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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0221 真野先生を偲んで

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 真野喜洋東京医科歯科大学名誉教授が亡くなられ、昨夜お通夜があり、参列した。
真野先生は日本の潜水医学の分野で多くの業績を残された。専門的な医学分野での業績については、詳しくは知らない。知ったとしても、僕のスタイルの生き方、つまりダイビングの現場的な生き方とは、あまりかかわりは無い。自分の位置から見ると、業績の一つが、僕たちとの付き合いであった。どの分野のダイバーとも等しく、同一目線で話をして、適切なアドバイスをしてくれた。僕は幸いなことに減圧症にはかかっていないが、かかったとすれば、もっとお世話になることになっただろう。
真野先生の、これも僕にとってだが、僕の意見をなんでも聞いてくれた。聞いてくれたとは文字通りに聞き取ってくれたということだが、お願いしたことで、できることはしてくれた。このことは、僕だけではなく、きっと、昨夜のお通夜に参列した多くの人にとっても同じだったのだろう。専門分野である潜水医学では、真野先生ほど、直接、間接に減圧症を少なくしてくれることに実績のあった人は無かったと言ってよい。
僕が、「減圧症で死んだ人をこの頃聞かない。」と、安全停止などせずに、何かがあったら医科歯科大学に行けばいいなどとうそぶいていられようになったのは、真野先生のおかげである。先生に足を向けて寝てはいけないといつも言っている。
私的なお付き合いといっても、半分は公的なお付き合いだが、たくさんありすぎて、書ききれない。そのうちの一つだけ写真のあるものについて、
以下は2008年まで僕のブログは楽天のブログでその頃のものだ。

2008 4月12日 真野先生退官記念パーティ

 4月12日、帝国ホテルで行われた、東京医科歯科大学教授、真野先生の退官記念パーティに行った。真野先生はダイビング関係者には、説明する必要がないだろう。
 このところ、全然潜りに行っていない。ログを見たら、3月29日が最終だ。半月海にでていない。そろそろ狂いそうになる。
 真野先生には、本当にお世話になっている。困ったときには真野先生だのみだったことが何回か。僕のお願いを聞いてくれなかったという記憶がない。これは本当にすごいことなのだ。パーティに行ってみて、200人ぐらいの大パーティだが、知った顔が多いので驚いた。医学関係者以外の人脈が共通している部分が多いのだろう。知床の漁師の面々が勢ぞろいして来ていた。かつての、僕の知床エージェントである佐藤雅弘も来ていた。鮭定置の魚の値が良かったので、みんな金が有り余っているらしい。こっちは時化ていてイクラも買えないのに、まあ、みんな元気でお金があればめでたい。

 真野先生と、知床でスノーモビルに乗って遊んだ時の記念写真を引っ張り出してきた。真野先生と僕と真ん中が、高校生時代のまだ坊やの息子さんだ。その息子さんも今ではお医者さんになっていて、会場で挨拶されたら誰だかわからなかった。
 写真を出してみたら、当り前だけれど、面影が残っている。
 歳月だ。パーティ会場で、僕がまだもぐって仕事をしていること、みんなに驚かれる。酒も煙草ものまないからだ。と答えることにしている。もう少し、あと10年、潜水仕事をさせてください。
 真野先生の後を引き継ぐ、山見先生に、僕が減圧症になって時の予約をしておいた。答えは、いつでもどうぞということだった。

 写真を見ると、86年3月と見える。こういう時に写真に日付が入っていると本当に助かる。この頃では、デジカメで撮る写真のほぼ全部に日付を入れている。
 で86年というと、須賀潮美のニュース・ステーション、水中レポートシリーズが始まった年で、そのニュース・ステーションも知床の流氷の撮影から始まった。
 この時なぜ、真野先生が知床にいたのか記憶を手繰ると、知床斜里の定置網漁師ダイバーが減圧症関係のアドバイザーとして、そして減圧症にかかった時のよりどころとして真野先生にお世話になっていて、その斜里定置網組合の潜水部の何周年記念かで式典があり、それに出席された、多分主賓だったと思う。僕も末席に呼ばれていた。斜里の定置網と僕との関係は月刊ダイバーに書いたが、定置網ダイバーの兄貴株であった佐藤雅博が、僕の知床でのエージェント、流氷の撮影も雅博の助力で始め、そして継続していた。
 斜里には自動車代理店を営む佐野さんという、雅博の兄貴分がいて、スノーモビルのチャンピオンだった。そして、真野先生、息子さん、そして僕がスノーモビルで遊んだ。
 そんなかかわりで、昨夜のお通夜にも知床代表として、佐藤雅博が来るというので、会えるかと期待して行ったが彼は今日の会葬に出席とかで会えなかった。

 そんな昔の話が、思い出せば際限もなく、真野先生とはある。先生が教授になった時、ヴアンティアンに招待した。そのもっともっと前、海中開発技術協会でもずいぶんお世話になり、そのもっと前の記憶はない。だから、1970年代からのお付き合いだ。さらっというけれど、40年余りだ。すべての事には終わりがあるが、、、、、


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