0619
昨日、関東学生潜水連盟についての2010年のシンポジウムでの学習院大学の宮崎監督の発表について、報告書を読み直して、改めて見直した。
ここまで書いたのが朝、続きは後で書こうとフェイスブックとメールを見た。それを片付けた。片付いてはいないけれど、イビングを長らくやっていると、死ななければ、事故を起こさなければ後の問題は時間が解決する。特に今の僕は、時の走り去るのが速い。
しかし、やる気を失うと立ち上がるのに時間がかかる。今日予定していた仕事をほとんどせずに午後になってしまった。事務所でいくつかの仕事をしようとしたが全然!コーヒーが飲みたくなってミスドに来たら、席が空いていて座ることができた。すぐにPCを開こうとしたが、読みかけた「サマータイム・ブルース:サラ・バレッキー」の方をひらいてしまった。2010年の文庫で、ブックオフで100円だが、ハードボイルド姐ちゃんの格闘シーンなどがあって、心が、癒される(嫌いな言葉だけど、ここに当てはまる)彼女は痛めつけられてもギブアップしない。あんまり急いで読み終わる必要もないので、30p程読んで、ページを閉じた。
学習院大学の変遷表 昨日も出した。
まず、創世期 学習院の創立は日本潜水会と同じ1967年である。関東学生潜水連盟の最初のメンバーに入っていてもよいのだけれど入っていない。が、すぐに加入している。その頃の学生ダイバーって、自分の年齢も若かったためもあるけれど、僕たちと対等だった。法政の銭元君が、初代の委員長になった。銭元君は日本潜水会の一級を受けに来てくれて、潜水会のプログラムを学連に持ち込んだ。プログラムのそれぞれに、地獄の・・・とヘッドが付く練習で、全員が海猿を目指したと思えばいい。そして、彼らは日本潜水会とは別の道を、しかし、スピアフィッシングをやらないという意味では同じ道を歩み、やがて、ロレックスの全国スポーツ大会には出場して、あの高価なサブマリーナを総ざらいに持って行くことになる。法政の青木とか丸山(今ではNAUIのCEO)は、あのロレックスを今でも持っているだろうか。
そして、1980年代の宮崎さんに言わせればビッグバンといわれる最盛期の時代を迎える。なぜ、ビッグバンが起こったか、それぞれ考えはちがうだろうが、まず世の中の景気が爆発した。バブルの時代を迎えようとする。1974年には新宿にドウ・スポーツがオープンして、青木、丸山、たちがそのコーチになる。次第に階段を上るようにしてダイビング業界としても最盛期を迎えるのだろう。1985年、日本はバブルの時代を迎える。
その次に来る凋落、冬の時代はなぜなのだろう。ダイビングそのものがそれほど凋落したわけではないように思える。個人的な見解だが、ダイビングショップが増えた。そして、それぞれのダイビングショップが大学に入り込んでくる。母校の水産大学を例にとれば、ダイビングショップの息子が大学に入学して同好会を作る。厳しそうな練習などがある関東学生潜水連盟のクラブよりは、楽しいレジャークラブのほうが良い。それに安全性を考えても、2年生が一年生をおしえるような関東学生潜水連盟よりもインストラクターが教えてくれるショップ系の同好会の方が安心だし、保険も賠償責任保険などが充実している。水産大学などでは、同好会のあるクラブの入部者が40人に対して、潜水部は2名とか、スコアが開きすぎだ。
ここから学習院大学は、何とか立ち直って、次の時代を迎えるが、そのまま立ち直れないで、伝統のあるクラブが消滅してしまう。立教大学、青山学院大学、両者とも歴史があり、立派なプログラムで活動していたのだが継続できなかった。
ここまで書いて、ASPIREのバッテリーが無くなるので、ミスドから引き上げる。
コーヒーのお替わりを3回注ぎに来てくれた。
消えた大学と立ち上がれた大学を比べてみると、一概には言えないが、OB会が力を持っていたかいなかったかだろう。水産大学の場合、部員が2名になり、1名になったとき、OBである僕が一生懸命後押しした。そのころの4年生、今泉君などに牡丹町の事務所にも何回も来てもらって、ずいぶん頑張ってもらった。そして50周年でOB会を作った。50年、OB会なしで来た結果が、部員1-2名になった。その上、驚いたことに、僕の知らないブランクの時代に、ヘリの出動を要請したような事故があったらしい。幸いにして死亡事故にならなかった。事故があったらしい、と書いた。OB会が無いと、それほどの事故でも「らしい」になってしまう。正式な記録はないから、未だに「らしい」である。
そして、さらに、なぜOB会が重要なのかというと、学生だけの場合の継続性の無さである。ある年次に一人か二人になり、次の代に新入生勧誘が失敗すると、学生だけでは立ち上がれなくなってしまう。3年の半ばになれば、一生を賭けたシューカツのために一人二人になったクラブをどうすることもできなくなる。
青山学院も立教も立派なOB会があったはずだけれど、機能しなかったのだろうか。立教は、学連の記録映像を撮り、朝までテレビで放映した時に女性の学連委員長を出していて、ずいぶん親しくなった。
名前を忘れてしまった。あの時のオンエアーテープがどこかにあったはずだが、見つけている時間が無い。
昨日、関東学生潜水連盟についての2010年のシンポジウムでの学習院大学の宮崎監督の発表について、報告書を読み直して、改めて見直した。
ここまで書いたのが朝、続きは後で書こうとフェイスブックとメールを見た。それを片付けた。片付いてはいないけれど、イビングを長らくやっていると、死ななければ、事故を起こさなければ後の問題は時間が解決する。特に今の僕は、時の走り去るのが速い。
しかし、やる気を失うと立ち上がるのに時間がかかる。今日予定していた仕事をほとんどせずに午後になってしまった。事務所でいくつかの仕事をしようとしたが全然!コーヒーが飲みたくなってミスドに来たら、席が空いていて座ることができた。すぐにPCを開こうとしたが、読みかけた「サマータイム・ブルース:サラ・バレッキー」の方をひらいてしまった。2010年の文庫で、ブックオフで100円だが、ハードボイルド姐ちゃんの格闘シーンなどがあって、心が、癒される(嫌いな言葉だけど、ここに当てはまる)彼女は痛めつけられてもギブアップしない。あんまり急いで読み終わる必要もないので、30p程読んで、ページを閉じた。
学習院大学の変遷表 昨日も出した。
まず、創世期 学習院の創立は日本潜水会と同じ1967年である。関東学生潜水連盟の最初のメンバーに入っていてもよいのだけれど入っていない。が、すぐに加入している。その頃の学生ダイバーって、自分の年齢も若かったためもあるけれど、僕たちと対等だった。法政の銭元君が、初代の委員長になった。銭元君は日本潜水会の一級を受けに来てくれて、潜水会のプログラムを学連に持ち込んだ。プログラムのそれぞれに、地獄の・・・とヘッドが付く練習で、全員が海猿を目指したと思えばいい。そして、彼らは日本潜水会とは別の道を、しかし、スピアフィッシングをやらないという意味では同じ道を歩み、やがて、ロレックスの全国スポーツ大会には出場して、あの高価なサブマリーナを総ざらいに持って行くことになる。法政の青木とか丸山(今ではNAUIのCEO)は、あのロレックスを今でも持っているだろうか。
そして、1980年代の宮崎さんに言わせればビッグバンといわれる最盛期の時代を迎える。なぜ、ビッグバンが起こったか、それぞれ考えはちがうだろうが、まず世の中の景気が爆発した。バブルの時代を迎えようとする。1974年には新宿にドウ・スポーツがオープンして、青木、丸山、たちがそのコーチになる。次第に階段を上るようにしてダイビング業界としても最盛期を迎えるのだろう。1985年、日本はバブルの時代を迎える。
その次に来る凋落、冬の時代はなぜなのだろう。ダイビングそのものがそれほど凋落したわけではないように思える。個人的な見解だが、ダイビングショップが増えた。そして、それぞれのダイビングショップが大学に入り込んでくる。母校の水産大学を例にとれば、ダイビングショップの息子が大学に入学して同好会を作る。厳しそうな練習などがある関東学生潜水連盟のクラブよりは、楽しいレジャークラブのほうが良い。それに安全性を考えても、2年生が一年生をおしえるような関東学生潜水連盟よりもインストラクターが教えてくれるショップ系の同好会の方が安心だし、保険も賠償責任保険などが充実している。水産大学などでは、同好会のあるクラブの入部者が40人に対して、潜水部は2名とか、スコアが開きすぎだ。
ここから学習院大学は、何とか立ち直って、次の時代を迎えるが、そのまま立ち直れないで、伝統のあるクラブが消滅してしまう。立教大学、青山学院大学、両者とも歴史があり、立派なプログラムで活動していたのだが継続できなかった。
ここまで書いて、ASPIREのバッテリーが無くなるので、ミスドから引き上げる。
コーヒーのお替わりを3回注ぎに来てくれた。
消えた大学と立ち上がれた大学を比べてみると、一概には言えないが、OB会が力を持っていたかいなかったかだろう。水産大学の場合、部員が2名になり、1名になったとき、OBである僕が一生懸命後押しした。そのころの4年生、今泉君などに牡丹町の事務所にも何回も来てもらって、ずいぶん頑張ってもらった。そして50周年でOB会を作った。50年、OB会なしで来た結果が、部員1-2名になった。その上、驚いたことに、僕の知らないブランクの時代に、ヘリの出動を要請したような事故があったらしい。幸いにして死亡事故にならなかった。事故があったらしい、と書いた。OB会が無いと、それほどの事故でも「らしい」になってしまう。正式な記録はないから、未だに「らしい」である。
そして、さらに、なぜOB会が重要なのかというと、学生だけの場合の継続性の無さである。ある年次に一人か二人になり、次の代に新入生勧誘が失敗すると、学生だけでは立ち上がれなくなってしまう。3年の半ばになれば、一生を賭けたシューカツのために一人二人になったクラブをどうすることもできなくなる。
青山学院も立教も立派なOB会があったはずだけれど、機能しなかったのだろうか。立教は、学連の記録映像を撮り、朝までテレビで放映した時に女性の学連委員長を出していて、ずいぶん親しくなった。
名前を忘れてしまった。あの時のオンエアーテープがどこかにあったはずだが、見つけている時間が無い。