2月15日、本当に大雪。外に出ていないで、心も体も外に出ないで、固まっている。ブログを隔日に書きたいと決めて、これは仕事だと、しているのだが、こんな雪の日はなにも書けない。オリンピックを見る。普段その競技のフアンでない人も熱中してみる。男の子のフィギユアなんて見るのは、オリンピックだけだし、女の子のジャンプも始めてみる。男の子、女の子のオリンピックだ。女の子は勝てなかったけれど、敗れた者の涙って良いものだ。このランクまで行くと、心の問題が大きく結果を左右する。そして、ジャンプは自然との闘いでもある。
海にほとんど行けていないと自然を忘れてしまう。そのことのフラストレーションで、病気になっている。ずいぶん昔、多分1980年代だったが、そのころも、都会に居る時はいつも病気と「海の世界」という今はもう無い雑誌に書いたことがある。病気だから書けない。
A.E ホッチナー 「パパ・ヘミングウェイ」読了した。 ヘミングウェイ関連で、日本で出ているものは、ほとんど読んでいるから、これも読んだはず、と思う。もしかしたら、この前読んだ時も、おなじように、前にも読んだ気がするとおもった記憶がある。ヘミングウェイのこの手のノンフィクションとしては、一番面白いと思いながら三分の二を読んだ。後半三分の一は、ヘミングウェイの悲惨な死だ。やはり読んだことがあると思いつつ読んだ。しかし、この文庫は1989年に出したものだが、著者の追記がでている。この本の出版、そして、よく売れたのだが、メアリ・ヘミングウェイからプライバシーの侵害だとして訴えられ、長く抗争が続いていた。本文では、メアリに対して、ヘミングウェイを支えた妻というスタンスは崩していないが、この追記では、ヘミングウェイの自殺の原因の多くの部分が、メアリとの確執、夫婦げんかのひどいものだったことが書かれている。本当はどうだったのかわからないが、多分争っていたのが本当だろうが、ノンフィクションとして、本文で書いたことを追記で完全否定されると不愉快な気持ちになる。しかし、それも真実というものだろう。
最晩年に書かれた、パリでの若いころ、最初の妻ハドリーと暮らした時代のことをかいた「移動祝祭日」は、一番読みやすく好きな本なのだが、ハドリーが中心だから、これが四番目のメアリにとっては気に入らなかったのだろう、とも書いている。そして、ヘミングウェイが亡くなってから、メアリたちがまとめた、「海流の中の島」は、ヘミングウェイの海とのかかわりを考えたら、一番気に入る作品になって良いはずだが、ヘミングウェイも生前出版しなかったし、僕も好きな作品ではない。前に読んだときには、前半は良くて熱中して呼んだが、後半、放り出してしまった。もう一度、前半だけでも読もうと思ったが、今度は前半も読めなかった。ヘミングウェイは複雑な作家だ。
ハバナのアンボス・ムンドスホテルの北東の角にある部屋は、北に向かって古い大寺院を越えて、港の入口、海、東はカサブランカ半島、そこに開ける家並、港全体が見渡せる。これはある宗教の教義に反することかもしれないが、足を東に向けて寝ると、カサブランカ側からのぼって、開け放した窓にさしこむ太陽は、諸君の顔に輝いて、前の晩君がどこにいて何をしようとそんなことにはおかまいなしに目をさまさせてしまう。もし起き出すつもりが無かったらベッドの上でぐるりと一回りするなり、寝返りをうつこともできる。そんなことをしてもあまり役に立たない。なにしろ日ざしがつよくなってきて、シャッターを閉めるしかないからである。
シャッターを閉めるために起きだして港を隔てた要塞の上の旗を眺めると、それがまっすぐこちらを向いていることに気がつく。きみが北の窓からモロを眺めるとなめらかな朝の光彩がいちめんにさざめくのに気がつき、早くも貿易風がやってくることがわかる。きみはシャワーを浴びて着古したカーキ色のズボンとシャツを着こみ、乾かしておいたモカシンの靴をはき、もう一足の方は窓に出しておく、そうすれば明日の晩は乾くのだが、エレベーターのところまで歩いて行って階下におりる。受付で新聞をうけとり、角のキャフェに歩いて行って朝食をとる。
朝食をとるにしても二つの正反対の流儀がある。二、三時間は魚釣りに出かけないつもりなら、上等な本式の食事がふさわしいだろう。ともかくそれも良いことなのだが、私としてはそんなことを信用するわけにはいかないので、ヴィシー水を一杯、冷たいミルクを一杯飲み、キューバのパンを一枚食べて新聞に眼をとおし、ボートに向かって歩いて行く。ヨットを綱で止めてこの日ざし一杯にさらしておいたので、それ以上綱で藻やっておきたくないのである。
船尾いっぱいに冷蔵庫を置いて一方に餌を冷やし、反対側にビールと果物を冷やしておく。大きなマーリンに一番良い餌は新鮮なさばの類か、1ポンドから3ポンドほどのキングフィッシュである。いちばん上等なビールは「ハチェイ」で、いちばん上等な果物は、シーンの季節のフィリッピン産のマンゴー、冷凍のパイナップル、アヴォガドである。ふつう、昼食には唐辛子と塩をきかせたサンドイッチ、新鮮なしぼりたてのライム・ジュースといっしょにアヴォガドを食べる。・・・・・
これは、「モロ沖のマーリン」キューバ通信、エスクヮイア 1933年秋 で、僕は1933年から1934年の数回にわたるキューバ通信が、ヘミングウェイの中で一番好きで、そのいくつかは「ヘミングウェイ釣り文学全集「下巻・海」に収録されているが、このモロ沖のマーリンは全集にしか入っていない。昔はヘミングウェイ全集の廉価版[三笠書房)を持っていたのだが、引っ越しを続けているどこかに置いてきてしまったので、ない。図書館でコピーして持っている。
こういう文章がダイビングについて書けたらいいと思っているうちにものを書く才能が失せてしまった。もっとも失せたのか、最初からないのかわからないが、とにかく今は無い。
そして、訳文の問題がある。「老人と海」は、唯一僕が高校時代に英文で読み、翻訳した本だった。その翻訳は夏休みの英語の宿題で、提出したら、これは訳ではないと点がわるかった。超訳だった。残念なことにこれもどこかに失せてしまったが、以来、老人と海の訳を読んで、良いなと思ったことが無い。英文の本を読むという事は誰も、頭の中で超訳をしているのだとおもう。もう一回ヘミングウェイのキューバ通信あたりを英文で読みたいと思っているが、そのチャンスがない。
ブログが書けないのは、今のダイビングが、複雑化しすぎてロマンがなくなってしまったように思うからかもしれない。1980年代のハワイでのダイビングあたりなら、ヘミングウェイのように書けるかもしれない。いや、そんなことは無いか、今の、21世紀のダイビングだって書けないことはないだろうが、海に行かないで、雪の東京に閉じこもっていたのでは、どうすることもできない。
海にほとんど行けていないと自然を忘れてしまう。そのことのフラストレーションで、病気になっている。ずいぶん昔、多分1980年代だったが、そのころも、都会に居る時はいつも病気と「海の世界」という今はもう無い雑誌に書いたことがある。病気だから書けない。
A.E ホッチナー 「パパ・ヘミングウェイ」読了した。 ヘミングウェイ関連で、日本で出ているものは、ほとんど読んでいるから、これも読んだはず、と思う。もしかしたら、この前読んだ時も、おなじように、前にも読んだ気がするとおもった記憶がある。ヘミングウェイのこの手のノンフィクションとしては、一番面白いと思いながら三分の二を読んだ。後半三分の一は、ヘミングウェイの悲惨な死だ。やはり読んだことがあると思いつつ読んだ。しかし、この文庫は1989年に出したものだが、著者の追記がでている。この本の出版、そして、よく売れたのだが、メアリ・ヘミングウェイからプライバシーの侵害だとして訴えられ、長く抗争が続いていた。本文では、メアリに対して、ヘミングウェイを支えた妻というスタンスは崩していないが、この追記では、ヘミングウェイの自殺の原因の多くの部分が、メアリとの確執、夫婦げんかのひどいものだったことが書かれている。本当はどうだったのかわからないが、多分争っていたのが本当だろうが、ノンフィクションとして、本文で書いたことを追記で完全否定されると不愉快な気持ちになる。しかし、それも真実というものだろう。
最晩年に書かれた、パリでの若いころ、最初の妻ハドリーと暮らした時代のことをかいた「移動祝祭日」は、一番読みやすく好きな本なのだが、ハドリーが中心だから、これが四番目のメアリにとっては気に入らなかったのだろう、とも書いている。そして、ヘミングウェイが亡くなってから、メアリたちがまとめた、「海流の中の島」は、ヘミングウェイの海とのかかわりを考えたら、一番気に入る作品になって良いはずだが、ヘミングウェイも生前出版しなかったし、僕も好きな作品ではない。前に読んだときには、前半は良くて熱中して呼んだが、後半、放り出してしまった。もう一度、前半だけでも読もうと思ったが、今度は前半も読めなかった。ヘミングウェイは複雑な作家だ。
ハバナのアンボス・ムンドスホテルの北東の角にある部屋は、北に向かって古い大寺院を越えて、港の入口、海、東はカサブランカ半島、そこに開ける家並、港全体が見渡せる。これはある宗教の教義に反することかもしれないが、足を東に向けて寝ると、カサブランカ側からのぼって、開け放した窓にさしこむ太陽は、諸君の顔に輝いて、前の晩君がどこにいて何をしようとそんなことにはおかまいなしに目をさまさせてしまう。もし起き出すつもりが無かったらベッドの上でぐるりと一回りするなり、寝返りをうつこともできる。そんなことをしてもあまり役に立たない。なにしろ日ざしがつよくなってきて、シャッターを閉めるしかないからである。
シャッターを閉めるために起きだして港を隔てた要塞の上の旗を眺めると、それがまっすぐこちらを向いていることに気がつく。きみが北の窓からモロを眺めるとなめらかな朝の光彩がいちめんにさざめくのに気がつき、早くも貿易風がやってくることがわかる。きみはシャワーを浴びて着古したカーキ色のズボンとシャツを着こみ、乾かしておいたモカシンの靴をはき、もう一足の方は窓に出しておく、そうすれば明日の晩は乾くのだが、エレベーターのところまで歩いて行って階下におりる。受付で新聞をうけとり、角のキャフェに歩いて行って朝食をとる。
朝食をとるにしても二つの正反対の流儀がある。二、三時間は魚釣りに出かけないつもりなら、上等な本式の食事がふさわしいだろう。ともかくそれも良いことなのだが、私としてはそんなことを信用するわけにはいかないので、ヴィシー水を一杯、冷たいミルクを一杯飲み、キューバのパンを一枚食べて新聞に眼をとおし、ボートに向かって歩いて行く。ヨットを綱で止めてこの日ざし一杯にさらしておいたので、それ以上綱で藻やっておきたくないのである。
船尾いっぱいに冷蔵庫を置いて一方に餌を冷やし、反対側にビールと果物を冷やしておく。大きなマーリンに一番良い餌は新鮮なさばの類か、1ポンドから3ポンドほどのキングフィッシュである。いちばん上等なビールは「ハチェイ」で、いちばん上等な果物は、シーンの季節のフィリッピン産のマンゴー、冷凍のパイナップル、アヴォガドである。ふつう、昼食には唐辛子と塩をきかせたサンドイッチ、新鮮なしぼりたてのライム・ジュースといっしょにアヴォガドを食べる。・・・・・
これは、「モロ沖のマーリン」キューバ通信、エスクヮイア 1933年秋 で、僕は1933年から1934年の数回にわたるキューバ通信が、ヘミングウェイの中で一番好きで、そのいくつかは「ヘミングウェイ釣り文学全集「下巻・海」に収録されているが、このモロ沖のマーリンは全集にしか入っていない。昔はヘミングウェイ全集の廉価版[三笠書房)を持っていたのだが、引っ越しを続けているどこかに置いてきてしまったので、ない。図書館でコピーして持っている。
こういう文章がダイビングについて書けたらいいと思っているうちにものを書く才能が失せてしまった。もっとも失せたのか、最初からないのかわからないが、とにかく今は無い。
そして、訳文の問題がある。「老人と海」は、唯一僕が高校時代に英文で読み、翻訳した本だった。その翻訳は夏休みの英語の宿題で、提出したら、これは訳ではないと点がわるかった。超訳だった。残念なことにこれもどこかに失せてしまったが、以来、老人と海の訳を読んで、良いなと思ったことが無い。英文の本を読むという事は誰も、頭の中で超訳をしているのだとおもう。もう一回ヘミングウェイのキューバ通信あたりを英文で読みたいと思っているが、そのチャンスがない。
ブログが書けないのは、今のダイビングが、複雑化しすぎてロマンがなくなってしまったように思うからかもしれない。1980年代のハワイでのダイビングあたりなら、ヘミングウェイのように書けるかもしれない。いや、そんなことは無いか、今の、21世紀のダイビングだって書けないことはないだろうが、海に行かないで、雪の東京に閉じこもっていたのでは、どうすることもできない。