グラフィティメーキング あとがきの別バージョンだ。やや完成形に近づいているが、まだちがう。これではあとがきにならない。
この次のバージョンで、ようやく使えると思うものができた。それにしても、満足ではないが、どこかで切らなければ、永久に解決しないで書き直し続けているかもしれない。そして、あとがきの後も、僕のダイビングは続いて行くのだから、エンドマークはもう少し先だ。
写真はあとがきとは関係ない。年表に写真を入れたのだが、小さすぎて虫眼鏡を持ってこなければなんだかわからない。わかりそうな画とは、形だけ、シルエットでもわかるような、フォルムだと考えて探した。1982年か3年、テレビ撮影のためにテストしたスクーターである。速かった。3ノットは出たと思う、3.5ノットになるとマスクが飛ばされる。しかし、3.5ノットでないと、2ノットの流れを遡れない。3.5ノット出たけれど、電池がすぐに終わってしまう。実用ではなかった。しかし、レクリエーショナルダイビングとは、実用ではなく遊びなのだから、これはこれで面白いのだが、やはり、電池チャージに8時間かかって、1時間も走れないのでは遊びとしても、コストがかかりすぎた。
あとがき V3
日本にスクーバが紹介された1950年代から1980年代、ひたすら海に潜り、夢と冒険を追った日々を連載してほしいとダイビング専門誌の月刊『ダイバー』から話をいただき、喜んで引き受けた。アクアラングの黎明期は、その頃の映画『沈黙の世界』や『青い大陸』のように、夢と冒険そのものだった。
冒険とは、目の前に障害があったら、それを乗り越えて行こうとすること。原始時代からこのかた、人間は障害を乗り越えて生き延びてきた。乗り越えることは人間の本能であり、乗り越えれば心の底からの喜びを感じる。つまりチャレンジこそ生きがいだ。
僕にとっては今も昔もダイビングは冒険だが、ダイビングの事故は、冒険として身構えていない隙に起こることが多い。僕が潜水でもっとも恐ろしいと感じるのは「エア切れ:呼吸の喪失」である。他にも恐ろしいことはあるかもしれないが、僕が「死ぬかもしれない」と思ったのが「エア切れ」であり、水の中で空気がなくなるのは人間の本能として恐怖だ。本書にも書いたように、大学4年の時にそれを思い知らされ、水深30m程度なら一気に浮上する能力があれば切り抜けられる、スキンダイビングが命を守る切り札だと考えた。
しかし、27歳で挑戦した水深100mからではさすがに無理だ。エア切れを防ぐため、地上から空気を送り続けられるように送気式で潜ることにした。ところが、すべてに新しいことをやろうとして、水の抵抗が少ないビニール製の細いホースを使った。耐圧はじゅうぶんだったが熱に弱かった。コンプレッサーの圧縮熱で、ホースが膨らみ、後少しでスッポリと抜けて送気はストップするところだった。あの時、ホースが抜けていたら、僕は一巻の終わりだっただろう。後で考えれば、送気式の潜水機の他にタンクも背負う。つまり、2系統の空気供給原を持てば何ともなかった、深く潜る時には、複数の空気供給原を持つべきだと学んだ。今では、併用するのが常識となっている。
ダイバーという人種は、自分が死なない範囲で深く潜りたい。僕の100m潜水のレベルを、進化、洗練させたものが現在のテクニカルダイビングだろう。スクーバで窒素酔いにならないように混合ガスを用いた潜水のことをテクニカルダイビングという。これには二つの方法がある。一つは異なった性質のガスを詰めたタンクを何本も装着して、潜水する水深や時間に合わせ、使い分けながら潜る方法。もう一つは、吸ったガスを外に吐き出さないで、袋(カウンターラング)に吐き出し、炭酸ガス吸収剤を入れた筒(キャニスター)を通し、消費しただけの酸素を加える循環式の潜水器、リブリーザーを使う方法がある。人間が消費する正味の酸素の量は知れたもので、吐き出す息にはまだ大量の酸素が残っている。循環させれば、100m程度の深さに潜る潜水可能時間を稼ぎだせる。そして、2系統の供気源を持つという原則から、別に1本のスクーバを腰にぶら下げて行く。これらの、より複雑化、高度化した器材を使いこなし、深く潜りたいと夢を追うのが21世紀の冒険的ダイバーのスタイルだろう。
僕はといえば、出来るだけシンプルに、オリジナリティーを持って夢と冒険を追うにはどうしたらよいのか、理想を追求しながら80歳で80mに潜る準備を進めている。
最後に成山堂書店、月刊ダイバー誌、励ましていただいた読者の皆さま、そして連載時から編集を担当してくれた娘の須賀潮美のおかげでこの本ができた。お礼申し上げます。
なお、この本を読んでわからない箇所があれば、同じ成山堂書店で出版した『最新ダイビング用語事典』を読んでくださることをお願いします。
あとがき V2
日本にスクーバが紹介された1950年代から1980年代、ひたすら海に潜り、夢と冒険を追った日々を連載してほしいとダイビング専門誌の月刊『ダイバー』から話をいただき、喜んで引き受けた。アクアラングの黎明期は、その頃の映画『沈黙の世界』や『青い大陸』のように、夢と冒険そのものだった。
冒険とは、目の前に障害があったら、それを乗り越えて行こうとすること。原始時代からこのかた、人間は障害を乗り越えて生き延びてきた。乗り越えることは人間の本能であり、乗り越えれば心の底からの喜びを感じる。つまりチャレンジこそ生きがいだ。
グラフィティで書いてきた、1950年代から1970年代の冒険は、自分なりのダイビングを確立する助走距離だったのかもしれない。
1989年8月に起きた脇水輝之の事故は、確立したと思った潜水についての考え方、安全についての姿勢、そして事故が起こってしまってからの展開について、根底から覆す出来事だった。このことが書きたかったために、最後の章は、ほぼ10年突出したが、これだけは、このグラフィティの中に納めなければ終われなかった。安全、人の命の価値、そして、「嘘だろう!」と思うほど簡単に水中では人の命が失われてしまう。どうしたら良いのだろう。答えは無い。
助走距離が終わってからジャンプした夢と冒険については、昔々のグラフィではなく、現実世界と重なり合う。チャンスがあれば、グラフィティの後日物語も本にしたいが、終わりに、少しだけその後のことを、そして今後の出来るかどうかわからない計画についてお話ししたい。
1996年2月、60歳を記念して、103mに潜った。1963年、90mで意識朦朧となり引き返してから30余年の歳月が過ぎ、すでに、100mは中深度潜水と呼ばれていて、僕の60歳の100mを付き添って潜ってくれた社員の田島雅彦にとっては、通常業務の潜水になっていた。しかし、60歳になった自分にとって、それは、自分の体の中の世界での戦いだった。その数年前から、高血圧になっていたため、一人の医師からは、ドクターストップがかかった。しかし、それを乗り越えたことで、さらに生きる途が開かれ、あと20年、80歳まで現役のダイバーとして潜り抜けようと心に決めた。様々な事件に出会い、失意も重ね、大事なともだち、そして仲間(社員)も亡くし、スガ・マリンメカニックも田沼健二に譲ったが、一方では、新しく、特定非営利活動法人 日本水中科学協会を設立して代表になり、新しい友人もたくさんできた。そして、心に決めたとおりに、潜り抜けて、あと6か月で目標の80歳に到達する。
80歳で80mに潜ろうと計画を進めている。1963年の90mは送気式でフルフェイスマスクを使い、デマンドバルブを着けた、現在の作業潜水システムの嚆矢だった。1996年の103mは、大掛かりなシステム潜水と、スクーバであるテクニカル潜水とのハイブリッドだった。常に新しい潜水方法の提案をしてきた。今度の80mは、原理的にはシンプルに、そして、80歳のダイバーでも、あれならば無理をしていないと周囲の仲間たちに信じてもらえるような方式で潜りたい。テクノロジーの進歩は、どうしても複雑化に傾いてしまう。ダイビング機材も、電子化、自動化が進歩の方向であり、つまり、一つ間違えば危険になる。一つ二つ間違ってもなんとかなる。いい意味でのいい加減さが失われて行く。僕はといえば、出来るだけシンプルに、いい加減OKで夢と冒険を追いたい。なお、今度の80mは、日本水中科学協会のメンバー何人もが一緒に潜って来てくれる予定。出来れば、沖縄の海でやりたいが、館山になるかもしれない。
80歳の向こう側は、もし生きていれば、やりたいプロジェクトがある。舞台は大震災の後の海である。
最後に成山堂書店、月刊ダイバー誌、励ましていただいた読者の皆さま、そして連載時から編集を担当してくれた娘の須賀潮美のおかげでこの本ができた。お礼申し上げます。
なお、この本を読んでわからない箇所があれば、同じ成山堂書店で出版した『最新ダイビング用語事典』を読んでくださることをお願いします。
この次のバージョンで、ようやく使えると思うものができた。それにしても、満足ではないが、どこかで切らなければ、永久に解決しないで書き直し続けているかもしれない。そして、あとがきの後も、僕のダイビングは続いて行くのだから、エンドマークはもう少し先だ。
写真はあとがきとは関係ない。年表に写真を入れたのだが、小さすぎて虫眼鏡を持ってこなければなんだかわからない。わかりそうな画とは、形だけ、シルエットでもわかるような、フォルムだと考えて探した。1982年か3年、テレビ撮影のためにテストしたスクーターである。速かった。3ノットは出たと思う、3.5ノットになるとマスクが飛ばされる。しかし、3.5ノットでないと、2ノットの流れを遡れない。3.5ノット出たけれど、電池がすぐに終わってしまう。実用ではなかった。しかし、レクリエーショナルダイビングとは、実用ではなく遊びなのだから、これはこれで面白いのだが、やはり、電池チャージに8時間かかって、1時間も走れないのでは遊びとしても、コストがかかりすぎた。
あとがき V3
日本にスクーバが紹介された1950年代から1980年代、ひたすら海に潜り、夢と冒険を追った日々を連載してほしいとダイビング専門誌の月刊『ダイバー』から話をいただき、喜んで引き受けた。アクアラングの黎明期は、その頃の映画『沈黙の世界』や『青い大陸』のように、夢と冒険そのものだった。
冒険とは、目の前に障害があったら、それを乗り越えて行こうとすること。原始時代からこのかた、人間は障害を乗り越えて生き延びてきた。乗り越えることは人間の本能であり、乗り越えれば心の底からの喜びを感じる。つまりチャレンジこそ生きがいだ。
僕にとっては今も昔もダイビングは冒険だが、ダイビングの事故は、冒険として身構えていない隙に起こることが多い。僕が潜水でもっとも恐ろしいと感じるのは「エア切れ:呼吸の喪失」である。他にも恐ろしいことはあるかもしれないが、僕が「死ぬかもしれない」と思ったのが「エア切れ」であり、水の中で空気がなくなるのは人間の本能として恐怖だ。本書にも書いたように、大学4年の時にそれを思い知らされ、水深30m程度なら一気に浮上する能力があれば切り抜けられる、スキンダイビングが命を守る切り札だと考えた。
しかし、27歳で挑戦した水深100mからではさすがに無理だ。エア切れを防ぐため、地上から空気を送り続けられるように送気式で潜ることにした。ところが、すべてに新しいことをやろうとして、水の抵抗が少ないビニール製の細いホースを使った。耐圧はじゅうぶんだったが熱に弱かった。コンプレッサーの圧縮熱で、ホースが膨らみ、後少しでスッポリと抜けて送気はストップするところだった。あの時、ホースが抜けていたら、僕は一巻の終わりだっただろう。後で考えれば、送気式の潜水機の他にタンクも背負う。つまり、2系統の空気供給原を持てば何ともなかった、深く潜る時には、複数の空気供給原を持つべきだと学んだ。今では、併用するのが常識となっている。
ダイバーという人種は、自分が死なない範囲で深く潜りたい。僕の100m潜水のレベルを、進化、洗練させたものが現在のテクニカルダイビングだろう。スクーバで窒素酔いにならないように混合ガスを用いた潜水のことをテクニカルダイビングという。これには二つの方法がある。一つは異なった性質のガスを詰めたタンクを何本も装着して、潜水する水深や時間に合わせ、使い分けながら潜る方法。もう一つは、吸ったガスを外に吐き出さないで、袋(カウンターラング)に吐き出し、炭酸ガス吸収剤を入れた筒(キャニスター)を通し、消費しただけの酸素を加える循環式の潜水器、リブリーザーを使う方法がある。人間が消費する正味の酸素の量は知れたもので、吐き出す息にはまだ大量の酸素が残っている。循環させれば、100m程度の深さに潜る潜水可能時間を稼ぎだせる。そして、2系統の供気源を持つという原則から、別に1本のスクーバを腰にぶら下げて行く。これらの、より複雑化、高度化した器材を使いこなし、深く潜りたいと夢を追うのが21世紀の冒険的ダイバーのスタイルだろう。
僕はといえば、出来るだけシンプルに、オリジナリティーを持って夢と冒険を追うにはどうしたらよいのか、理想を追求しながら80歳で80mに潜る準備を進めている。
最後に成山堂書店、月刊ダイバー誌、励ましていただいた読者の皆さま、そして連載時から編集を担当してくれた娘の須賀潮美のおかげでこの本ができた。お礼申し上げます。
なお、この本を読んでわからない箇所があれば、同じ成山堂書店で出版した『最新ダイビング用語事典』を読んでくださることをお願いします。
あとがき V2
日本にスクーバが紹介された1950年代から1980年代、ひたすら海に潜り、夢と冒険を追った日々を連載してほしいとダイビング専門誌の月刊『ダイバー』から話をいただき、喜んで引き受けた。アクアラングの黎明期は、その頃の映画『沈黙の世界』や『青い大陸』のように、夢と冒険そのものだった。
冒険とは、目の前に障害があったら、それを乗り越えて行こうとすること。原始時代からこのかた、人間は障害を乗り越えて生き延びてきた。乗り越えることは人間の本能であり、乗り越えれば心の底からの喜びを感じる。つまりチャレンジこそ生きがいだ。
グラフィティで書いてきた、1950年代から1970年代の冒険は、自分なりのダイビングを確立する助走距離だったのかもしれない。
1989年8月に起きた脇水輝之の事故は、確立したと思った潜水についての考え方、安全についての姿勢、そして事故が起こってしまってからの展開について、根底から覆す出来事だった。このことが書きたかったために、最後の章は、ほぼ10年突出したが、これだけは、このグラフィティの中に納めなければ終われなかった。安全、人の命の価値、そして、「嘘だろう!」と思うほど簡単に水中では人の命が失われてしまう。どうしたら良いのだろう。答えは無い。
助走距離が終わってからジャンプした夢と冒険については、昔々のグラフィではなく、現実世界と重なり合う。チャンスがあれば、グラフィティの後日物語も本にしたいが、終わりに、少しだけその後のことを、そして今後の出来るかどうかわからない計画についてお話ししたい。
1996年2月、60歳を記念して、103mに潜った。1963年、90mで意識朦朧となり引き返してから30余年の歳月が過ぎ、すでに、100mは中深度潜水と呼ばれていて、僕の60歳の100mを付き添って潜ってくれた社員の田島雅彦にとっては、通常業務の潜水になっていた。しかし、60歳になった自分にとって、それは、自分の体の中の世界での戦いだった。その数年前から、高血圧になっていたため、一人の医師からは、ドクターストップがかかった。しかし、それを乗り越えたことで、さらに生きる途が開かれ、あと20年、80歳まで現役のダイバーとして潜り抜けようと心に決めた。様々な事件に出会い、失意も重ね、大事なともだち、そして仲間(社員)も亡くし、スガ・マリンメカニックも田沼健二に譲ったが、一方では、新しく、特定非営利活動法人 日本水中科学協会を設立して代表になり、新しい友人もたくさんできた。そして、心に決めたとおりに、潜り抜けて、あと6か月で目標の80歳に到達する。
80歳で80mに潜ろうと計画を進めている。1963年の90mは送気式でフルフェイスマスクを使い、デマンドバルブを着けた、現在の作業潜水システムの嚆矢だった。1996年の103mは、大掛かりなシステム潜水と、スクーバであるテクニカル潜水とのハイブリッドだった。常に新しい潜水方法の提案をしてきた。今度の80mは、原理的にはシンプルに、そして、80歳のダイバーでも、あれならば無理をしていないと周囲の仲間たちに信じてもらえるような方式で潜りたい。テクノロジーの進歩は、どうしても複雑化に傾いてしまう。ダイビング機材も、電子化、自動化が進歩の方向であり、つまり、一つ間違えば危険になる。一つ二つ間違ってもなんとかなる。いい意味でのいい加減さが失われて行く。僕はといえば、出来るだけシンプルに、いい加減OKで夢と冒険を追いたい。なお、今度の80mは、日本水中科学協会のメンバー何人もが一緒に潜って来てくれる予定。出来れば、沖縄の海でやりたいが、館山になるかもしれない。
80歳の向こう側は、もし生きていれば、やりたいプロジェクトがある。舞台は大震災の後の海である。
最後に成山堂書店、月刊ダイバー誌、励ましていただいた読者の皆さま、そして連載時から編集を担当してくれた娘の須賀潮美のおかげでこの本ができた。お礼申し上げます。
なお、この本を読んでわからない箇所があれば、同じ成山堂書店で出版した『最新ダイビング用語事典』を読んでくださることをお願いします。