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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0611 年表についてー1

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 グラフィティの年表を見直している。
成山堂での打ち合わせで、潮美が赤字を入れている部分を削除した。1972年昭和47年7月10日「月)静岡県におけるレジャーダイバーのスクーバ潜水全面禁止措置を発表。という部分である。えーっ、そんなことがあったのか、自分で書いた年表におどろいている。自分が調べて書いたものではない。ある雑誌の年表から、引用したものだった。

1972年、昭和47年、その年に生まれた人は41歳になっている。静岡県と言うと容易な広さではない。雲見も、下田も、海洋公園も静岡県だ。そんなことがあったら、記憶にのこっているはずだ。
しかし、記憶になくても、何かあったかもしれない。雑誌、「海の世界」が72年の分と、73年の分が、全部ある。ぱらぱらと全部見たが、静岡県全面禁止などと言うすごいことは、出ていない。
 静岡県と言えば、あの大瀬崎も入る。全面禁止だったら、大瀬館も閉鎖か?大瀬館の50年史をいただいてあったので、それも見て見た。確かに大瀬館は古いけれど、ダイビング設備(コンプレッサーなど)を導入したのは、1982年とある。72年にはまだダイバーは大瀬崎では潜っていない。
 では、潜水全面禁止の72年には何があったのかと、編集途中の年表を見て見ると、なんと、「全日本潜水連盟設立 日本潜水会、関西潜水連盟 中部日本潜水連盟 PADI潜水指導協会が提携して結成」全日本潜水連盟がスタートしている。個人的には「水中写真の撮影」と言う本をだしている。「マンティス発売、当時、須賀は後藤道夫とともに、鬼怒川パシフィック社の顧問をつとめていた。」
 そんな中で、「静岡県、レジャーダイバーのスクーバ潜水全面禁止措置を発表」って、なにがあったのだろう。この雑誌もいい加減な雑誌ではない。「ダイビング・ワールド」だ。72年7月10日と日にちまでもきちんと入っている。何があったのだろう。もう少し調べなおすけれど、とりあえず、グラフィティの年表からは削除した。

 このダイビングワールドの年表は、本当によく、細かいことまで調べ抜いている。ここにもう一つ。
 1952年、にニッセン式という化学反応による潜水機が開発されたとある。僕のグラフィティのスタート、日本にアクアラングが紹介されたのが、1953年のディーツ博士が小湊で潜ったことだから、そのアクアラング事始めよりも一年早い。日本で一番古いアクアラングの輸入は1950年の、大同物産の「大同物産 渋谷武乃丞氏(帝国海軍OB) が掃海部隊のためにフランスのスピロテクニックからアクアラングを輸入したと言われるが、未確認)
この渋谷さんには、東亜潜水機時代、一方ならぬお世話になった。なのに、ダイビング史なんかを後から書くとは思いもしていなかった、若き日の僕は何にも聞いていない、調べてもいない。渋谷閣下はとっくに亡くなっている。
 その1950年から、1953年の間、ニッセン式は、1952年のことである。
 化学反応による潜水機、これは過酸化水素、オキシフルを撹拌して酸素を発生させている。僕は神奈川県水産試験所で、この潜水機の残骸を見たことがある。厚手のビニール袋のような潜水機だった。

 有馬頼義と言う、かなり高名な作家がいる。旧筑後国久留米藩主有馬家の第16代当主。旧筑後国久留米藩主有馬家の第16代当主。と言うから、お殿様である。たしか、水天宮の家主でもあった。その有馬頼義が、「化石の森」と言う小説を書いているのだが、その小説の主人公が、水産試験場の技師で、小説の中で、このオキシフル潜水機を開発している。潜った話も出てくるから、潜れたのだろうか。ここに、一枚、そのニッセン式らしい写真がある。


 これは、東京水産大学の神田教授の教室にあり、神田先生の後継者である竹内教授(僕の同級生)からアルバムを借りてきて複写したものだ。これが本当にニッセン式かどうか、単純な純酸素式のリブリーザーのようにも見える。不確実なので、惜しいけれど、この話は年表には収録しない。

 しばらく、ブログには年表の話ができそうだ。
 でも1972年の潜水禁止騒ぎは何だったのだろう。ブログに書いておくと教えてくれそうな人が、何人かいる。 教えてください。

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