「80:80 ダイビング」80歳で80m潜るということをかなり前から考えている。
僕は1935年に生まれたから、2014年で79年目になる。来年の1月25日で80年になるから、来年のうちに80m潜る。なんでそんなことをするのだ。purpose:目的であるが、1962年、27歳の時に館山沖で100m潜水を試みて、90mまで行った。あとの10mは、意識を半ば失っていたので、もしかしたら100mまで行ったかもしれない、93mだったかもしれない。良くわからなかったが、とにかく90mまではしっかりと行って、「命綱を降ろせ」というテレビ番組を作っている。
そして、それから33年後、1996年、60歳を記念して、103mに潜っている。この時はもう100m潜ることは、プロの大深度システム潜水では、別に新記録ではなかった。ヘリウムー酸素混合ガス潜水で、大掛かりな潜水ではあったが、生命の危険はまったくなくて潜った。そして、こんど1015年に80m潜りたい。実際は100mまで行くつもりだが、80歳ということで80mとしている。
ところで、なぜ、100mに潜りたいのか、潜る意味があるのか?
意味など全くない。ただ、人間は、ダイバーという人間の中には、かなりの率で、趣味で(レクリエーション)で潜ろうが、仕事で(プロダイバー)潜ろうが、深く潜りたい人種が居るのだ。それもかなりの人数が居る。それが、今度の80m潜水のなぜ?についてのポイントである。それぞれ、深く潜りたいダイバーは、深く潜りたいのだが、深く潜る意味がなかなか見いだせない。最近のテクニカルダイバーの中には、もう100mに15回以上もぐったとか、初心者のうちなのに、100m潜ったとかいう人がかなりいる。それは、それでよいが、それぞれ、何の意味も無く、それも人知れずに自分だけの記録として、100m潜ったと言っている。
ところで、僕が今度80歳で80m潜るというと、そのサポートとして、一緒に潜ってやろうという人がかなりいる。後期高齢者の須賀が潜るのを助けて潜ろうという意味、タイトルが発生する。その日に向けて準備する、トレーニングするという意味も出てくる。また、万全に近い安全配慮のもとで潜水できるというメリットもある。それぞれ、80mもぐったとしても、それは日常で80m潜るのではなくて、記念的にみんなで安全を追求しつつ潜るのが目標である。
前回、1996年の100mも50名以上のダイバーがサポートとして参加してくれた。しかし、一緒に潜ったのはすでにシステム潜水で数千時間の飽和潜水の実績を持つ田島雅彦(残念なことに故人)だけで、後は見送りだった。今回は、少なくとも10数名のダイバーが、いろいろな形で同行するだろう。とても、一回の潜水では終わらないだろうから、どうしよう?という潜水になる。
1962年、決死、失神の90m、1996年のプロのシステム潜水の技術を応用した楽々の103m、そして、2015年のみんなで潜る80-100mと並べて見ると、この潜水の目的、「なぜ」が見えてくる。それは、自分、須賀も含めてのダイバーの夢なのだ。そんな夢などバカバカしいという人も多数いて、その人たちは健全だと思う。しかし、稚気(馬鹿)ということも人生に欠かせない要素なのだ。冒険ともいう。
冒険とは何なのだ。馬鹿(稚気)だけではない。とても簡単には書き表せない、かなり哲学的な意味もあるが、端的に言ってしまえば夢の実現、それもかなり難しそうに見える夢、自分の生きる力をそこからくみ取ることができる夢、の事だ、と今の僕は思っている。人の生きる目的の一つでもあり、ほとんどすべてのダイビングは、多かれ少なかれ、この冒険の要素を内包している。
この頃、中田誠さんの「商品スポーツの法的責任」を読んでいて、そこでは、スクーバのことを「致死性を内包するスポーツ」としているが、これではどこにも夢もないし、くみ上げてくる生きるための力も見つけられない。冒険を内包するスポーツとほとんど同じ意味なのではないかと思う。言いたい人には言わせておけば良いのだが、消費者連盟などという言葉が出てくるとさらに夢も消える。
昔、冒険という言葉を否定していた時代がある。スクーバとは冒険ではなくて探検なのだ。お隣さんの言葉だが、少し違う。僕の座右の銘は、「探検とは知的情熱の肉体的表現である」Exploration is the physical expression of the Intellectual Passion . 1910-13年、スコットの悲劇的な南極探検について書かれた、チェリー・ガラードの名著の中の言葉である。以来、どれほどの数の若者がこの言葉に魅せられて、探検を志したことであろうか。そして、スクーバダイビングによる海底調査は探検そのものだと思い、僕は水中調査を自分の仕事とした。探検と冒険の違いは、目的性の有無だと思う。だから、レクリエーショナルダイビングは冒険そのものだと思うし、今度の80:80も冒険だ。そして、探検は冒険という言葉に包括され、とくに目的性の強いものが探検なのだとおもうようになった。人工魚礁調査は探検の一つである。
そして、冒険はもしかして致死性を内包するのかもしれないが、決して致死性の追求ではない。人が生きる原動力になる夢の追求である。もちろん、死んでしまえば何にもならないから、安全も同時に追求する。致死性だから、体験ダイビングと同等に、時として命がけになることもあるが、体験ダイビングと同様に、安全性も確保されなくてはならない。僕の残したいものは、冒険であるスクーバダイビングであり、スクーバダイビングによって行う探検である。安全は大事だが、目的は安全ではなくて冒険である。
なお、ここに書き記した言葉の定義は、必ずしも普遍的なものではなくて、僕個人の定義に近いかもしれない。
※世界最悪の旅 チェリー・ガラード著 加納一郎訳 朝日文庫1993年
僕は1935年に生まれたから、2014年で79年目になる。来年の1月25日で80年になるから、来年のうちに80m潜る。なんでそんなことをするのだ。purpose:目的であるが、1962年、27歳の時に館山沖で100m潜水を試みて、90mまで行った。あとの10mは、意識を半ば失っていたので、もしかしたら100mまで行ったかもしれない、93mだったかもしれない。良くわからなかったが、とにかく90mまではしっかりと行って、「命綱を降ろせ」というテレビ番組を作っている。
そして、それから33年後、1996年、60歳を記念して、103mに潜っている。この時はもう100m潜ることは、プロの大深度システム潜水では、別に新記録ではなかった。ヘリウムー酸素混合ガス潜水で、大掛かりな潜水ではあったが、生命の危険はまったくなくて潜った。そして、こんど1015年に80m潜りたい。実際は100mまで行くつもりだが、80歳ということで80mとしている。
ところで、なぜ、100mに潜りたいのか、潜る意味があるのか?
意味など全くない。ただ、人間は、ダイバーという人間の中には、かなりの率で、趣味で(レクリエーション)で潜ろうが、仕事で(プロダイバー)潜ろうが、深く潜りたい人種が居るのだ。それもかなりの人数が居る。それが、今度の80m潜水のなぜ?についてのポイントである。それぞれ、深く潜りたいダイバーは、深く潜りたいのだが、深く潜る意味がなかなか見いだせない。最近のテクニカルダイバーの中には、もう100mに15回以上もぐったとか、初心者のうちなのに、100m潜ったとかいう人がかなりいる。それは、それでよいが、それぞれ、何の意味も無く、それも人知れずに自分だけの記録として、100m潜ったと言っている。
ところで、僕が今度80歳で80m潜るというと、そのサポートとして、一緒に潜ってやろうという人がかなりいる。後期高齢者の須賀が潜るのを助けて潜ろうという意味、タイトルが発生する。その日に向けて準備する、トレーニングするという意味も出てくる。また、万全に近い安全配慮のもとで潜水できるというメリットもある。それぞれ、80mもぐったとしても、それは日常で80m潜るのではなくて、記念的にみんなで安全を追求しつつ潜るのが目標である。
前回、1996年の100mも50名以上のダイバーがサポートとして参加してくれた。しかし、一緒に潜ったのはすでにシステム潜水で数千時間の飽和潜水の実績を持つ田島雅彦(残念なことに故人)だけで、後は見送りだった。今回は、少なくとも10数名のダイバーが、いろいろな形で同行するだろう。とても、一回の潜水では終わらないだろうから、どうしよう?という潜水になる。
1962年、決死、失神の90m、1996年のプロのシステム潜水の技術を応用した楽々の103m、そして、2015年のみんなで潜る80-100mと並べて見ると、この潜水の目的、「なぜ」が見えてくる。それは、自分、須賀も含めてのダイバーの夢なのだ。そんな夢などバカバカしいという人も多数いて、その人たちは健全だと思う。しかし、稚気(馬鹿)ということも人生に欠かせない要素なのだ。冒険ともいう。
冒険とは何なのだ。馬鹿(稚気)だけではない。とても簡単には書き表せない、かなり哲学的な意味もあるが、端的に言ってしまえば夢の実現、それもかなり難しそうに見える夢、自分の生きる力をそこからくみ取ることができる夢、の事だ、と今の僕は思っている。人の生きる目的の一つでもあり、ほとんどすべてのダイビングは、多かれ少なかれ、この冒険の要素を内包している。
この頃、中田誠さんの「商品スポーツの法的責任」を読んでいて、そこでは、スクーバのことを「致死性を内包するスポーツ」としているが、これではどこにも夢もないし、くみ上げてくる生きるための力も見つけられない。冒険を内包するスポーツとほとんど同じ意味なのではないかと思う。言いたい人には言わせておけば良いのだが、消費者連盟などという言葉が出てくるとさらに夢も消える。
昔、冒険という言葉を否定していた時代がある。スクーバとは冒険ではなくて探検なのだ。お隣さんの言葉だが、少し違う。僕の座右の銘は、「探検とは知的情熱の肉体的表現である」Exploration is the physical expression of the Intellectual Passion . 1910-13年、スコットの悲劇的な南極探検について書かれた、チェリー・ガラードの名著の中の言葉である。以来、どれほどの数の若者がこの言葉に魅せられて、探検を志したことであろうか。そして、スクーバダイビングによる海底調査は探検そのものだと思い、僕は水中調査を自分の仕事とした。探検と冒険の違いは、目的性の有無だと思う。だから、レクリエーショナルダイビングは冒険そのものだと思うし、今度の80:80も冒険だ。そして、探検は冒険という言葉に包括され、とくに目的性の強いものが探検なのだとおもうようになった。人工魚礁調査は探検の一つである。
そして、冒険はもしかして致死性を内包するのかもしれないが、決して致死性の追求ではない。人が生きる原動力になる夢の追求である。もちろん、死んでしまえば何にもならないから、安全も同時に追求する。致死性だから、体験ダイビングと同等に、時として命がけになることもあるが、体験ダイビングと同様に、安全性も確保されなくてはならない。僕の残したいものは、冒険であるスクーバダイビングであり、スクーバダイビングによって行う探検である。安全は大事だが、目的は安全ではなくて冒険である。
なお、ここに書き記した言葉の定義は、必ずしも普遍的なものではなくて、僕個人の定義に近いかもしれない。
※世界最悪の旅 チェリー・ガラード著 加納一郎訳 朝日文庫1993年