3月6日に、 バリ島の漂流事故について、下記のような書だして、ブログを書いた。
これは、あくまでも僕の個人的な考え、それも頭の中を通り過ぎるだけのことだから、論文的に正確を期する事でもないし、責任ももてない。
少し前にインドネシアはバリ島で起きた漂流事故のことである。事故が起こった当初、興奮していろいろなことを考え、書いて、一部はブログに乗せた。7人流されて、まだ、二人が行方不明の時であり、まだ、正確なことはわかっていないし、処理も終わっていないことだから、断定的に聞こえることは言わない方がよいと忠告されて消去した。振り返れば、その時はそのように考えたのだから、構わないようにも思うが、言葉尻をとらえられて、あの時、あんなふうに言ったと咎められるから、やはり消しておいてよかった。
内容はこれから書こうとしていることと大差はない。
この事故を見る視点がどうも一般の人の視点になっていた。そのことが気になったから、中田誠著「商品スポーツ事故の法的責任」という本を再読した。再読と言っても、この前、最後まで読んだかどうかわからない、こんどもまだ途中である。自分とは全く違った視点でダイビングを見ることができる名著であるから、座右の書と言っても良いくらいだ。
ここまでは、6日に書いた部分である。
この本は、ダイビング事故は訴訟として、どのように扱われているかについての資料になるし、漂流事故の事例についても書かれている。意見として、自分とほぼ等しい部分もある。しかし、この本と、自分とのスタンスを明確に示さないで、不用意に引用したので、一旦、全文をブログから削除した。
ここにまずこの本についての、僕の考えを明示したうえでの引用でないと、同一視される恐れがある。
この本のいくつかの点で、心情的にも、自分の潜水のここまでの経歴、考えてきたことの上で、完全に相いれない。
その第一は、これがもっとも重要なことなのだが、この本にはスクーバダイビングについての共感、海を愛し、ダイビングが好きだという視点が欠落している。ダイビングを楽しもう、楽しませよう、あるいはダイビングを手段として、命を危険にさらして活動しようとしているダイバーたちについての理解がない。むしろ敵対しているということである。
その一つの表れが「致死性」という言葉、である。この本の総論ともいうべき、第一部、商品スポーツ概論 では多数の「致死性」という言葉がちりばめられている。「商品に高い致死性があることを社会と消費者に隠蔽していたこと」「致死性を内包する商品スポーツ」など、そして、至る所で、致死性であることの証明として、事故例が取り上げられている。
確かに、ダイビングの場合、事故というと命に及んでいる事故例が思い浮かべられる。しかし、致死性という言葉には、死に至る可能性が高いことが強く印象付けられる要素がある。まるで、ダイビングを行えばすぐに死んでしまうようなイメージがある。そして、死に至らしめられる。つまり、インストラクターやガイドダイバーに殺されるという意味だ。僕も、プロのダイビングとしては、「死ぬか、上手になるか、やめるか」の三つしかないとか、「ロシアンルーレットのようなものだ。」とか、過激な表現をしたことがある。しかし、それは自分の会社の社員、あるいは身内などについて、ダイビングに立ち向かう覚悟を言ったものであり、商品として売られるレクリエーショナルダイビングについて言ったことではない。レクリエーショナルダイビングをしようとする人たちに対しても、このスポーツが持つ、命を落とすかもしれない危険性について、正確な知識を与える必要はあるが、それは、致死性などと表現されるべきものではない。本当に、致死性、殺されるという言葉が正当化されるような商品であったならば、それは、国によって制限されるべき事柄だろうと考える。もしかしたら、この本の著者は、このスポーツを禁止させようとしているのかもしれない。ほかの表現はいくつも考えられる。ここにそのすべてを上げることはできないが、古典的な表現、1950年代から使われている表現、「ルールを定めて遵守しないと、命にかかわる事故を起こす可能性がある」というのもある。この場合、ルールを守らないのは、事故者本人に帰納する場合が多く、致死性という言葉とはずいぶんと違う。
この前のブログでは、致死性という言葉が含まれる部分の引用を不用意にしていたので、削除した。
なお、スクーバダイビングでは、日体協の作っているスポーツ安全保険では、アメリカンフットボールとかパラグライダー、一部の登山が別格の保険料が必要とされるのに対して、他のスポーツ波の保険料金で推移している。スポーツ安全保険はクラブ活動を行うスクーバダイビングクラブの多きが加盟しており、学生のクラブには必須と薦めている。この範囲内で事故がいくつか発生すれば、保険料金が上がることが想定されるから、クラブ活動で要求される程度のルールを守っていれば、死亡事故は起きていないことの証明にもなる。もちろん、スクーバは安全ですなどという気のゆるみがあれば、たちまち事故が起こり、保険料金も値上がりするであろう。
その第二は、自己責任についてである。「その責任を「自己責任」という文言を利用して、消費者に転化することは許されない。」3p がある。この本では自己責任は認められていないのだ。少なくとも、対価を払って指導してもらう、ガイドしてもらう状況では、それは商品スポーツであり、「自己責任」ということで、消費者に転化することは、許されない。
しかし、許そうが許すまいが、ボート、あるいは陸上と一切の直接的な連絡を切断したスクーバは、その成り立ちから、自己責任の潜水である。初心者であろうがベテランであろうが、その自己責任の度合いは異なるにせよ、自己責任が原則である。自己責任が許されないのであれば、スクーバダイビングは許されない。すべてのスクーバダイビング事故は、その半分は本人の責任であり、本人に自覚がなく、努力が無ければ、スクーバダイビングは、本当に致死性になる。したがって、この本が事故を起こす本人に向けられたものであるならば、その内容は納得できるが、法的責任を論じたものとしては、肯定できない。
その三は、著者が再三にわたって、東京大学潜水作業事故全学調査委員会について言及し引用している。
60p「東京大学農学部潜水作業事故全学調査委員会、平成18年3月30日40Pでは、「①役務提供商品に対する製造物責任法(PL法)の適用要求、ダイビング業界はピラミッド型の業界形態、(階層的事業構造)をとっている。ダイビングビジネスの最上位にある(指導団体)は、一般ダイバーやインストラクターなどの養成プログラムンの製造、販売や、その結果の認定事業を下部の講習機関や、インストラクターを通して実施することを目的とした事業を行っている―中略― したがって、会員個々の事業の結果に対する最終的な責任は「指導団体」にあると考えるのが自然である」としている。」
この議論が正当であるか否かについては、また別の議論が必要であるが、そもそも、東京大学潜水作業事故全学調査委員会は、指導団体の責任をテーマとしている委員会ではない。379P 「本書刊行についてのあとがき」東京大学名誉教授 桐野豊 では、「略―平成17年7月4日に、農学生命科学研究科・水圏天然物化学研究室の研究者4名が、八丈島沖で研究材料としての海綿を採集するため潜水中にリサーチフェローが溺死するという痛恨極まりない事故が発生した。これに対し、東京大学総長は、東京大学潜水作業事故全学調査委員会を設置して、再発防止策を確立することを指示した。」
すなわち、この委員会は、レクリエーションダイビングのあり方について設置された委員会ではない。レクリエーショナルダイビングの業界が「楽しさ、安全を強調していた(平成17年当時は、もはや安全を強調などしていないし、リサーチダイビングの世界では、昭和57年に日本潜水科学協会が発足して以来、危険を強調していた)」ために事故は起こったとするのは、東京大学潜水作業事故全学調査委員会の結論であろうわけがなく、正常化の偏見(横断歩道みんなで渡れば怖くない)は、東京大学の反省であり、一般レクリエーショナルダイビングのインストラクターは、そんな偏見はもっていない。この報告書の引用部分は、この著者の主張を報告書に掲載したにすぎないものであり、この報告書の全文をネットでみれば、本来の事故報告として、さすがに東大で、公式文書として、明確な事故報告が行われていることがわかる。
そして、33pには「死者や遺族に対しての礼儀などが最低限度要求される」とあるがこの事故の遺族、ご両親は、この著者の言動を諒とせず、詳細な本当の説明を求めて、僕のところにお見えになり、出来るだけの説明を申し上げ、現在は水中科学協会を後援してくださっている。
この矛盾により、この本には、ダイビングが好きで、その安全と、矛盾があるとすれば正常化を願おうという心が、無いと結論せざるを得ない。なんとなれば、この本からの引用が、僕の文についてもダイビング関係者の誤解を招く恐れがあり、全文を削除せざるを得なかったからである。(そのような指摘を受けた)
ダイビングを愛する心があり、致死性などという、すぐに死んでしまう可能性を示唆する言葉の使用がなく、遺族の心に対するケアがあるのならば、良かったのに、と思いつつ、今後、この本のデータ部分を引用することもある。この部分についての著者の努力は傾倒に値する。
これは、あくまでも僕の個人的な考え、それも頭の中を通り過ぎるだけのことだから、論文的に正確を期する事でもないし、責任ももてない。
少し前にインドネシアはバリ島で起きた漂流事故のことである。事故が起こった当初、興奮していろいろなことを考え、書いて、一部はブログに乗せた。7人流されて、まだ、二人が行方不明の時であり、まだ、正確なことはわかっていないし、処理も終わっていないことだから、断定的に聞こえることは言わない方がよいと忠告されて消去した。振り返れば、その時はそのように考えたのだから、構わないようにも思うが、言葉尻をとらえられて、あの時、あんなふうに言ったと咎められるから、やはり消しておいてよかった。
内容はこれから書こうとしていることと大差はない。
この事故を見る視点がどうも一般の人の視点になっていた。そのことが気になったから、中田誠著「商品スポーツ事故の法的責任」という本を再読した。再読と言っても、この前、最後まで読んだかどうかわからない、こんどもまだ途中である。自分とは全く違った視点でダイビングを見ることができる名著であるから、座右の書と言っても良いくらいだ。
ここまでは、6日に書いた部分である。
この本は、ダイビング事故は訴訟として、どのように扱われているかについての資料になるし、漂流事故の事例についても書かれている。意見として、自分とほぼ等しい部分もある。しかし、この本と、自分とのスタンスを明確に示さないで、不用意に引用したので、一旦、全文をブログから削除した。
ここにまずこの本についての、僕の考えを明示したうえでの引用でないと、同一視される恐れがある。
この本のいくつかの点で、心情的にも、自分の潜水のここまでの経歴、考えてきたことの上で、完全に相いれない。
その第一は、これがもっとも重要なことなのだが、この本にはスクーバダイビングについての共感、海を愛し、ダイビングが好きだという視点が欠落している。ダイビングを楽しもう、楽しませよう、あるいはダイビングを手段として、命を危険にさらして活動しようとしているダイバーたちについての理解がない。むしろ敵対しているということである。
その一つの表れが「致死性」という言葉、である。この本の総論ともいうべき、第一部、商品スポーツ概論 では多数の「致死性」という言葉がちりばめられている。「商品に高い致死性があることを社会と消費者に隠蔽していたこと」「致死性を内包する商品スポーツ」など、そして、至る所で、致死性であることの証明として、事故例が取り上げられている。
確かに、ダイビングの場合、事故というと命に及んでいる事故例が思い浮かべられる。しかし、致死性という言葉には、死に至る可能性が高いことが強く印象付けられる要素がある。まるで、ダイビングを行えばすぐに死んでしまうようなイメージがある。そして、死に至らしめられる。つまり、インストラクターやガイドダイバーに殺されるという意味だ。僕も、プロのダイビングとしては、「死ぬか、上手になるか、やめるか」の三つしかないとか、「ロシアンルーレットのようなものだ。」とか、過激な表現をしたことがある。しかし、それは自分の会社の社員、あるいは身内などについて、ダイビングに立ち向かう覚悟を言ったものであり、商品として売られるレクリエーショナルダイビングについて言ったことではない。レクリエーショナルダイビングをしようとする人たちに対しても、このスポーツが持つ、命を落とすかもしれない危険性について、正確な知識を与える必要はあるが、それは、致死性などと表現されるべきものではない。本当に、致死性、殺されるという言葉が正当化されるような商品であったならば、それは、国によって制限されるべき事柄だろうと考える。もしかしたら、この本の著者は、このスポーツを禁止させようとしているのかもしれない。ほかの表現はいくつも考えられる。ここにそのすべてを上げることはできないが、古典的な表現、1950年代から使われている表現、「ルールを定めて遵守しないと、命にかかわる事故を起こす可能性がある」というのもある。この場合、ルールを守らないのは、事故者本人に帰納する場合が多く、致死性という言葉とはずいぶんと違う。
この前のブログでは、致死性という言葉が含まれる部分の引用を不用意にしていたので、削除した。
なお、スクーバダイビングでは、日体協の作っているスポーツ安全保険では、アメリカンフットボールとかパラグライダー、一部の登山が別格の保険料が必要とされるのに対して、他のスポーツ波の保険料金で推移している。スポーツ安全保険はクラブ活動を行うスクーバダイビングクラブの多きが加盟しており、学生のクラブには必須と薦めている。この範囲内で事故がいくつか発生すれば、保険料金が上がることが想定されるから、クラブ活動で要求される程度のルールを守っていれば、死亡事故は起きていないことの証明にもなる。もちろん、スクーバは安全ですなどという気のゆるみがあれば、たちまち事故が起こり、保険料金も値上がりするであろう。
その第二は、自己責任についてである。「その責任を「自己責任」という文言を利用して、消費者に転化することは許されない。」3p がある。この本では自己責任は認められていないのだ。少なくとも、対価を払って指導してもらう、ガイドしてもらう状況では、それは商品スポーツであり、「自己責任」ということで、消費者に転化することは、許されない。
しかし、許そうが許すまいが、ボート、あるいは陸上と一切の直接的な連絡を切断したスクーバは、その成り立ちから、自己責任の潜水である。初心者であろうがベテランであろうが、その自己責任の度合いは異なるにせよ、自己責任が原則である。自己責任が許されないのであれば、スクーバダイビングは許されない。すべてのスクーバダイビング事故は、その半分は本人の責任であり、本人に自覚がなく、努力が無ければ、スクーバダイビングは、本当に致死性になる。したがって、この本が事故を起こす本人に向けられたものであるならば、その内容は納得できるが、法的責任を論じたものとしては、肯定できない。
その三は、著者が再三にわたって、東京大学潜水作業事故全学調査委員会について言及し引用している。
60p「東京大学農学部潜水作業事故全学調査委員会、平成18年3月30日40Pでは、「①役務提供商品に対する製造物責任法(PL法)の適用要求、ダイビング業界はピラミッド型の業界形態、(階層的事業構造)をとっている。ダイビングビジネスの最上位にある(指導団体)は、一般ダイバーやインストラクターなどの養成プログラムンの製造、販売や、その結果の認定事業を下部の講習機関や、インストラクターを通して実施することを目的とした事業を行っている―中略― したがって、会員個々の事業の結果に対する最終的な責任は「指導団体」にあると考えるのが自然である」としている。」
この議論が正当であるか否かについては、また別の議論が必要であるが、そもそも、東京大学潜水作業事故全学調査委員会は、指導団体の責任をテーマとしている委員会ではない。379P 「本書刊行についてのあとがき」東京大学名誉教授 桐野豊 では、「略―平成17年7月4日に、農学生命科学研究科・水圏天然物化学研究室の研究者4名が、八丈島沖で研究材料としての海綿を採集するため潜水中にリサーチフェローが溺死するという痛恨極まりない事故が発生した。これに対し、東京大学総長は、東京大学潜水作業事故全学調査委員会を設置して、再発防止策を確立することを指示した。」
すなわち、この委員会は、レクリエーションダイビングのあり方について設置された委員会ではない。レクリエーショナルダイビングの業界が「楽しさ、安全を強調していた(平成17年当時は、もはや安全を強調などしていないし、リサーチダイビングの世界では、昭和57年に日本潜水科学協会が発足して以来、危険を強調していた)」ために事故は起こったとするのは、東京大学潜水作業事故全学調査委員会の結論であろうわけがなく、正常化の偏見(横断歩道みんなで渡れば怖くない)は、東京大学の反省であり、一般レクリエーショナルダイビングのインストラクターは、そんな偏見はもっていない。この報告書の引用部分は、この著者の主張を報告書に掲載したにすぎないものであり、この報告書の全文をネットでみれば、本来の事故報告として、さすがに東大で、公式文書として、明確な事故報告が行われていることがわかる。
そして、33pには「死者や遺族に対しての礼儀などが最低限度要求される」とあるがこの事故の遺族、ご両親は、この著者の言動を諒とせず、詳細な本当の説明を求めて、僕のところにお見えになり、出来るだけの説明を申し上げ、現在は水中科学協会を後援してくださっている。
この矛盾により、この本には、ダイビングが好きで、その安全と、矛盾があるとすれば正常化を願おうという心が、無いと結論せざるを得ない。なんとなれば、この本からの引用が、僕の文についてもダイビング関係者の誤解を招く恐れがあり、全文を削除せざるを得なかったからである。(そのような指摘を受けた)
ダイビングを愛する心があり、致死性などという、すぐに死んでしまう可能性を示唆する言葉の使用がなく、遺族の心に対するケアがあるのならば、良かったのに、と思いつつ、今後、この本のデータ部分を引用することもある。この部分についての著者の努力は傾倒に値する。