ようやく、風邪はひどくならないで済んだようだ。昨夜は、石川さん宅で、あんこう鍋パーティがあり、15時から、18時で終了と思ったら、その頃から来る人がぼつぼつとあり21時に最後のご挨拶をしたのだが、みなさんが帰ってから、僕の80歳、80m潜水の実現についての討論会状態になり、23時過ぎまで続いた。
アンキモとフォアグラを食べ比べる、小俣氏
この頃自己責任の事を続けて書いている。
スクーバダイビングの本質について、ダイビングを習い始めたころの読んだもので記憶にのこっているものがある。どこかに写しとっていたのだが、と探して、ホームページから探し出すことができた。ブログは書きすぎているので、探すのが不可能になっている。ホームページ時代に書いたものが役に立つことが多くなっている。
どるふぃん 3~1・2 1959 DEC.
1950年代から1960年代にかけて、日本潜水科学協会が、僕たちの所属するダイビング組織だった。日本水中科学協会ではなくて、潜水科学協会だ。紛らわしいけれど、紛らわしさをねらったところもある。途中で水が涸れてしまった河、潜水科学協会の伝統を引き継ごうとして、日本水中科学協会と名乗っているのだ、ともいえる。
その1959年の1・2 に僕の師匠である猪野峻先生と菅原久一師匠が書いたもの、
スキューバ・ダイビング入門は、二回目で(Ⅱ)である。
当時も参考にしたのだが、その後、ずいぶん後になって、僕がいろいろダイビングについて書くときに、何度か引用させてもらった。
「 スクーバの長所は
① 水上からの拘束を受けず、水中行動が全く自由自在であること。
② 軽快に機動し、迅速に軽作業が可能であること。
③ 潜水動作を簡単に習得できること
一方短所を見ると
① 潜水時間に絶対的制限を受けること。
② 通話が出来ないこと。(連絡がとれないこと)
と言う致命的弱点がある。
長所である奔放な運動性は、一転すれば、生命の安全保障はダイバー自身以外には無いと言うことであり、自由の代償として、self-control (高度の熟練と技術が必要)の重責を負わなければならぬことになる。簡単に習得できることと、一連の弱点をカバーし得る能力とは矛盾し、そこに見逃せない問題が伏在する。」
これが、僕のスクーバダイバーとしての出発点だったし、その本質は今も変わらない。生命の安全保障はダイバー自身以外には無い、つまり自己責任である。1959年、50年前に、僕がダイビングを始める時点で、スクーバダイビングの危険性と自己責任性は、すでに公知されていたのだ。
スクーバダイビングそのものが、本質的に危険である。その上に、あえて危険を冒して水中を探るのだから、どうしたら、自分が死なないで済むか、どうしたら、仲間を死なせないで済むか、いつも真剣に考え続けて来た。表現を変えれば安全を追求してきたということだろうが、安全を追及すると言うと、到達地点に 安全があるように感じられるが、安全などないから、どうしたら死なないで済むかを考え続けて来た。」
自己責任を否定することは、無責任という事になる。
ただ、事故が起こってしまった時、自己責任を表に押し立てて逃げることはできない。具体的にいうと、例えばバディが離れてしまった場合である。その時の状況にもよるが、これは管理を行う側、リーダーの責任が大きい。勝手にどこかに行ってしまったとしても、行かせてしまったリーダーの責任である。しかし、それも根底に自己責任の自覚がないことから起こったことであり、無事であれば厳しく責任を追及しておかなくてはいけない。
驚いたことがひとつある。ドルフィンの原本を取り出して、もう一度見て見れば、器材が変わっているから、器材については別として、事故の発生のメカニズム説明などは、現在でもそのまま通用するということだ。スクーバの本質はかわっていないから、とうぜんともいえるのだが。
そして、これは、FB で議論した自己責任についての自分なりのまとめであるが。
「僕の書いたことに寺山さん、唐沢さんがコメントしてくれたので、僕の現時点での考えをまとめました。長文になりましたので、別にします。唐沢さん、寺山さん、ありがとうございます。
中田さんの本、よくよむのですが、ひとつのことを(ここではスクーバですが)、まったく正反対の視点から見たら、こうなるという意味で、もういちど熟読しています。資料として、そして、自分の考え方を確認するために、価値がある本だとは認めています。
そもそも、スクーバとは、自己責任以外では成立しない潜水具です。そしてまた、この本では、インストラクター、ないしはガイドダイバーが不死身の人という設定です。多分、裁判所も不死と想定しているのでしょうが、インストラクターもガイドダイバーも次第に高齢化します。一方で成熟した判断力が必要な業務でもあります。バディシステムでは、ゲストがインストラクターを救助しなければならない局面も想定できます。その意味でも、このスポーツは自己責任否定では成立しないのです。スクーバはチームプレー(バディもチームです)だと、僕は位置づけていますが、チームは自己責任を基調として組み立てられます。これは議論する必要もないほど明確なことです。だから、議論ではないのですが、もう一度、初心者も含めて、スクーバを着けて水に入ったら、自己責任であるということを、確認しておく必要があります。
もう一つこの著者は、遺族の事、遺族が訴え出た訴訟の事だけをとりあげていますが、それが、すなわち法的な責任ですからそれで良いのですが、そもそも、自己責任を認めないでスクーバを始めたら、その人の命が危ない。だから、自己責任を強調するのであり、訴訟など勝っても負けてもどうでもよいことなのです。法的責任では、命はもどりません。ガイドの側は、保険をかけて置いて、その結果を見て、受け入れる以外に途はないのです。極論すればそれは法律家の世界であり、現場のダイバーの世界のできごとではないのです。
しかし、それでは無責任というもの、それに至るプロセスを考えた時、自己責任を基調にして安全のための議論を展開しなければ、安全を目指すことはできません。自己責任はいくら強調しても、強調しすぎることは無いと思うのです。自己責任を唱えることが、安全管理を行う者の、責任逃れだとする考え方は事故をおこします。
自己責任ではなくて、無責任で水中で行動するゲストの安全管理は、僕が提案していた送気式とスクーバのハイブリッドであるケーブルダイビングシステム以外にはないと思っています。これでも、パーフェクトではありませんが、少なくとも全訴訟で負けないシステムです。
しかし、このシステムはスクーバではないのでした。
アンキモとフォアグラを食べ比べる、小俣氏
この頃自己責任の事を続けて書いている。
スクーバダイビングの本質について、ダイビングを習い始めたころの読んだもので記憶にのこっているものがある。どこかに写しとっていたのだが、と探して、ホームページから探し出すことができた。ブログは書きすぎているので、探すのが不可能になっている。ホームページ時代に書いたものが役に立つことが多くなっている。
どるふぃん 3~1・2 1959 DEC.
1950年代から1960年代にかけて、日本潜水科学協会が、僕たちの所属するダイビング組織だった。日本水中科学協会ではなくて、潜水科学協会だ。紛らわしいけれど、紛らわしさをねらったところもある。途中で水が涸れてしまった河、潜水科学協会の伝統を引き継ごうとして、日本水中科学協会と名乗っているのだ、ともいえる。
その1959年の1・2 に僕の師匠である猪野峻先生と菅原久一師匠が書いたもの、
スキューバ・ダイビング入門は、二回目で(Ⅱ)である。
当時も参考にしたのだが、その後、ずいぶん後になって、僕がいろいろダイビングについて書くときに、何度か引用させてもらった。
「 スクーバの長所は
① 水上からの拘束を受けず、水中行動が全く自由自在であること。
② 軽快に機動し、迅速に軽作業が可能であること。
③ 潜水動作を簡単に習得できること
一方短所を見ると
① 潜水時間に絶対的制限を受けること。
② 通話が出来ないこと。(連絡がとれないこと)
と言う致命的弱点がある。
長所である奔放な運動性は、一転すれば、生命の安全保障はダイバー自身以外には無いと言うことであり、自由の代償として、self-control (高度の熟練と技術が必要)の重責を負わなければならぬことになる。簡単に習得できることと、一連の弱点をカバーし得る能力とは矛盾し、そこに見逃せない問題が伏在する。」
これが、僕のスクーバダイバーとしての出発点だったし、その本質は今も変わらない。生命の安全保障はダイバー自身以外には無い、つまり自己責任である。1959年、50年前に、僕がダイビングを始める時点で、スクーバダイビングの危険性と自己責任性は、すでに公知されていたのだ。
スクーバダイビングそのものが、本質的に危険である。その上に、あえて危険を冒して水中を探るのだから、どうしたら、自分が死なないで済むか、どうしたら、仲間を死なせないで済むか、いつも真剣に考え続けて来た。表現を変えれば安全を追求してきたということだろうが、安全を追及すると言うと、到達地点に 安全があるように感じられるが、安全などないから、どうしたら死なないで済むかを考え続けて来た。」
自己責任を否定することは、無責任という事になる。
ただ、事故が起こってしまった時、自己責任を表に押し立てて逃げることはできない。具体的にいうと、例えばバディが離れてしまった場合である。その時の状況にもよるが、これは管理を行う側、リーダーの責任が大きい。勝手にどこかに行ってしまったとしても、行かせてしまったリーダーの責任である。しかし、それも根底に自己責任の自覚がないことから起こったことであり、無事であれば厳しく責任を追及しておかなくてはいけない。
驚いたことがひとつある。ドルフィンの原本を取り出して、もう一度見て見れば、器材が変わっているから、器材については別として、事故の発生のメカニズム説明などは、現在でもそのまま通用するということだ。スクーバの本質はかわっていないから、とうぜんともいえるのだが。
そして、これは、FB で議論した自己責任についての自分なりのまとめであるが。
「僕の書いたことに寺山さん、唐沢さんがコメントしてくれたので、僕の現時点での考えをまとめました。長文になりましたので、別にします。唐沢さん、寺山さん、ありがとうございます。
中田さんの本、よくよむのですが、ひとつのことを(ここではスクーバですが)、まったく正反対の視点から見たら、こうなるという意味で、もういちど熟読しています。資料として、そして、自分の考え方を確認するために、価値がある本だとは認めています。
そもそも、スクーバとは、自己責任以外では成立しない潜水具です。そしてまた、この本では、インストラクター、ないしはガイドダイバーが不死身の人という設定です。多分、裁判所も不死と想定しているのでしょうが、インストラクターもガイドダイバーも次第に高齢化します。一方で成熟した判断力が必要な業務でもあります。バディシステムでは、ゲストがインストラクターを救助しなければならない局面も想定できます。その意味でも、このスポーツは自己責任否定では成立しないのです。スクーバはチームプレー(バディもチームです)だと、僕は位置づけていますが、チームは自己責任を基調として組み立てられます。これは議論する必要もないほど明確なことです。だから、議論ではないのですが、もう一度、初心者も含めて、スクーバを着けて水に入ったら、自己責任であるということを、確認しておく必要があります。
もう一つこの著者は、遺族の事、遺族が訴え出た訴訟の事だけをとりあげていますが、それが、すなわち法的な責任ですからそれで良いのですが、そもそも、自己責任を認めないでスクーバを始めたら、その人の命が危ない。だから、自己責任を強調するのであり、訴訟など勝っても負けてもどうでもよいことなのです。法的責任では、命はもどりません。ガイドの側は、保険をかけて置いて、その結果を見て、受け入れる以外に途はないのです。極論すればそれは法律家の世界であり、現場のダイバーの世界のできごとではないのです。
しかし、それでは無責任というもの、それに至るプロセスを考えた時、自己責任を基調にして安全のための議論を展開しなければ、安全を目指すことはできません。自己責任はいくら強調しても、強調しすぎることは無いと思うのです。自己責任を唱えることが、安全管理を行う者の、責任逃れだとする考え方は事故をおこします。
自己責任ではなくて、無責任で水中で行動するゲストの安全管理は、僕が提案していた送気式とスクーバのハイブリッドであるケーブルダイビングシステム以外にはないと思っています。これでも、パーフェクトではありませんが、少なくとも全訴訟で負けないシステムです。
しかし、このシステムはスクーバではないのでした。