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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0227 要約するとー3

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 月刊ダイバーの連載「ニッポン潜水グラフィティ」書けなかったこともあるし、書いたがスペースが無いためにカットしたエピソードもある。月刊ダイバーのグラフィティは、娘の須賀潮美の編集であり、彼女のコンセプトが、「夢と冒険」であったので、そのコンセプトからはみ出した、技術的な問題も書けなかった。この「夢と冒険」のコンセプトは正しくて、21世紀のダイビングでは、夢と冒険を追うことはとても難しい。僕の過ごしてきたダイビング生活は、海に潜るという事、ただそれだけで、夢と冒険だった。
今、中田誠さんの書いた「商品スポーツ事故の法的責任」という本を読み返している。これについて論じるのはまた別の機会にしっかりと書きたいが、夢と冒険は、この本にかかれているところの「商品スポーツ」にはなりえない。前にこの本を読んだ時に、反発、反感をもったのは、自分が「夢と冒険」の真っただ中にいたからで、今は少し違う視座から見られる。
バリ島の漂流事故について、ずいぶん書いたり消したりした。ブログも削除した者、削除した部分がかなりある。ここしばらくは、この事故については書かないでおこうとおもっている。しかし、流された彼女たち、そして、命を失くした二人は、夢と冒険を追ったのだ。技術的にもその場の処置についても不備なところがあり、見方によれば、人災といえないこともない。すべてのダイビング事故が人災であると同じ程度に人災だったように、そして夢と冒険を追うダイビングのすべてが、一つ間違えば、人災になり得る問題を内在している。
ああ、もうこの事故について書くのは、しばらく封印のはずだった。
そして、とりあえずは、月刊ダイバーで漏れたエピソード、技術的な問題、そして、1986年で終わっている、その1986年から後のことをぼつぼつ、ブログで書いておこう。これがその3回目だったか。


        沼沢沼発電所取水トンネル
1981年、龍泉洞を撮影した。そして次の年、1982年(昭和57年)3月、東北電力の依頼で、福島県沼沢沼揚水式の水力発電所の取排水トンネルの調査をやることになった。
揚水式とは、夜間、工場が停止して電力消費が少ない時間帯に余った電力を使って発電機を逆転させて、只見川にある下部貯水池から山の上の沼沢沼に、水を揚げる。揚げた水を昼間に落として発電する。水力発電所とは、電力イコール水のエネルギーだから、夜の間の電力で水のエネルギーを貯金する。そして、昼間に貯金を下ろす。僕たちの受けたのは、夜のうちに、余った電力を使って、只見川の水を上げて沼沢沼に送り込む横穴のトンネルの調査である。ヒビが入っていないか、連結している管の隙間がずれているのではないかを見る。水を一気に落下させるトンネルが山の斜面に並んでいるのを水力発電が盛んな時代には、山岳地帯ではよく見ることがあった。しかし、その落下トンネルは入ることなど不可能だ。沼から、水の落下点に水を導く、山の上にあるほぼ水平なトンネルである。このトンネルを水が往来する。

山の上の入り口からトンネルの中に入り込む。トンネルの長さは480m、行き止まりの沼の出口は格子のような蓋で塞がれている。向こうに抜けることはできない。行って戻って来なくてはならない。水深30-35m、水温は3月で3度。淡水の3度はレギュレーターが凍結して吹き出す。
タンクを背負っていって、仕事をして戻ってくる空気量は無い。減圧停止も長い。
トンネルの中にやや太いホースのエアラインを引き、4人一組のチームだから、先端部で、4本に枝分かれさせたフーカーホースを着けた。この、やや太いホースで送られる空気の吸い口までの往復だけをスクーバで行う方式を考え出した。

        沼沢沼調査メンバー
月刊ダイバーのグラフィティに書いているが、1970年代、スガ・マリンメカニックの労働条件は、原則として、日曜日は仕事が無ければ休み、海に行くときでなければ、出勤はフレックス、社会保険なし、各自国民健康保険に入る。ボーナスなし、退職金も無し、仕事が無くなれば倒産、と言っても倒れる産は無いから、事実上の消滅、ダイビングはロシアンルーレットのようなものだから、弾がでれば人生は終わり。それでも良いというダイバーが入ってくる仕組みにしていた。それが、やがて少しずつ整備されて、当たり前の会社になりかけたところで、皮肉なことに事故がおこった。このことは、やはり月刊ダイバーの3月号、最終回に書いている。「夢と冒険」と会社業務の間で起きた事故であった。
ロシアンルーレットの緊張感が大事なのかもしれない。しっかり管理するなどと言いながら、抜けている。会社、組織としてダイビングをやることは、とても難しい。つまり、自己責任の緊張と、管理責任の人任せの谷間があり、管理責任の方が何倍か難しいということだ。管理責任で人の命を管理することなど、出来ないのではないか。管理責任を本当に負うのならば、今のレクリエーショナルダイビングは、まったく変わった形になるだろう。

ロシアンルーレットで入社してきた鶴町(中央大学海洋研、村田さん、丸山さんと同期のNAUIインストラクター)と、その後すぐに入ってきた井上孝一(東海大学卒、水中エレクトロニックス、バイテレを卒業論文テーマにしていた)は、入社直後に、やはり山の上の発電所の取水トンネルの調査に知り合いの工事会社に人出し(労務提供)で行ったことがある。工事は、彼らの他にもう一人、年長のダイバーと三人チームだった。点検が終わり、年長の一人が、トンネルの中にスパナ―を忘れてきたと取りに戻った。そのまま戻ってこなかった。二人が探しに行くと入り口から20mぐらいのところで、空気が尽きて死んでいた。
径が3mぐらいの管は、暗い水中でライトだけが光で見るとただの壁である。管だから上も下も左右もわからない。だから、ロープは必須である。もちろん、作業中はロープを着けていた。作業が終了し、ほんの数メートルだからとロープを体に付けないで入った。ベテランの過信だ。
僕はこの事故を肝に命じていた。だから、太いホースでの空気供給システムを考え出して、作った。メインのホースがあるから、ロープを体に付ける必要はない。ただ、太いホースも、どっちが出口かわからなくなる。ホースには、50m間隔でマイク・スピーカーを着けた。これで水面と通話できる。水中から、「今どこにいますか」と声を出せば、何番目のマイクからしゃべっているかわかるから「何メートル地点」と答えが返ってくる。僕たちの得意分野の水中音声を使ったものだ。
先端までの480mは、遠い。往復にスクーターを使うことを考えた。当時はまだ珍しく、スガ・マリンメカニックは持っていない。大阪の、マリン、山本進さんが持っていたので借りた。かなり大きいものだが、4人交代のダイバー4人を牽引して走る力は無い。僕だけが使うことにした。チーフダイバーの河合に言われた。「そんな玩具を使って、もし壊れたらどうするんですか、僕らが引き上げに行くのですからね。」「電池でモーターを回しているだけだから、こわれないよ。壊れても世話にならないから。」
水温3度は冷たい。怖いのはレギュレーターが凍結して吹いてしまう事だったが、幸いにして、凍らなかった。フリーフローした時のために、メインホースの50m置きに、枝分かれしたセカンドステージを着けて置いた。吹いても、メインホースの空気は無尽蔵だから、何とかなる。とにかく冷たい。スポンジの手袋の中に水が入って来ないように、ビニールテープで手首を軽く巻いた。もちろん、着ているのはドライスーツだ。
そのビニールテープがほどけて、ぶら下がっていた。それがスクーターのスクリュー軸に絡まった。スクリューは止まった。スポンジの手袋では、絡まったテープは外せない。思い切って手袋を外した。外した時は切られるように冷たかったが、1分も我慢していれば、冷たさに慣れるので大丈夫,。

苦労はしたけれど、調査は無事に終了し、500mのメインホースもするすると引きだせた。先端から、毎日、工事の終わった分だけ、引き出していたから、終わりころには、50mほどになってはいたが、無事に撤収して、これで安心と思うと、ベテランダイバーの太田さんがいない。「工具の撤収に戻って行きました」という。トンネルの中には、何一つ残してはいけないのだ。一瞬血が引いた。それをやらないために「工事指示書」マニュアルも徹底したし、大掛かりにスピーカーも付けた。その命綱のメインホースを引きだした後に入って行く。すぐに迎えに行くダイバーをスタンバイさせたが、無事だった。

このシステムで龍泉洞をやろう。皆に相談すると、関わりのあるプロのダイバーはほぼ全員参加希望、交通費と食事が出ればギャラは要らないとまでいう。30人も集めて、このホース引き込み工法でやれる。プロ作業ダイバーの大イベントになる。
 何度となくテレビ局に企画書を出した。通る寸前まで行ったのも二つあったが、「本当にX洞はあるのですかね?」と聞かれると、「あります。」と答えればよかったのだが、わかりませんと答え、すべて実らなかった。テレビ番組は結果が必要だ。
 後に久保君が、洞窟学会の調査として龍泉洞潜水をやることになり、その手があったかと思ったが、久保君は、JAUSの中心である理事である。当時の道具が残っていれば、何か手伝えかもしれないが、何も残っていない。
 




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