グラフィティ校正の最終、これで本になってしまう。いくつかの間違いがあった。その一は、お世話になり、足を向けて寝られない東亜の専務佐野さん、出身校を芝浦工大にしていた。息子の現社長佐野弘幸さんが芝工大だし、東亜の時の僕の相棒のようだった石崎が芝工大、そして、その弘幸君が創立のようなアクアラング部と親しくしているものだから、すっかりまちがえていた。昨日佐野弘幸社長に80-80のお願いと、本を買ってくださいというお願いに行き、間違っていると指摘された。彼は月間ダイバーの連載をしっかり読んでくれていたのだ。面白いとも言ってくれた。
佐野専務の出身校は千葉大学の工学部で、実は舘石昭さんもその同じ工専のデザイン学科だとかで、同窓であることを語り合っていたのを横で聞いていたのに忘れてしまった。そのことを除いて、よく昔のことを覚えているとほめてくれた。しかし、その昔のことも、弘幸社長は、僕が東亜を去ったときは小学高学年で、会社に来ていたことはほとんどなかった。もしかしたら、今度出すグラフィティが東亜の社史になるのではないか、などと思っている。
そのグラフィティに書き、カットされてしまったことがある。僕が入社する数年前までの東亜は土日がなく祝祭日もなく、休みは盆に正月そして藪入りだったと書いたところまでは乗っていたかと思う。そのあとのフレーズ、休日はなかったけれど、春はお花見、夏は海水浴、秋は温泉旅行、忘年会、新年会がある。つまり有給休暇などはとうていのぞめなかったけれど、会社が費用もちのリクリエーションがあり、親睦を深めていたのだ。古き(良き?)時代の日本の零細企業、お店(おたな)は、そういうものだった。
そこに入社した若き日の僕は、そのころはすでに土日の休日があったが、それも第二と第四日曜日だけで、若手の僕はその第二、第四も日直ということで一晩宿直付の電話番をやらせられた。
そして、夏の海水浴、秋の温泉旅行の幹事をやらせられた。良い企画を立てないと、その年中須賀さんのたとえば鬼怒川温泉は食事がよくなかったとか、つまらなかったとか、部屋割りで、仲の悪い人と一緒にされたとか、数年にわたって苦情を言われる。近くにある旅行社が毎年のエージェントで、パンフレットをもってくる。あるいはこちらから候補をあげて、資料を持って来させる。それをみんなに配って、アンケートを取る。そのアンケートの結果決めるのだから、みんなの総意なのだから、僕に責任がないなどとはいえない。アンケートの時の僕の説明、ここは、こんな風に良いのだという説明を要求され、その説明で決めるという部分がある。
なぜか、僕の企画は評判がよく、僕の下に安森君が入っても、社員旅行は僕が仕切っていた。一つには、工場の女衆の圧倒的支持があったからだが、これもまた大変で、ちょっとでも女工さんの誘いに乗ったら大変、たとえば一緒にお酒など飲んだら、次の日には会社全員、と言っても50人足らずだが、知れ渡っている。とにかく当人が言いふらすのだから。
しかし、それもこれも今となっては懐かしい。畳敷きの大広間のような潜水服工場で、ミシンや、低い大きな糊貼りの机をおいて、ヘルメット式の潜水服を縫ったり貼ったりしている。若い娘、おばさんのさんざめき、きわどい冗談、今はもう遠い昔だ。
そう、この女衆のほとんどが、会社からあるいて10分程度の汐入からやってくる。古い長屋のような下町の家並みで、家の前には花の小鉢がならべてあるようなとても好きな町、こんな街に住むのも良いなと思ったりした。今は高層のマンションが立ち並んでいる。さびしい。
海水浴の手配は当然ながら、この会社で唯一のダイバーである僕に責任がのしかかってくる。忘れられないことが一つ、その海水浴で新入の若い社員、昔でいえば小僧さんがおぼれた。「須賀さんと一緒だったら、泳げると思った。」まるで泳げない子だったのだ。背の立つところでおぼれた。僕がダイバーで、一応レスキューなど心得ていたから何事もなかったが、海水浴は恐ろしい。今ならばライフジャケットをつけさせるのだが、そんなものはまだない。まあ、今でも泳げないのにライフジャケットなしで海水浴に行く人もいるだろうけれど、泳げない人の海水浴は、膝上の深さでもう危ない。
昔の落語で、香具師が本を売っている。いくつかの秘訣が乗っているというふれこみで面白おかしく説明してそれを売る。その中で「泳げなくてもおぼれない方法」というのがあり、「腹の部分に筆で線を引く、この線よりも深く行かなければ大丈夫」という種明かしが載っているが、大間違いである。膝の下に線をひき、それでもうねりのある季節にはあぶない。引き波に足をさらわれる。
う
こんなこと、東亜潜水機での10年をノンフィクションスタイルでしっかり書いたら面白いだろうなとも思う。しかし、今度のグラフィティの中心も東亜での10年だが、100m潜水が大部分を占めている。それも含めて、ノンフィクションというフィクションにしてしまったら、などと考えるが。。。。。。目下のところ自信が持てない。
佐野専務の出身校は千葉大学の工学部で、実は舘石昭さんもその同じ工専のデザイン学科だとかで、同窓であることを語り合っていたのを横で聞いていたのに忘れてしまった。そのことを除いて、よく昔のことを覚えているとほめてくれた。しかし、その昔のことも、弘幸社長は、僕が東亜を去ったときは小学高学年で、会社に来ていたことはほとんどなかった。もしかしたら、今度出すグラフィティが東亜の社史になるのではないか、などと思っている。
そのグラフィティに書き、カットされてしまったことがある。僕が入社する数年前までの東亜は土日がなく祝祭日もなく、休みは盆に正月そして藪入りだったと書いたところまでは乗っていたかと思う。そのあとのフレーズ、休日はなかったけれど、春はお花見、夏は海水浴、秋は温泉旅行、忘年会、新年会がある。つまり有給休暇などはとうていのぞめなかったけれど、会社が費用もちのリクリエーションがあり、親睦を深めていたのだ。古き(良き?)時代の日本の零細企業、お店(おたな)は、そういうものだった。
そこに入社した若き日の僕は、そのころはすでに土日の休日があったが、それも第二と第四日曜日だけで、若手の僕はその第二、第四も日直ということで一晩宿直付の電話番をやらせられた。
そして、夏の海水浴、秋の温泉旅行の幹事をやらせられた。良い企画を立てないと、その年中須賀さんのたとえば鬼怒川温泉は食事がよくなかったとか、つまらなかったとか、部屋割りで、仲の悪い人と一緒にされたとか、数年にわたって苦情を言われる。近くにある旅行社が毎年のエージェントで、パンフレットをもってくる。あるいはこちらから候補をあげて、資料を持って来させる。それをみんなに配って、アンケートを取る。そのアンケートの結果決めるのだから、みんなの総意なのだから、僕に責任がないなどとはいえない。アンケートの時の僕の説明、ここは、こんな風に良いのだという説明を要求され、その説明で決めるという部分がある。
なぜか、僕の企画は評判がよく、僕の下に安森君が入っても、社員旅行は僕が仕切っていた。一つには、工場の女衆の圧倒的支持があったからだが、これもまた大変で、ちょっとでも女工さんの誘いに乗ったら大変、たとえば一緒にお酒など飲んだら、次の日には会社全員、と言っても50人足らずだが、知れ渡っている。とにかく当人が言いふらすのだから。
しかし、それもこれも今となっては懐かしい。畳敷きの大広間のような潜水服工場で、ミシンや、低い大きな糊貼りの机をおいて、ヘルメット式の潜水服を縫ったり貼ったりしている。若い娘、おばさんのさんざめき、きわどい冗談、今はもう遠い昔だ。
そう、この女衆のほとんどが、会社からあるいて10分程度の汐入からやってくる。古い長屋のような下町の家並みで、家の前には花の小鉢がならべてあるようなとても好きな町、こんな街に住むのも良いなと思ったりした。今は高層のマンションが立ち並んでいる。さびしい。
海水浴の手配は当然ながら、この会社で唯一のダイバーである僕に責任がのしかかってくる。忘れられないことが一つ、その海水浴で新入の若い社員、昔でいえば小僧さんがおぼれた。「須賀さんと一緒だったら、泳げると思った。」まるで泳げない子だったのだ。背の立つところでおぼれた。僕がダイバーで、一応レスキューなど心得ていたから何事もなかったが、海水浴は恐ろしい。今ならばライフジャケットをつけさせるのだが、そんなものはまだない。まあ、今でも泳げないのにライフジャケットなしで海水浴に行く人もいるだろうけれど、泳げない人の海水浴は、膝上の深さでもう危ない。
昔の落語で、香具師が本を売っている。いくつかの秘訣が乗っているというふれこみで面白おかしく説明してそれを売る。その中で「泳げなくてもおぼれない方法」というのがあり、「腹の部分に筆で線を引く、この線よりも深く行かなければ大丈夫」という種明かしが載っているが、大間違いである。膝の下に線をひき、それでもうねりのある季節にはあぶない。引き波に足をさらわれる。
う
こんなこと、東亜潜水機での10年をノンフィクションスタイルでしっかり書いたら面白いだろうなとも思う。しかし、今度のグラフィティの中心も東亜での10年だが、100m潜水が大部分を占めている。それも含めて、ノンフィクションというフィクションにしてしまったら、などと考えるが。。。。。。目下のところ自信が持てない。