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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0219 要約するとー2

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  バリ島の漂流のこと、この数日振り回さら、ブログも書いたのだが、現時点での論評とか、予想は控えるようにと、忠告され削除した。僕は走りながら考えることが多い。意見を出して、反応を聴いてまた考えを変える。つまりディベート的な方向だ。しかし、人の生き死にかかわることだし、業界もかかわりが強い。内輪での忠告であり、正しいので削除した。
漂流事故についてはフェイスブックに最終的な意見を書いた。
「漂流事故については、もう、忘れたようにしましょう。結論がどこかで出たら、考えて、ブログで意見を述べます。ただ、いえることは、現地からの情報に一喜一憂したことは決して悪いことだとはおもっていません。その一喜一憂で、それぞれ、たくさんいろいろなことを考えたはずです。ヘリを飛ばす費用が僕たちの常識を超えて集まったことも、誰も知らない、だれも一喜一憂しなければ、費用を募金することもないでしょうし、そんなお金も集まらないでしょう。一喜一憂することが悪いことではないと同様に、募金も悪いことではないとおもっています。ここでまた物議を醸す発言かもしれませんが、一切の制限に類することは好きではありません。夢と冒険を求めて、自己責任で海に潜ります。自己責任とは、過ちは過ちとスッキリ認めて、次の活動に、自分の意志で情報を集め検討し安全対策を考えることです。」

さて、
要約すると 2 だが、書くことは書けるのだが資料集めと、写真集めがあるのでおいそれ、とはかけない。少し進める。
 0212 要約すると -1 
 前回が0212だった。それに続いて

 書くことも嫌いではなかった。きっと、男の大部分がそう思うように、ヘミングウエイのように書きたかった。ヘミングウェイはともかくとして、海とダイビングをテーマにした小説は書けたと思う。しかし、モノを書く努力は、小説ではなくて、教本的な本を書く方向に向けてしまった。最初に書いた本が「アクアラング潜水」1966年 で日本潜水会を一緒に始めた浅見国治と共著だった。日本語で書かれた初めてのスクーバダイビングの教本だった。次に、書いたのは「水中写真の撮影」1972年で、これは大学の後輩にあたる小池康之と共著だった。


僕は本を書くときに必ずと言ってよいほど共著で書く。教本の場合には、そのほうが視角も広くなるし、お互いの勉強になる。そして、1978年、盟友の後藤道夫と共著で、「潜水と水中撮影入門」を書いた。ちょっと前後するけれど1972年に新宿の高層ビル、住友三角ビルに潜水専用の水深10mプール DOスポーツプラザが「新宿に海ができた」というキャッチフレーズでオープンし、最初のダイビングブームと言える状況になった。そのDOの主任教師になった竜崎秀夫と共著で1976年に「スポーツダイビング入門」を書いた。この本をテキストにしてダイビングを習ったという人が、今のダイビングで一番古い世代になっている。

本業は調査潜水とテレビ番組の撮影になっていたが、日本潜水会から全日本潜水連盟へと、スポーツダイビングの指導にも時間を割いていた。スポーツダイビングの安全と発展は、僕の役目だとおもっていたが、スポーツダイビングでは生活できなかった。つまり、スポーツダイビングでお金を稼ぐ気持ちになれなかった。悪いアマチュアリズムであり、商売人になれなかった。そのことが、僕のスポーツダイビング分野での失敗に繋がったと、後で思うが、後の祭りで、みんなに迷惑をかけている。
この時代にこれだけの本を書いていれば、十分にビジネスにつなげることもできただろう。でも、夢と冒険を追う、テレビ撮影とリサーチダイビングでお金を稼ぐ方が性にあっていた。
話を「スポーツダイビング入門」にもどして、この本では、まだBCを使っていない。救命胴衣を着けている。

救命胴衣の最初は、1950年代、アクアラングが日本に入って来たときからある。クストーの映画「沈黙の世界」ではだれも救命胴衣はつけていなかったが、アメリカの兵隊は、航空機用のライフベストを着けていた。アメリカの兵隊にダイビングを習ったという流れもあるので、そのライフベストを譲り受けて使っている人がいた。舘石さんもその一人だった。
航空機用のライフベストは、炭酸ガスカートリッジで膨らませるもので、アメリカ空軍の装備だから、小さくて恰好がよい。別名、メイウエストと呼ぶ。戦争中のハリウッドにメイ・ウエストという胸の大きいグラマー女優がいて、この救命胴衣を着けると胸の辺りがメイ・ウエストになる。これは、とても良いベストだったが、市販ではないので補充が効かない。船舶用にも同じような炭酸ガス膨張用の救命胴衣があり、これを使うのだが、これはメイウエストのように恰好が良くない。だから、僕たちは救命胴衣を着ける派、と着けない派にわかれた。全員着けるようにと潜水士の規則には定められたが、ウエットスールの浮力があるのだから、ウエイトを捨てれば、溺れようとして溺れられるものではないし、獲物を求めて岩ノ下に身体を入れた時に引っかかって死ぬかもしれない。そんな時代だった。

    救命胴衣つけない派 鶴耀一郎 着ける派 野田充彦(学習院大学)

炭酸ガスカートリッジの救命胴衣は、封板を突き破ると使い捨てである。水面で浮くために使ってしまえば後がない。僕は東亜で、小さい空気ボンベを着ける救命胴衣を作った。そして、背中のボンベから移充填できるようにしたが、これは水中で出来るわけではない。使った後で、陸上で補充できるだけだ。

     僕の作った移充填式BC


      フェインジイ

そして、次にヨーロッパから、フェンジイというメーカーのライフジャケットが出た。これがBCの原型だろう。小さな移充填できるボンベの他に、背中のタンクから中圧ホースで、蛇腹に空気を入れることができる。これを見た時に「やられた」と悔しかったが、なぜ僕が思いつけなかったのか。
そのころ僕の作っていたレギュレーターは、ダブルホースだった。シングルホースもあったが、まだ、ダブルホースが良いかシングルが良いか論争中だった。シングルホースを作っていれば、これを救命胴衣に導くという発想が出てきたかもしれない。
このフェンジイ救命胴衣ができて、ダブルホースの息の根が止まった。今ではリブリーザーがダブルホースで、開放式のスクーバはすべてシングルホースである。
フェンジイと同じような胸掛け式の(ホースネックとも呼ぶ)BCが使われるようになったが、これはABLJ (Adjustable-Buoyancy-Life-Jacket )と呼ばれ、一般に普及した。そして、BCの最初の型ともいえるスタビジャケットが売り出されるのが1977年ごろである。そして、日本で本格的にBCが普及するのは1982年以降だろう。

    胸掛け式BC ホースネック(馬の首型)



一方で、胸掛け式のBC(ABLJ)をタンクとハーネスの間に挟み込んだBCを自作する人もいた。スガ・マリンメカニックの加藤君がそれを愛用していた。神奈川水産試験場の工藤さんもそれを使っていた。バックフロートBCの始まりである。加藤君と一緒に潜ると、減圧停止をするときに僕がロープにつかまっている横で、きれいな姿勢の中性浮力で止まっている。しかし、僕はこの技術を学ぼうとはしなかった。
最初、僕たちはBCをスポーツダイビングに導入することには反対した。溺水防止ならば、ライフジャケットで良いではないか。理由は、操作を誤って急浮上して、空気塞栓になる可能性があるということだった。事実、BCの使い方がわからずに急浮上して、何らかの障害になった人も居たはずだ。まだ、少しずつ空気を入れたり出したりという使い方も知らなかった。そこで、浮上する時にはまずBCの空気を全部抜いて、フィンキックだけで浮上して、水面に到達したら空気を入れるというライフジャケット的な使い方をすることにしていた。
この浮上方法は、かなり後まで実行されていたから、この方法での浮上を教えられた記憶のあるダイバーもまだかなり残っているだろう。

しかし、スタビジャケットはかなり便利で、これを使うと良いですよ、などと、法政のOBでDOスポーツプラの主任コーチであり、スポーツ大会のチャンピオンである青木順一に勧められたことを記億している。そして、やがて、僕もBCを使っての浮上する方法を覚え、BCの空気を抜きながら、フィンキックをほとんどしないで浮上する方法も身に着けたが、ダイビングが下手になると思った。まだ、そして今でもプロのダイバーはBCを着けることを嫌い、着けると堕落したと思っている人もいる。BCを着けると引っかかるのだ、いまだに海保や、海上自衛隊のダイバーがBCを着けないのも同じ理由だろう。これは、いまでもリザーブバルブを使っていることとも関係があり、ジャケット型のBCでは、リザーブが使えないのだ。彼らが救命胴衣(救命身)を着けるとすれば、胸掛け式のBCであり、これならばリザーブバルブのプルロッドを引くことができる。
そして、スタビが普及する、その頃にはもう、僕の昔のスタイル、スポーツダイビング入門のスタイルのスポーツダイビングは、古いものになっていた。しかしまだ、中性浮力で浮き漂うというダイビングは、市民権を得ていない。つまり、まだ個人の技術であって、一般化はしていない。
 ここまでも、そして、ここから先もダイビングのスタイルはBCの進化、BCの形、BCの使い方によって変化し、進化してゆくことになる。

そして、PADIは、「泳がなくても潜れます」というキャッチフレーズで全国をそして全世界を風靡し始めた。スイミングが上手な者が、スキンダイビングが上手になり、スキンダイビングが上手な者がスクーバダイビングが上手になるという事を金科玉条としている僕たちは、これをとんでもないことだと言ったが、なに、自分の周囲を見ても泳ぎが下手なダイバーが沢山いる。ホースで潜るヘルメット式は歩くダイバーだし、ヘルメットから転じたフーカーのダイバーは、フィンを履かない。港湾作業の石均しなどでは、フィンが邪魔になるのだ。話が横道にそれたが。
そしてC-カードが生まれる。

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