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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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古巣の東亜潜水機を訪ねた。こんどのニッポン潜水グラフィティ、三分の一は、東京水産大学時代、三分の一が東亜潜水機時代、三分の一が日本潜水会から全日本潜水連盟、そして、駆け足で1990年まで駆け抜ける。東亜潜水機時代はその中心を占めている。
1969年の退社だから、40年の月日が流れている。
 佐野さんが担当しているコンプレッサー部門が、現在の売り上げの大部分を占めているのだが、その中でも潜水に関係する部分は小さい。佐野さんは、僕が東亜時代限りなくおせわになり、足を向けて寝られない、佐野専務の息子さんで、僕が東亜をでるときには小学校高学年だった。それから彼は中学、高校、そして大学は芝浦工大に入り、同好会だったアクアラングクラブを部に昇格させて。それからすでに40年の月日が流れている。
 グラフィティを買ってもらうこと、それから僕の80-80の潜水機をつくってもらうこと、二つのお願いだ。80-80の道具は後藤さんに作ってもらうつもりだったのだが、彼は世を去ってしまった。26日が後藤さんを偲ぶ会だ。


 ヘルメット式潜水機を作っている工場には、水深10mの潜水訓練タワーがある。僕の東亜時代の最後近くに作ったものだ。中心になったのは、海軍の潜水の神様、伏流特攻の潜水機を作った清水さんだ。僕が作れば、もう少しスクーバの練習を頭において作ったのだが、ヘルメットとかマスク式の練習にしか使えない。
 社長の息子でこちらの工場の責任者である三沢一元さんと事務員の内山さんに会った。この前来た時には内山さんが歓待してくれたのだが、今日は冷たい。何があったのかよくわからない。
 ヘルメット式潜水機はもう作ることがないと言っていた。古いものを持ってきて、修理して、磨き上げて再生する。高齢化で廃業するヘルメットダイバーの方が、新しくヘルメットダイバーになって、ヘルメットを買う人よりも圧倒的に多いのだろうから、これで十分なのだろう。それにしても、東亜のこの工場、このセクションの将来はどうなのだろう。一元さんは僕よりも少し上で、年齢を聞いたら82ということだった。後継者はいないようだから、このセクションもコンプレッサー工場の佐野さんが引き継ぐのだろうか、彼だってもう60は越している。
 ヘルメット工場、今は潜水服工場が中心だろうが、語り合う言葉は居なくなってしまったひとのことだ。僕の助手だった安森君は独立して成功していたけれど、高血圧と糖尿病で亡くなった。橘君は、やはりコンプレッサー屋で、手伝ってもらったこともあるのだが,亡くなってしまった。

 どうしても暗い気持ちになる。



 21時からは辰巳のダイビングプール、新しい人が増えて、総勢で30名を超えた。増えるのは嬉しいが、そろそろ定員を決めなくてはならないだろうか。面倒だ。
 鈴木あやのさんが大きいおなかで泳ぎに来てくれる。もうこのあたりがプールで泳げる限界だろうか。7月の10日ごろの予定だというから、瞬きする間だ。赤ちゃんが生まれたら、次に来てくれるときには赤ん坊をつれてくるのだろうか。まさか、だとすると、ベビーシッターに預けてくるのだろうか。泳ぎに来ないということは考えにくいから、いつごろから泳ぎにくるだろう。

 世を去るもの、うまれてくる者が交錯する。

 
 

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