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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0306 漂流ー1

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 昨日、辰巳プールで奮闘したので、きょう午前中はのんびり過ごそうとおもったが、気持ちはのんびりできない、のに、のんびりしている。いろいろなこと、よしなしごとが頭の中を通り過ぎる。

 これは、あくまでも僕の個人的な考え、それも頭の中を通り過ぎるだけのことだから、論文的に正確を期する事でもないし、責任ももてない。

 少し前にインドネシアはバリ島で起きた漂流事故のことである。事故が起こった当初、興奮していろいろなことを考え、書いて、一部はブログに乗せた。7人流されて、まだ、二人が行方不明の時であり、まだ、正確なことはわかっていないし、処理も終わっていないことだから、断定的に聞こえることは言わない方がよいと忠告されて消去した。振り返れば、その時はそのように考えたのだから、構わないようにも思うが、言葉尻をとらえられて、あの時、あんなふうに言ったと咎められるから、やはり消しておいてよかった。
 内容はこれから書こうとしていることと大差はない。

 この事故を見る視点がどうも一般の人の視点になっていた。そのことが気になったから、中田誠著「商品スポーツ事故の法的責任」という本を再読した。再読と言っても、この前、最後まで読んだかどうかわからない、こんどもまだ途中である。自分とは全く違った視点でダイビングを見ることができる名著であるから、座右の書と言っても良いくらいだ。まだ、再読三分の一ぐらいだから、読み続けよう。
 「ダイビングは致死性のスポーツであり、それを商品としているのだから法的責任は重い。」というコンセプトの本だ。そして、自己責任という考え方は、責任逃れの表現だとしている。ダイビングは致死性であるという証明のために、次々と危険例をあげる。そんなに例を挙げなくても、ダイビングで人が死ぬことはまちがいないのだから、致死性のスポーツである。
「致死性のスポーツを商品として売ったりしてはいけない」というのが僕のダイビングを教えられた時からの考え方である。数日前、千葉県の波佐間へ行き、波のある海で潜り、昔の僕よりも、当時の僕が100とすれば、120ぐらいの能力の荒川さんのガイド、お世話になって潜水した。致死性のスポーツを買ったのではない。僕たちだけでは危ない海で、助けてもらうその代価、船代、時間代、を支払うのであり、致死性スポーツ商品を買ったわけではない。
 しかし、一般的には商品としてのダイビングが通用している。いわゆる講習というのは商品だろう。講習の結果、身に着けた技術と知識を持ってダイビングをする。その手助けをしてもらうのは商品ではない。ただ、現今のダイビングは、ダイビングを始めてから、インストラクターになるまでが商品化されていて、どこまでが商品なのか、自己責任のダイビングなのか定かではなくなっている。多分、それぞれの指導組織によってそれは定められているのだろうが、それが統一されていないために、素人ではない僕でもわからない。ましてや一般社会にはわからないだろう。
僕の考えでは、講習ですと言われて、講習の代価を支払えばそれは講習であり、自己責任ではない。講習ではありません自由練習ですと言えば、自己責任である。ダイビング技能講習ではないと言い切って、友人、あるいはグループで行くダイビング活動はすべて自己責任である。ただし、学生の潜水クラブのクラブ活動は自己責任ではなくて団体責任である。潜水業務も自己責任ではない、業務の指令をする事業者の責任である。
今、スポーツ安全保険という保険に自分のグループ全員に加入をお願いしているが、これは講習についてはカバーされない。講習は、商品スポーツだからであろう。ただし、一緒に行うスポーツ活動における指導[コーチング)は、講習ではないからカバーされる。
 一方で、インストラクターの加盟している賠償責任保険は、自己責任の活動であると言えば、カバーしてもらえない。講習と言えば、文句なしに保険が降りるから、ほとんどのダイビングは、保険でカバーされている講習、すなわち、販売する側が訴訟される商品になるのだろう。そのあたりは複雑であり、ケースバイケースと考えられなくもない。
責任を認めない限り賠償責任保険は支払われないという、パラドックスがあるから、明確な線引きを、業界としてはできないのだろう。
自分としては、講習か講習でないかと明確な線引きをしているが、これは個人的なものであり、業界すべてにわたってコンセンサスのあるものではない。また、講習ではなくて練習だと言い切ってしまえば、訴えられた時に、賠償責任保険が支払われない可能性があるので、グレイにしてしまう。
どの段階まで、どのような活動が講習なのか練習なのか、PADIはPADI、NAUIはNAUIで、線引きをしていると思うが、僕の目、耳には入ってきていない。多分、オープンウォーターがその基準ですというのかもしれないが、社会的には説得力がなくて、中田さんの著書が生まれる背景になっている。

         写真はイメージです。
 そして、僕の個人的な判断では、バリ島の漂流事故でのお客5人は全員、自己責任で参加したのだと考えるが、今後の推移で、どのようになるか、それはわからない。部外者が云々することではない。
とにかく、近頃のたくましい女性ダイバー5人が、2人のインストラクター、・ガイドダイバーに案内されてドリフトダイビングを行った。亡くなった最年長の人も、不確定なまた聞きだが、海女さんをやっているそうだ。
 僕は、この前、事故について述べた時に、携帯などの無線機器を持っていればこの事故は防げたと述べ、この意見は今も変わらないし、ローカルルールとして、その地域のガイド組合のようなものがあれば、その組合が取り決めるべきもので、今後の課題である。そして、このような事故の防止には、そのローカルルールが最重要であるという意見も変わらない。
 しかし、それを用意していなかったことが、法的責任になるかどうかは別である。ローカルルール(それが一般的)であれば、咎められるだろう。ローカルルールが無かったとすれば、業界としては、そのようなローカルルール(ローカルカスタムでもよいが、新しく取り決めるとすれば、ルールであろう)が浸透するべく努力しなくてはいけない。僕が学生連盟について、やろうとしていることは、安全のためのローカルルール(組織の責任体制の確立)の徹底である。
 
 とにかく、そういう状況で、7人の女性は、ダイビングに出発した。ここから先は、まったくの個人的な想像、ストーリーである。それを書くことの是非はあるだろうが、多分日本中の、ある程度以上の、上記で言えば自己責任で活動できるダイバーのほとんどすべてが、頭の中でこのようなシナリオを組み立てただろう。そのうちの一つである。おなじような事故がおこらないように、(なるべくであり、絶対になどとは言わない)それぞれのシナリオでディスカッションすることは、悪いことではないと思う。
 漂流の体験について、他の漂流事故で、書き残されたものがいくつかある。いずれ、彼女たちのだれかが、書くかもしれないが、僕はそれが必ずしも正確とは思えない。すでにガイドした側とお客の一人の語ったことが食い違っている。責任の追及という視点もあるので、食い違いを指摘することは適切ではないだろう。それぞれのダイバーの想像のシナリオで、それだけで良いのかもしれない。ダイビング事故を防ぐために必要なのは想像力なのだから。

 7人の女性たちは、前と後ろ、二人のガイドに守られて、途中難所はあったかもしれないが、バラバラになることもなく、一緒に浮上した。一緒に浮上できたということは、二人のガイドの優れた技量であり、天気が良ければ、ここでボートに回収され、何事も無く幸せに、良いダイビングが出来たと満足して家路についただろう。
 しかし、雨が強く視界不良でボートから浮上したダイバーを見つけることができなかった。ここには、ボートオペレーターの能力の優劣があり、ダイバーとのチームワークの強さが問題になるが、神業的な技量を持っていなかったこと、そして、陸地、他のボートとの連絡手段を持っていなかったことは、問題にされるだろうが、現地の警察では、一応の取り調べの後、責任を問わないことにしている。
 今後のことを考えるならば、同じコースをリクエストする自己責任のダイバーは、現地のダイビングサービスがこれらの点の改善状況を確認し、改善されていなくても、まあいいや、と考えれば、それはそれで良いだろう。そのことも含めての自己責任なのだ。
 とにかく流れてしまった。

続く

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