趣味だった。トウキョウアクアラングサービスのキャッチフレーズの一つ、「もう陸上の狩猟は終わりました。もう日本の陸上には大物は居ません。海は大物の宝庫です。これからの狩猟は水中です。」
だから、当然、青木さんのダイビングクラブは狩猟クラブである。その頃のダイビングショップはクラブと並立している。クラブなのかショップなのか定かではない。そのショップでダイビングを習った人は、たいていの場合そのクラブに入る。クラブには、会長という人が居る。ショップオーナーが会長になっても良いのだが、商業政策上、別に会長が居た方が有利である。だから、クラブを作るとたいていの場合会長をつくる。お金持ちで、一番いいお得意さんか、あるいは一番面倒見の良い人を会長にしてしまう。
青木さんのクラブの会長は、松沢さんという水道工事屋さんだった。1967年に日本潜水会ができたとき、松沢さんに事務局長をおねがいした。その松沢さんも泳げないのだ。その松田さんの親友で大野さんという鉄工場経営者もいる。彼が副会長でこの人は足を引きづっていて、そしてやはり泳げない。青木さんも泳げない。
後に「泳げなくても潜れます」というキャッチフレーズがどここの団体が掲げた。その時、日本潜水会は、あれはとんでもないと言ったが、何、自分たちの仲間は泳げないハンターであふれていたのだ。ここで泳げないというのはフィン・マスクを外したら泳げないという意味で、フィンを履いて魚を殺すことについては、みな一流であった。
話はプッツンプッツンと飛ぶけれど、どうでもいい話、本当にグラフィティ(落書き)をしているので、思い出したことを書いている。このまま続ける。
青木さんの「アクアラング入門」が1968年、僕たちが日本潜水会を結成してスピアフィッシングをやめ、水中銃をカメラに持ち替えたのが1967年だ。しかし、青木さんの本では堂々とアクアラングで潜りながら魚を突いている。挿入された写真のほとんどが、水中銃を片手にしている。
どういうことなのだ。といったってだめだ。ニコニコと笑顔を返されるだけだ。やがて、全日本潜水連盟を作るのだが、その全日本潜水連盟も関西支部はスピアフィッシングをやめようというそぶりさえ見せない。漁師が、漁業組合がOKならば、OKなのだ。スピアフィッシングをやる人は絶交というわけには行かない。青木さんのトウキョウアクアラングサービスは、僕の勤務先東亜潜水機の特約代理店で、売り上げが大きい。
青木さんのセールストーク、2台のレギュレータを取り出して、「これは、東亜潜水機の須賀さんという日本一の技術者が作ったものです。2万円です。こちらは世界の名器、アクアマスター(日本アクアラング)で2万八千円です。東亜でも大丈夫ですが、命の惜しい人にはアクアマスターをおすすめしています。」さてどっちだ。50:50で、命の惜しくない人が50%だ。
だから、僕は自分では、1967年以来スピアフィッシングは決してやらなかったが、周辺についてはグレイにせざるを得なかった。
青木さんはあるとき、ふるいつきたくなるような美女ともぐっているといったけど、これなのか?
この程度だと、今、辰巳で石を投げたら、当たるな。
しかしながら、世の中の流れ、そして新しい若いダイバーたちはスピアフィッシングはやらない。スピアフィッシングをやらないことが前提で、現在のダイビングスポットが成立している。日本潜水会で僕たちが決めた決議は正しかったのだ。
青木さんがトウキョウアクアラングサービスを2代目の内藤君に譲ったのがいつだったのかさだかにおぼえてはいない。仮にだけれど1975年の沖縄海洋博の時にはもうやめていたのではないかと思う。2代目の内藤さんに聞けば正確なことがわかるが、もはや彼もいない。三代目の浅芽君に聞きに行けば分かるかもしれないけれど、どうでもいい。
もしかしたら、スピアフィッシングの中止が、青木さんにこの商売の見切りをつけさせたのかもしれない。深夜営業禁止でバーに見切りをつけたように。
青木さんはアクアラングをやめて、ボートを販売する青木ボートというお店を環八沿いに作った。その後さらに何年か経ち、僕がヤマハのボートを改造して調査撮影の道具を作ろうとしたとき、青木さんの紹介でヤマハボートに行った。驚いたことに青木さんの紹介だというだけで、下にもおかないサービスをしてくれる。聞けば、青木さんは中古ボートのトップセールスなのだという。中古ボートを売るのもアクアラングを一台売るのも、ほぼ同じ労力とするならば、中古ボートの方が利幅が大きいはず。青木さんはダイビングの専門家ではなくて、お金儲けの専門家だったのだ。青木さんにお目にかかったのは、そのボートのお世話をしてもらった時が最後だったとおもう。その後、日本潜水会が1982年から親睦のパーティを毎年行うようになり、お誘いしたが、まだ海への情熱は消えたわけではないから陰ながら応援しますという返事をもらった。
そして、風のうわさに聞くと、ボートやさんもやめて、パラオで焼き物を焼いていて、芸術家になったと聞いた。そして少し前に現在のトウキョウアクアラングサービスの島田さんに、青木さんが何年か前に亡くなられたことを聞いた。芸術家をやっていた時に会えなかったのがとても残念だ。
そして、僕はダイビングよりほかに生きる道がない。