0627 後藤道夫を偲ぶ会、を代官山花壇でやった。30名を予定していたのだば、36名を集め、椅子の数が足りなかった。
この会は日本潜水会とはタイトルに出さなかったのだが、僕としては日本潜水会だった。日本潜水会は1967年に誕生し、1974年には全日本潜水連盟の関東支部に指導業務を移行して、とりあえずの使命を終えた。そして、1982年に、再び日本潜水会のダイバー仲間が集まりあおうということになり、指導組織ではない何もしないただ親しく助け合い、集まりあおうというクラブとして再スタートした。
それ以来2008年まで、毎年一度、忘年会で集まった。日本水中科学協会もその中から生まれたのだが、この集まりは停止した。水中科学協会は水中活動を行う活動団体として成長を続けているが、古い友人が集うクラブではなくなった。そして、今(昨夜)集まると、心が休まり楽しい。本当に時を越えた友情、この輪を大事にするとともに、拡大してゆくことは、水中科学協会の活動とは違った意味で、ダイバーのためになる。何より、自分のためになり、自分と同じような考えをもつ古い友達のためになる。自分が死ぬ前に復活させておけば、後藤道夫、浅見国治、僕、そしてあの時代をともにダイビングですごした仲間たちが支えあいそして、後藤とか浅見と僕の友情と同じような友情を今も続けている友達との友情を持続させ、広げ続けて行くことは意味があるのではないかと思う。
理屈はともかくとして、楽しかったのだ。そしてみんなで再び助け合い友情を深めるクラブとして、之で終わりにしたくない。
お台場に出かける寸前なので写真をえらんでいるじかんがない。
それに司会者の視点からだけしか記念写真をとっていない。集合写真を撮ろうなどという知恵はわかなかったし、その時間も無かった。こんどからそのことを必ずやろう。
失われたもの、過ぎ去ったものへの想いはただのノスタルジーで現在にはよみがえらないものなのだろうか。蘇らないとわかってはいるけれど、生涯変わらないという友情、そしてそれを基本にした集まりが快く、どれほど、人の心を慰めて、明日への心の糧になるものなのだろうか。1967年の日本潜水会の指導員合宿以来、それは、僕の心の支えだった。もちろんそれは僕たちだけのものではなく、おそらく、NAUIの鶴町や村田さんの過ごしたインストラクター講習、法政大学のOB会でも、どこでもあることのようにおもえる。そしてそれらは共通のスピリッツなのだとおもう。それを一括するようなシンボル、集まりをつくり、それをさらに拡大しようとすることは意味がないだろうか。それには指導団体、業界とかもちろんJAUSもなにもない。だれでも、ダイバーである、あるいはダイバーであった、熱い心をもっている、あるいは持っていたことがあれば、集まって話した時に通じ合える、昔の事、今のこと、そしてこれから先のことも語り合える、オープンマインドなクラブを日本潜水会のメモリアルとして作り上げたいと、27日の集まりを司会して居ながら考え続けていた。
本当にこれが僕の最後の仕事になるかもしれない。そのことが先に世を去って行った友達、後藤道を、浅見国治、数え上げれば際限もない友達のこの世での輪、メモリアルになるのではないかと思う。
では、日本潜水会とはどんなクラブであったのか、1982年からの呼びかけ、連絡の文書が残っているので紹介してゆくことで、これからさきのことを語ろうと思う。
この会は日本潜水会とはタイトルに出さなかったのだが、僕としては日本潜水会だった。日本潜水会は1967年に誕生し、1974年には全日本潜水連盟の関東支部に指導業務を移行して、とりあえずの使命を終えた。そして、1982年に、再び日本潜水会のダイバー仲間が集まりあおうということになり、指導組織ではない何もしないただ親しく助け合い、集まりあおうというクラブとして再スタートした。
それ以来2008年まで、毎年一度、忘年会で集まった。日本水中科学協会もその中から生まれたのだが、この集まりは停止した。水中科学協会は水中活動を行う活動団体として成長を続けているが、古い友人が集うクラブではなくなった。そして、今(昨夜)集まると、心が休まり楽しい。本当に時を越えた友情、この輪を大事にするとともに、拡大してゆくことは、水中科学協会の活動とは違った意味で、ダイバーのためになる。何より、自分のためになり、自分と同じような考えをもつ古い友達のためになる。自分が死ぬ前に復活させておけば、後藤道夫、浅見国治、僕、そしてあの時代をともにダイビングですごした仲間たちが支えあいそして、後藤とか浅見と僕の友情と同じような友情を今も続けている友達との友情を持続させ、広げ続けて行くことは意味があるのではないかと思う。
理屈はともかくとして、楽しかったのだ。そしてみんなで再び助け合い友情を深めるクラブとして、之で終わりにしたくない。
お台場に出かける寸前なので写真をえらんでいるじかんがない。
それに司会者の視点からだけしか記念写真をとっていない。集合写真を撮ろうなどという知恵はわかなかったし、その時間も無かった。こんどからそのことを必ずやろう。
失われたもの、過ぎ去ったものへの想いはただのノスタルジーで現在にはよみがえらないものなのだろうか。蘇らないとわかってはいるけれど、生涯変わらないという友情、そしてそれを基本にした集まりが快く、どれほど、人の心を慰めて、明日への心の糧になるものなのだろうか。1967年の日本潜水会の指導員合宿以来、それは、僕の心の支えだった。もちろんそれは僕たちだけのものではなく、おそらく、NAUIの鶴町や村田さんの過ごしたインストラクター講習、法政大学のOB会でも、どこでもあることのようにおもえる。そしてそれらは共通のスピリッツなのだとおもう。それを一括するようなシンボル、集まりをつくり、それをさらに拡大しようとすることは意味がないだろうか。それには指導団体、業界とかもちろんJAUSもなにもない。だれでも、ダイバーである、あるいはダイバーであった、熱い心をもっている、あるいは持っていたことがあれば、集まって話した時に通じ合える、昔の事、今のこと、そしてこれから先のことも語り合える、オープンマインドなクラブを日本潜水会のメモリアルとして作り上げたいと、27日の集まりを司会して居ながら考え続けていた。
本当にこれが僕の最後の仕事になるかもしれない。そのことが先に世を去って行った友達、後藤道を、浅見国治、数え上げれば際限もない友達のこの世での輪、メモリアルになるのではないかと思う。
では、日本潜水会とはどんなクラブであったのか、1982年からの呼びかけ、連絡の文書が残っているので紹介してゆくことで、これからさきのことを語ろうと思う。